流れのままに

流れのままに おのが道をゆけ ひたすらに ひたむきに

二〇〇六年霜月

0adc57b0.jpgおはようございます♪
今日は、11月22日で『いい夫婦の日』。
みなさん、優しく仲良くやっていらっしゃいますね。

そして、もうひとつ … 『回転寿司記念日』!?

1913年(大正2年)11月22日、回転寿司を考案した回転寿司チェーン「廻る元禄寿司」の元禄産業創設者・白石義明氏が生まれている。彼は昭和37年に『コンベア附調理食台』を実用新案登録したアイデァマンであった。

寿司が好きで好きで、週に6度はいただいていた。
寿司のご縁だろうか、ワイフの祖父は戦前から札幌の狸小路で寿司店を開いていた。

さて、大好物の寿司の話しはさて置いて、今日は・・・別の好物でいきましょう。

ひとくち、口の中に運ぶ。
濃い味の柔らかな、ふんわり感に微笑んでしまう。

もうひとくち … 

微笑のお陰で、真一文字に広がったわたしの口が迎え入れてくれる。

箸がすすむ。

しかしながら、鰻の蒲焼きは味が濃い。そのタレはご飯にも及んでいる。自然、このまま食べつづけるなら、間違いなく飽きてしまう。人は、単調な味や出来事の繰り返しに飽きてしまうもの。箸がすすんで、口の中に運んだ美味しい鰻といえども、飽きてしまう。

ここでご登場願うのが、脇役に徹している「お新香」。口の中が鰻の脂にまみれ、濃い味つけに飽きたころ、お新香と白いご飯のコンビネーションがわたしの口の中をサッパリと別世界に変えてくれる。ソフトな鰻の食感に、「ポリ!ポリ!」のサウンドのなんと新鮮なことか! この一瞬に「ひとときのお新香」が鰻を凌駕する力を感じる。そして、再び、微笑む♪
自然、お新香に氣づかいを感じるお店に愛着を覚える。

豊かな鰻があってこそのひとときのお新香。万が一、鰻が少な過ぎると、お新香がメインのおかずとして浮上してくるから要注意だ。ひとときのお新香を楽しむには、鰻の量が大切なポイントになる。

鰻丼の「上」や鰻重の「竹」や「松」は、鰻が多い。白いご飯よりも蒲焼きの方が多くなって、「ひとときのお新香」に活かすご飯が不足してしまう。よって、わたしは好んで鰻丼の「梅」を食べた。塩梅がいいのだ。鰻と白いご飯の量が調和している。

この松竹梅という並びに優劣はない。「歳寒三友(さいかんのさんゆう)」と言って、「松」は通年で緑を保つことから「長寿」を、「竹」は真っ直ぐ威勢よく伸びることから「成長力」や「出世」を、「梅」は早く花を咲かせることから「生命力」を表して縁起が良いとされた。また、松と竹は寒中にも色褪せず、梅は寒中に花開くところから、「精錬潔白」や「節操」という文士の理想の在り方として受け取られた時代があった。

 笑顔

fa451276.jpgみなさん、こんにちは☆
昨夜、札幌市内は薄く雪化粧しました。
今は打って変わって、青空に雲と
SunSunと輝く太陽が・・・まぶしいぃ〜

いかがお過ごしですか。

ミク友で読者のJさんから、真摯な質問をいただきました♪

『今 繋がりあってる方が神社が好きで、カトリックの信仰を持っているものとしては、肩身の狭い思いで居ました。 わずかに「マザーテレサ」の言葉に感心を示してくれる人も居てホッとしています。神も仏もその人の心が安らげは゛どっちでも良いと思ってますか…』

ありがとうございます☆

チト、長くなりますが・・・お付き合いをお願いします(笑)。

教祖も宗教も必要なくなるのが、
本当の自分(真我)の目覚めです。

When I release myself from ego and attachment, and transform myself, the earth and everything into pleasure.(エゴと執着を解き放ち、自分とこの地球と全てのものを楽しもう)」

とよくヨーロッパの友人たちと話したものです。
この感性は聖書を援用すると、こんな感じです。
 しかし今は、あなたがたも、すべてこれらのこと、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、あなたがたの口から出る恥ずべきことばを、捨ててしまいなさい。お互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは、古い人をその行いといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。そこには、ギリシア人とユダヤ人、割礼の有無、未開人、スクテヤ人、奴隷と自由人というような区別はありません。キリスト(救世主)がすべてであり、すべてのうちにおられるのです。

 それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなた方は深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍びあい、だれかがほかの人に不満を抱くことがっても、互いに許しあいなさい。主があなた方を赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです。キリスト(救世主)の平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。キリスト(救世主)のことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌により、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。あなたがたのすることは、ことばによると行いによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい。(コロサイ3.8−17)

シスター・マザーテレサは、『古い自分を捨てて新しい人を着る』ことをなさった方だと受け取っています。初めて彼女のことを教えていただいたのは、亀浦(かめうら)神父からでした。もう、30年も前のことです。彼は当時フランスから帰国なさって、函館ラ・サール高校の神父さまでした。現在はカリフォルニア州に在住してのご活躍と承っています。ヨーロッパ人にラテン語で聖書を講義するユニークな方でした。

シスターの言葉のキーワードは「愛」「感謝」「小さなこと」だと受け取っています。よく知られた言葉ですが、英語で伝え聞くと、心地よいサウンドです。お楽しみくださいね♪

