流れのままに

流れのままに おのが道をゆけ ひたすらに ひたむきに

二〇〇五年神無月

798dd3cf.jpg 先ほど、午前9:15にペリカン便で一冊の本が届いた。アマゾンに出版前予約していた藤原肇博士の『小泉純一郎と日本の病理』である。

 ペーパーバックス・スタイルの手頃な337ページの書物で、税込1,000円の良心的な価格がうれしい。本書を紐解くことで、わが日本がこれからいかにとんでもない時代を生きることになったかの仕組みが良く分かるようになっている。勇氣ある内容と情報を持った待望の書である。
 小泉政権が今後の日本人及び日本国をどこへ導いていくのか?に対する藤原博士の回答は294ページに記されている。これが事実になりつつあることを、本書を読了したわれわれは感受するであろう。

 「果たして、小泉政権は今後の日本と日本人をどこへ導いていくのか?
  私の答えは、簡単である。それは間違いなく、地獄である。(後略)」

感謝

a5ff1580.jpg 今朝も太陽がありがたい☆
 壮快な秋晴れの一日が始まる。

 今日10月24日は、トリコロール記念日。

 1794年、フランス国民公会が、現在フランスの国旗となっている青・白・赤の『トリコロール(三色旗)』を国家の象徴と定めたことによる。トリ(tri)は「三」で、コロール(colore)は「色」のこと。三色は青・白・赤で、フランス革命時のスローガン「自由・平等・博愛」を象徴しているが、色そのものに意味があるわけではなく、三色で三つの意味を象徴している。

 1789年のフランス革命の時、市民軍はパリ市の色である赤と青の帽章をつけた。革命が全国に広がって市民軍は国民軍となり、その国民軍司令官に任命されたラファイエットは、「市民と王家が協力して新しい国を作るべき」と、ブルボン家の色である白を赤と青の間に入れて帽章に採用したのが始まり。王政は1791年に廃止されたが、この三色を使った三色旗は国民軍のシンボルとなった。

 ところで、バーバーズ・ポール(理髪店の三色看板)も赤・青・白である。以前、「自由・平等・博愛と理髪店の関係を述べよ」という問題を出したことがあったが、感動する答案にはお目にかかれなかった。

 バーバーズ・ポールの赤は動脈、青は静脈、白は包帯と伝えられているが…。実は、中世の頃の理髪師は「理髪外科医」と呼ばれ、修道院などで仕事をしていた。髪や髭を切る他に、静脈から血を少し抜き出す瀉血(しゃけつ)という治療や、やけどや骨折、抜歯などの治療も行っていた。
 理髪店の目印として当初は、血を集める皿が店頭には吊されていたが間もなく禁止された。瀉血の際、患者は棒を握り腕から出た血は受け皿で受けるようになっていた。棒に血が垂れることも多く、棒は最初から真っ赤に染められた。そして、この棒がバーバーズ・ポールと呼ばれるようになった。
 また当時は治療のあと、止血用の包帯は非常に貴重で何度も洗って再利用していた。バーバーズ・ポールを軒先にさし、そこに包帯を巻き付けて干したことからやがて、紅白の螺旋模様のポールが理髪店の看板となった。
 そして、理髪師と外科医の組合が分離したのを境に、1745年、イギリスで、理髪師は赤・青・白の看板、外科は紅白の看板を掲げるように決められた。これが理髪店の三色看板の由来である。

 みなさん、この秋は大いに白いものをお召し上がりくださいな☆
 元氣が湧きますゾ!

