流れのままに

流れのままに おのが道をゆけ ひたすらに ひたむきに

二〇〇六年卯月

dc304694.jpg おはようございます♪
 ゴールデンウィークの始まり☆
 昔は日本語で「黄金週間」と書いていたことをフト思い出した・・・。

 昨夜、ワイフから「昨日、千歳空港まで見送りに行って、バーイ、バーイと手を振ったとたんに、わたしも飛行機に乗ってどこかに行きたくなっちゃった。ねぇ・・・どこか行きましょうよ!」と望まれた。妙なことに、三木清の『人生論ノート』の「旅について」が想い出された☆

〜〜〜(引用開始)〜〜〜

 旅に出ることは日常環境を脱けることであり、平常の習慣的な関係から逃れることである。旅の嬉しさはかように解放される嬉しさである。ことさら解放を求めてする旅でなくても、旅においては誰も何等かの解放された気持ちになるものである。旅はすべての人に多かれ少なかれ漂白の感情を抱かせるものである。旅が漂白であることを身にしみて感ずるのは、車に乗って動いている時ではなくて、むしろ宿に落着いた時である。旅に出ることは日常の習慣的な、従って安定した関係を脱することであり、そのために生じる不安から漂白の感情が湧いてくるのである。

 旅は何となく不安なものである。どのような旅も、遠さを感じさせるものである。旅の面白さは半ばかよううに想像力の作りだすものである。旅は常に遠くて、しかも常にあわただしいものである。それだからそこに漂白の感情が湧いてくる。旅する者は為す者ではなくて見る人である。かように純粋に観想的になることによって、平常既知なもの、自明なものと前提していたものに対して我々は新たに驚異を覚え、或いは好奇心を感じる。

 人生は未知なものへの漂白である。人生の行路は遠くて、しかも近い。死は刻々に足元にある。旅は我々に人生を味わさせる。あの遠さの感情も、あの近さの感情も、あの運動の感情も、私はそれらが客観的な遠さや近さや運動に関係するものでないことを述べて来た。

 旅において出会うのは常に自己自身である。自然の中を行く旅においても、我々は絶えず自己自身に出会うのである。旅は人生のほかにあるのではなく、むしろ人生そのものだ。好奇心の根底にあるものも定めなき漂白の感情である。人はそのひとそれぞれの旅をする。旅において真に自由な人は人生において真に自由な人である。人生そのものが実に旅なのである。

〜〜〜(引用終わり)〜〜〜

 旅先はヨーロッパに決まった。
 「本当、本当、本当なの・・・わたし色々調べておくねぇ☆」
 ワイフが紫色の黄金に輝き始めた・・・。
 わがファミリーの「黄金週間」はこうして始まった。

 憧れ・希望・夢・志 ・・・ 持ちましょう☆

 感謝

9e0c96cf.jpg  周恩来の愛読書がドイツ人作家・シュトルムの『みずうみ(イムメン湖)』だと知ったのは高校生の頃であった。以来、シュトルムその人と作品が好きになった。彼の短編小説に『三色菫(Viola tricolor)』がある。ヨーロッパでは、三色菫(さんしきすみれ)に関する興味深いストーリーがある。

   人里はなれた谷間に、慎ましく可憐な三色菫が咲いていた。
   ある日、愛の使命を持った天使が現れ、
   この花を見て、なんと愛らしい花であろうと感激した。
   以来、この花は、天使から役目を与えられた。
   それは、天使の使者として愛と喜びの便りを告げるため、
   谷間から飛び出し、地球上のあらゆるところに咲くようになることであった。

 さて、シュトルムのお話は・・・
 若く美しい後妻イーネスは、先妻の子アグネス(愛称はネージー)と初めて対面した時、イーネスが、「わかるわね、わたしが新しいあなたのお母さんよ。仲良くしましょうね、アグネス」というと、ネージーは目をそらし、「ママとなら呼べる!」と応え、「わたしのお母さんは死んだのよ」と加えた。その時からイーネスは無意識に病死した先妻に対しジェラシーを持つようになってしまった。夫や娘の心の中、家の中、すべてが先妻との想い出に満ちあふれている。自分がいかに努力しても・・・先妻の影響をどうすることもできないと彼女は思い嘆くようになってしまう。その嘆きがすべて自分自身のジェラシーによるものであると氣づかないままに、床に伏し、やがて精神を病み、生死の峠をさ迷い歩くことになった。

