流れのままに

流れのままに おのが道をゆけ ひたすらに ひたむきに

日本は疲れています。日本は自信をなくしています。
日本人は彷徨(さまよ)い続けています。

戦後,ものを作り,ものを売って高度経済成長を果たした日本は,この半世紀を爆走しながら,富の代わりに何を手放し,何を見失ってきたのでしょう。
無国籍風の若者たちが集う街では,崩れた日本語が氾(はん)濫し,乱れた性が行き交い,刹那(せつな)主義的なにぎやかさが日常の風景と化しています。
だが,楽しげに遊ぶ若者たちほど,ふと寂しげな表情を見せるのは何故(なぜ)でしょう。
若者たちを横目で見ながら,「昔は良かった」と嘆く大人たちの眼(まな)差しの奥に,疼(うず)くような情熱が消えずに残っているのは何故なのでしょう。
若者たちも大人たちも,日本人すべてが,人生の土台となる「熱い何か」を探して,時代と闘っているのかもしれません。

その昔,小さなパン1個で,満たされ癒(いや)されたことはありませんか?
飽食の昨今,ご馳ち走を食べながら,心の空腹を感じたことはありませんか?

富を得て,日本も,日本人も,お金で買えるものを買いすぎました。
衣食足りたあとの富は,時として人間を豹(ひょう)変させ,礼節を忘れさせ,国の生命力さえも萎(な)えさせます。
おなかをすかせた心に尋ねてみましょう。
「欲しいものは何ですか?」「それは,この目に見えるものですか?」

狂想曲は鳴り終わりました。
立ち止まって,青空を見上げてみませんか。
久しぶりに大地と話してみませんか。
日本は今,日本を蘇よみがえらせる「日本人の熱いちから」を待っています。


2002(平成14)年12月5日、2001(平成13)年小泉内閣で民間初の文部科学大臣として入閣した遠山敦子女史(1938年12月生)へ、文化審議会会長高階秀爾氏(1932年2月生)から「文化芸術の振興に関する基本的な方針について」の答申がありました。この「大地からの手紙」は、答申の冒頭に文化審議会のメンバーの思いとして付されたものです。

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流れのままに

昨日は対馬丸の慰靈祭。那覇市の碑「小桜の塔」で開かれました。75年目です。

サイパン島が占領後の1944年8月21日、学童疎開船「対馬丸」が那覇港から長崎に向けて出港。翌22日午後10時12分、鹿児島県の悪石島沖で米潜水艦ボーフィン号の魚雷攻撃を受け、11分後の同23分に沈没。子ら1500人近くが犠牲になった事件です。対馬丸撃沈による犠牲者(氏名判別者数)1,482名の内、その半数784名が学童でした。(平成28年8月22日現在・対馬丸記念館の調査による)

1937(昭和12)年7月7日から大東亜戦争(Greater East Asia War)が勃発。1941(昭和16)年12月8日に大日本帝国海軍攻撃隊の真珠湾攻撃(Attack on Pearl Harbor)により、アジア・太平洋戦争(Asia-Pacific War)を始めます。昭和19(1944)年6月、大日本帝国軍の南方の防衛線であったマリアナ諸島のサイパン島に合衆国軍が上陸、帝国陸軍との激しい戦闘となり、7月7日に守備隊は玉砕。日本の委任統治領だった関係でサイパン島には2万人強の民間の日本人が戦前から居住していました。戦闘終了後、アメリカ軍は非戦闘員14,949人を保護収容。内訳は、日本人10,424人・朝鮮半島出身者1,300人・チャモロ族2,350人・カナカ族875人です。逆算すると8,000人〜10,000人の在留邦人が死亡したとみられます。サイパン島を占領した合衆国軍は、同島からB-29爆撃機を出撃させることで、無着陸で北海道・東北北部を除く日本のほぼ全土を空襲できるようになり、ここを拠点として日本本土への空爆を開始。日本ではサイパン島の陥落は国防上重大な敗北と捉えられ、東条英機内閣の東条首相が責任をとって辞任、小磯国昭陸軍大将が内閣を継承しました。しかし、戦局を立て直すことは出来ませんでした。