Let us always meet each other with smile, for the smile is the beginning of love. (いつもお互いに笑顔で会うことにしましょう。笑顔は愛の始まりですから)

The most terrible poverty is loneliness and the feeling of being unloved.
(最もひどい貧困とは、孤独感と愛されていないと感じることです)

The miracle is not that we do this work, but that we are happy to do it.
(奇跡なのは、私たちがこの仕事をすることではなく、それをすることが幸せだということです)

There is more hunger in the world for love and appreciation in this world than for bread. (この世には、パンに対する飢えよりも、愛と感謝に対する飢えの方が多いのです)

Joy is a net of love by which you can catch souls.
(喜びとは、魂を捕まえられる愛の網なのです)

Little things are indeed little, but to be faithful in little things is a great thing.(小さなことは本当に小さい。でも、小さなことに信念を持つのは偉大なことです)

イエスもブッタもシスター・マザーテレサも、
みなさん一人で歩んでこられました。
だから、後で氣づいた方たちが、彼らの足跡(そくせき)を頼って、歩み始めています。

純真な心で、感じ、感じるまま、自分に素直(シンプル)に前に進みましょうよ。
肩身が狭いだなんて思わないで・・・そんなこと思わなくていいの。
本当の自分(真我)がきちんと見つめてくれているのだから大丈夫。
他者に頼らず、他者に分かってもらうことばかりに氣を入れないの。
自分で氣づいていればいいの。
自分が感じていればいいの。
他者が氣づかないからやっても無駄とか、
他者が感じないから情けないとか、
そんなことを思い、言っていたら、前に進めなくなってしまいます。
自分が氣づいたこと、感じたことを最優先に大切にしましょう。
出逢った方々にお伝えしましょう。

「あせらないんだよ」「苦しまないんだよ」

自分の感性をもっと素直(シンプル)に、楽しみましょうよ。
自分が目覚めることを大切にしていきましょうよ。

さて、最後にご質問の
『神も仏もその人の心が安らげは゛どっちでも良いと思ってますか…』
にお答しますね。お待たせいたしました(笑)☆

富士山は山梨県と静岡県にまたがっていて、裾野はそれぞれの県に分かれていますが、山頂は何県と決まっていません。どの道を選んでもいいじゃないですか。わたしたちが目指す頂上はいっしょです。どの道を選んでも、前へ前へと歩みつづけるならば、富士山の頂上でお逢いできますね・・・。

よき一週間を過ごしましょう♪  笑顔

70dca46f.jpg四国地方の一部では「ごゆっくりしてください」という意味で、「ゆだんなされ」と言うらしい。
ゆったり、のんびりの古語「寛に(ゆたに)」が音変化したという。
実に、言葉は興味深い。

札幌に住んで、10年が過ぎた。
その前はニューヨークに10年ほど住んでいた。
20年前の日本では「ノストラダムス」がブームで、日本語訳の予言を信じた人々が多かった。火付け役は、函館出身の作家・五島勉氏。わたしの中学のクラスメイトで隣の席にいたY・鈴木さんの伯父さんであった。日本を発った時、友人のひとりは「1999年には地球は亡くなってしまう、日本に帰ってこないで思う存分遊んでこい」とユニークなアドヴァイスをくれた。しかしながら、今も、地球は生きている。

帰国して、間もなく聞きなれない日本語に接した。「ゼンセイ(前世)」という言葉であった。若い学生たちから教わったところでは、「前世」というものに、幸・不幸の原因や現在の境遇などの原因を求めることができると言う。また、現実を直視して問題の原因を考える苦痛から開放されるらしい。

前世と未来は、いずれもこの世に存在しないが、そのようなことがらに依存しながら、「今」を生きるのはユニークなアイディアだ。今の自分が不安だから、見えない存在(=前世)に期待する氣持ちを強めていこうという知恵が働いている。もちろん、未来に希望を持つことは、今を充実させるための必要条件だが、「今」という瞬間に対する不満解消の処方箋にはならない。

また、前世を知ることは今を理解するために意味のあることかもしれないが、「今」起きていることの原因ではない。今、目の前にある現実は、すべて現世に生み出された自分が作り出したことで、前世の因縁などではないと捉えた方がベターだ。自分の責任から逃れるために前世を活用するのはユニークだけれども素直(シンプル)ではない。

この世に生を受けたわたしたち人間の一人一人の人生を遡って行くと、その行き着く先は神話の世界で、アダムとイブや、イザナギの命(みこと)とイザナミの命(みこと)になる。自然、『ひとつ(Oneness)』という言葉が説得力を持つ。自分の前世をはるか大昔まで遡り、人類はみなひとつだ感じるなら、世界は広がるに違いない。

最後に、この6年、若い学生の中に霊能力を得てしまった方が数人いる。「自分はキリストかブッタの生まれ変わりではないか?」と思ってしまうらしいが、それは宗教的無知から来るもの。キリストはゴルゴダの丘で13日の金曜日に総監ピラトに刺し殺されて後、復活してから今も生きていらっしゃる。一方、ブッタは「悟りを開いた者」で二度とこの世に生まれてくる必要のない方。だから、お二方の生まれ変わりはありえないので心配無用。霊能力は、お金といっしょで、振り回されない力を身に付けることが大切。霊視/ヒーリング中毒者にはならないでほしい。

来世や前世よりも自分が参加できる現在を大切にしたい。
そして、淡々と清々しく生きたい。

感謝

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