 感謝

※写真は想い出のサクレクール大聖堂@モンマルトルの丘

2f3bc694.jpg 鞍馬は京都市左京区、鞍馬山麓の鞍馬川沿いにひらけた集落で、上賀茂から丹波へ通じる鞍馬街道が通る。駅のホームに天狗の面が飾ってあり、駅には巨大な天狗の頭部が置かれている。天狗の里である。

 鞍馬の由岐神社に伝わる『鞍馬の火祭』に向けにむけて、静かな山里・鞍馬本町では、たいまつ造りなどの準備作業が先週から始まり、祭りへの熱気が高まっている。たいまつは油分の多いツツジの柴を、フジの根でスギの木に縛り付けて造る。大人用は、最大で長さ4メートル、重さは100キロを超える。幼児用は長さ約1.2メートル、重さは約10キロ。
 いよいよ今夜、10月22日午後六時に始まる。「サイレイ、サイリョウ」の掛け声が響く中、大小六百本の松明(たいまつ)の炎が夜空を彩る。昨年の見物客は、京都府警によると、一万二千人であった。

 平安時代中期、平将門の乱や大地震など、動乱や天変地異が相次いだ。940(天慶3)年、世の中の平安を願って、朱雀天皇の詔で御所に祭っていた由岐明神を北方の鞍馬に遷宮することで、北の鎮めとした。その際、松明、神道具などを携えた行列は、十町(約1キロ)に及んだとされる。この行列に感激した鞍馬の住民が由岐明神の霊験と儀式を後生に残そうと伝え、守ってきた。

 午後六時「神事にまいらっしゃれ」の合図で、鞍馬街道沿いの民家の軒先にかがり火が灯される。トックリ松明を手にした幼児が、街道一帯を往来した後、小、中の松明を担いだ小中高生が加わり、最後に大松明を担いだ青年らが現れる。鞍馬太鼓が打ち鳴らされる中、「サイレイヤ、サイリョウ」と囃(はや)し、街道を練り歩く。松明の数は増え続け、午後九時ごろには鞍馬寺の山門下に松明を抱えた男たちが集まり、クライマックスを迎える。燃え盛る炎がひしめき、沿道でも熱さを感じる。合図とともに注連が切られると、大松明が石段に殺到して焼き捨てられる。

 その後若者が神輿(みこし)を迎えに石段を駆け上がり、祭りは「渡御」へ。神輿の前で幸神の儀が行われ、参道を下る際に石段を急に降りないよう、女性たちが綱を引く。一方、二人の若者は神輿を担い棒にぶら下がり、逆さ大の字に足を広げる。これは「チョッペン」と呼ばれ、かつて鞍馬の若者はこれを体験し、成人になるといわれていた。最後に、みこしはお旅所に戻される。午前零時過ぎ、鞍馬は静かな山里に生れ変わっている。

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■ 鞍馬寺(くらまでら)■
 昭和期の住職・信楽香雲(しがらきこううん)は、昭和22年(1947)に鞍馬弘教(くらまこうきょう)を開宗。1949年には天台宗から独立して鞍馬弘教総本山となっている。鞍馬山(くらまやま)のうち42万屬鮖領とし、三尊尊天(さんそんそんてん= 護法魔王尊・毘沙門天・千手観世音)を本尊とする。
 宝亀元年(770)鑑真和上(がんじんわじょう)の高弟・鑑禎上人(がんさいしょうにん)が夢告により毘沙門天を祀る草庵を結んだことに始まる。延暦15年(796)造東寺長官の藤原伊勢人(ふじわらのいせんど)が王城鎮護の寺として伽藍を建立。爾来、公武の信仰あつく、はじめ真言宗、平安末から天台宗に転じ、その後は延暦寺の末寺となった。
 中世以来、牛若丸伝説で名高く、また毘沙門天信仰が高まると、鞍馬御師とか願人坊主と呼ばれた法師が毘沙門天の粁仏(すりぼとけ)や鬼一法眼(きいちほうげん)の兵法虎の巻と称するものを広く配布して歩き、鞍馬信仰は庶民社会に定着した。
 軍記文学、謡曲、歌舞伎、浄瑠璃、浮世草子など、鞍馬を題材にした文芸がさらに当寺を庶民になじみ深いものとした。寺宝には国宝の本尊・毘沙門天ほか多くの仏像、鞍馬経塚の出土品などがある。
 鞍馬寺は、京都では親しみを込めて「くらまさん( 鞍馬山)」と呼ぶ。江戸時代には松尾山(しょうびさん)という山号があったが、今は山号を持たない。

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