また昨日は、合衆国軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の名護市辺野古への移設に反対し、昨年8月8日に急逝した前沖縄県知事の翁長雄志(おなが たけし)さん(享年67)を偲ぶ会が、同県豊見城(とみぐすく)市の沖縄空手会館で開かれました。
参照:Japan's Bravest Man 日本一勇敢な人物

戦争は何の前ぶれもなく、突然に起こるわけではありません。何年もかけて、戦争へ向かう精神が国民国家 (Nation-state)に育まれていくものです。船とともに命を奪われた多くの子らがいました。かれらの家族そして先生たちのことを知って忘れずに、対馬丸の事件がなぜ起きたのかを見つめ直すことで、危険な時代に突入している今の世界に氣づく必要があります。

大きな笑顔で邪氣を払って参りましょう。

小桜の塔
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 対馬丸撃沈から60年後の2004(平成16)年8月22日に、国の慰謝事業として対馬丸記念館が開館。→ http://tsushimamaru.or.jp/
 愛知県のすずしろ子供会(会長 河合桂・当時)が、沖縄に子らのための慰霊塔がないので、自分たちの力で是非作りたいと一円募金を始め、愛知県知事をはじめ同県の大きな協力によって沖縄に贈られました。
 建立にあたっては、波上山護国寺の住職 名幸芳章大僧正が尽力し、昭和29年(1954)5月5日の子どもの日に除幕式が行われました。
 塔は船首を那覇港に向け、旭が丘公園の展望台を挟み対馬丸記念館の反対側に建っています。 (デザイン:玉那覇正吉氏)
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流れのままに

新渡戸稲造(1862年9月〜1933年10月)の家に書生として住み込みをし、鶴見祐輔(1885年1月〜1973年11月)・前田多門(1884年5月〜1962年6月)・岩永裕吉(1883年9月〜1939年9月)とともに「新渡戸四天王」と呼ばれた人物がいます。名古屋市生まれの無教会主義(Non-church Movement)キリスト教徒であった田島道治(たじま みちじ)さん(1885年7月〜1968年12月)です。

彼は東京帝国大学法科大学卒業、先の大戦前は後藤新平・鉄道院総裁秘書や昭和銀行頭取などを歴任します。昭和銀行は、昭和金融恐慌後の金融破綻の収拾策の一つとして、1927(昭和2)年に井上準之助らの肝いりで設立。田島さんは同銀行常務取締役、次いで頭取に就任し債権返済と破綻銀行の査定を実施します。昭和銀行頭取の退職金を担保にして1937(昭和12)年、「明協学寮」(学生寮)をつくり、人材育成を試み、彼は週に1回、早朝論語の講義を行うのです。 先の大戦後は大日本育英会会長や貴族院議員(1946年7月勅選)を経て1948年6月から53年まで宮内府(宮内庁)長官。退官後は日本銀行監事(1954年)、東京通信工業株式会社(後のソニー)の監査役に就任し、ソニー会長(1959年)、ソニー商事取締役(1961年)を務めます。なお彼の長男(学習院大学名誉教授)の 妻は元外相・松岡洋右(1880年3月〜1946年6月)の長女です。

田島さんは、昭和天皇との約600回の面会でのやりとりを詳述した文書(手帳やノート計18冊)を残していました。昨日19日、NHKは遺族の同意を得た部分のみを抜粋して公開しました。全体は未公開です。
1952年の紀元節(2月11日)、昭和天皇は田島さんに「今となつては他の改正ハ一切ふれずに軍備の点だけ公明正大に堂々と改正してやつた方がいゝ様ニ思ふ」と述べています。大多数の連合国との間の戦争状態を終結するために締結したサンフランシスコ講和条約発効(1952年4月28日)と憲法施行5周年を祝う1952(昭和27)年5月3日の式典を控えたタイミングでのご発言。

日本国憲法第9条2項の『前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。』には、連合国軍最高司令官マッカーサー(Douglas MacArthur:1880年1月〜1964年4月)の交戦権否認を通じた、日本の自衛権を否定する意図が込められています。

陛下は、自衛権は国際法上の概念であり、自衛権を国内法である日本国憲法で制約するのはおかしいと喝破なさっていたことが分かります。


大きな笑顔の佳き火曜日を。

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流れのままに

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