 そんなイーネスを癒したのは、ネージーの一言であった。「わたしのやさしいママ!」この一言で、自分がこの家の中で必要とされていることに氣づかされた。これにより生死の峠からもジェラシーの呪縛からも彼女は解き放たれた。元氣になったイーネスは夫に、「わたしは、あなたの過去に加えて頂きます」と伝えた。愛するということはその人の思い出までも愛することなのだと彼女は悟った。「最も大切なことから始めよう。それはね、自分自身や他人にも教えることができるんだよ」と夫は応え、「生きることさ、イーネス。できる限り美しく、そして長くだよ」と導いた。

 また、イーネスが生まれた娘にマリーという先妻と同じ名前を付けようと尋ねたとき、「同じ名前を付けることで遊ぶのはよそう・・・違うんだ、イーネス。わたしの可愛い小さな子の顔を持ってして、マリーの面影を塗りつぶしたくないのだ。わたしは、子供をマリーと名付けることも、君のお母さんの願いのようだが、イーネスと名付けることも望まないんだよ。イーネスもわたしにとってはただ一度だけで、二度とこの世にない名前なんだ」

 わたしたち一人ひとりは、誰の代わりにもならない、この世界に唯一の大切な存在。だからこそ、美しく生きるのだとシュトルムはくり返し述べている。

 不思議なことに、この作品の中には、三色菫は現れない。では、どうして?タイトルに・・・。

 まあ、このような好奇心は、「スミレに香水をふりかけるようなものかもしれない」(シュークスピア『ジョン王』)。

 笑顔

10a608d0.jpg おはようございます☆
 清々しい朝。風が実に氣持ちよい◎

 われわれの呼び名で地球上で通用する果物は・・・?

 “Kaki” ・・・ 「カキ(柿)」

 日本を代表する果物。ブドウは南ヨーロッパ、リンゴは北ヨーロッパ、オレンジは合衆国、パイナップルといえばハワイ、モモといえば中国、そしてカキといえば日本。世界の人々が持つ果物と国のイメージである。

 1000年以上の栽培の歴史を持ち、現存する品種1000種前後もある。ひとつの果物でこれほどまでに変異性に富むものは見当たらない。
 学名は、Diospyros kakiで、Diospyros(ディオスピロス)は ギリシャ語のDios(神・ジュピター)とpyros(穀物)が語源で、『神の食べ物』の意味。

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 春の新緑若葉は素的に目立っている。葉は「柿の葉のお茶」として使われる。花は目立たないが、5月ころに咲き、終わりかけにはボトボトと音をたてて地面に向かう。来月下旬から6月初めに頃である。梅雨前であるので、「柿花落」はその頃の季語になったのだろう。

 名の由来は、秋に紅葉する「赤」い葉と「黄」色の実から、「赤黄」→「あかき」→「かき」になったそうな。

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 「柿」の字は、その昔、「こけら」と読み、材木の削りくずを意味した。新改築工事のおわりに足組みなどの柿(こけら=材木の削りくず)を払い落としたところから、新築の劇場で一番はじめに行なわれる劇を「柿落とし(こけらおとし)」というようになった。

 日本文化の持つ独特の“しぶさ”の違いは、柿の渋みの違いに似ているのかもしれない。日本人が共通に理解し、以心伝心できる感性ともいわれる。

 「柿食へば 鐘が鳴るなり 法隆寺」 正岡子規
 「柿食ふや 遠くかなしき 母の顔」 石田波郷
 
 大自然の奥深く、大切に育ってきた柿のように、心の中の舞台が大きい人は、話し上手で、発想が豊か。心身ともにスケールの大きなこんな方に出会い、愛され、慕われたら・・・

 本当に、本当に、倖せですね◎

 感謝

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