流れのままに

流れのままに おのが道をゆけ ひたすらに ひたむきに

二〇一一年水無月

国家公務員は45〜46万人、地方公務員は約312万人で、国と地方を合わせた公務員給与の支給総額は約33兆円。公務員給与の支給総額の1割くらいで、「国内すべての原子力発電所が運転停止」可能になるということを閣僚が公表している。原発の危険と被害を考えるなら、この発表は低価で日本の全原発を停止できますよ、との宣言として捉えることもできる。しかし、発言者にそのような良心は期待できにそうにない。

 すべての原発停止なら…年間3兆円以上の負担増
(2011年6月7日22時38分 読売新聞)
 海江田経済産業相は7日の新成長戦略実現会議で、国内すべての原子力発電所が運転停止した場合、火力発電で代替すると液化天然ガス(LNG)や石油などの燃料費の負担増が年間3兆円以上になるとの試算を明らかにした。
 燃料費の増加分は電気料金に転嫁される仕組みのため、それだけ国民の負担増につながることになる。
 海江田経産相は7日の閣議後記者会見で「7月には電力の需要のピークを迎える。安全基準に適応した原発を再稼働して電力の供給に万全を期したい」と述べた。今回の試算もコスト面から原発の安定した運転の重要性を強調する狙いとみられる。http://www.yomiuri.co.jp/atmoney/news/20110607-OYT1T01068.htm

以下の映像は高山俊吉弁護士だそうですが、国会議員諸君は彼の爪の垢を煎じて飲むといい。選挙をして国民に信を問うためにも、街頭に出て演説するといい。民衆に訴えたらいい。テレビなんて化け物に出演している場合ではアリマセンゾ!議員諸君の訴え先は、テレビでも大臣でも同僚議員でも、所属政党の有力者でもない。危機感を持って、原発がジェノサイド(集団殺害)のトリガーとなることを直接、民衆に訴えかけていただきたい☆


閑話休題(ソレハサテオキ)

9日のスペインのカタルーニャ国際賞授賞式で配布された日本の著名な小説家・村上春樹さんの受賞スピーチの原稿全文を拝見した。チト、違和感を覚えた。民衆と国家権力を同等に捉えていらっしゃる。彼が持つ、阻止できなかったことへの後悔の念は理解できるが、被害者であると同時に加害者でもあるというポジショニングからはもう卒業してもいいのではありませんか。

原発事故は津波が原因でなく地震であったのだし、わたしたち民衆は被害者であって、決して加害者ではない。原発に「効率」を期待した民衆なんていなかったでしょう。国家権力という化け物が日本民衆の生命(いのち)を犠牲にして、マネーを産み出したのです。今後、原発事故はジェノサイド(集団殺害)へとその様相を変えていくのが一番こわい。

・・・・・・(以下引用)

 「非現実的な夢想家として」

 僕がこの前バルセロナを訪れたのは二年前の春のことです。サイン会を開いたとき、驚くほどたくさんの読者が集まってくれました。長い列ができて、 一時間半かけてもサインしきれないくらいでした。どうしてそんなに時間がかかったかというと、たくさんの女性の読者たちが僕にキスを求めたからです。それ で手間取ってしまった。
 僕はこれまで世界のいろんな都市でサイン会を開きましたが、女性読者にキスを求められたのは、世界でこのバルセロナだけです。それひとつをとって も、バルセロナがどれほど素晴らしい都市であるかがわかります。この長い歴史と高い文化を持つ美しい街に、もう一度戻ってくることができて、とても幸福に 思います。
 でも残念なことではありますが、今日はキスの話ではなく、もう少し深刻な話をしなくてはなりません。
 ご存じのように、去る3月11日午後2時46分に日本の東北地方を巨大な地震が襲いました。地球の自転が僅かに速まり、一日が百万分の1.8秒短くなるほどの規模の地震でした。
 地震そのものの被害も甚大でしたが、その後襲ってきた津波はすさまじい爪痕を残しました。場所によっては津波は39メートルの高さにまで達しまし た。39メートルといえば、普通のビルの10階まで駆け上っても助からないことになります。海岸近くにいた人々は逃げ切れず、二万四千人近くが犠牲になり、そのうちの九千人近くが行方不明のままです。堤防を乗り越えて襲ってきた大波にさらわれ、未だに遺体も見つかっていません。おそらく多くの方々は冷たい海の底に沈んでいるのでしょう。そのことを思うと、もし自分がその立場になっていたらと想像すると、胸が締めつけられます。生き残った人々も、その多く が家族や友人を失い、家や財産を失い、コミュニティーを失い、生活の基盤を失いました。根こそぎ消え失せた集落もあります。生きる希望そのものをむしり取られた人々も数多くおられたはずです。
 日本人であるということは、どうやら多くの自然災害とともに生きていくことを意味しているようです。日本の国土の大部分は、夏から秋にかけて、台 風の通り道になっています。毎年必ず大きな被害が出て、多くの人命が失われます。各地で活発な火山活動があります。そしてもちろん地震があります。日本列 島はアジア大陸の東の隅に、四つの巨大なプレートの上に乗っかるような、危なっかしいかっこうで位置しています。我々は言うなれば、地震の巣の上で生活を 営んでいるようなものです。
 台風がやってくる日にちや道筋はある程度わかりますが、地震については予測がつきません。ただひとつわかっているのは、これで終りではなく、別の 大地震が近い将来、間違いなくやってくるということです。おそらくこの20年か30年のあいだに、東京周辺の地域を、マグニチュード8クラスの大型地震が 襲うだろうと、多くの学者が予測しています。それは十年後かもしれないし、あるいは明日の午後かもしれません。もし東京のような密集した巨大都市を、直下型の地震が襲ったら、それがどれほどの被害をもたらすことになるのか、正確なところは誰にもわかりません。
 にもかかわらず、東京都内だけで千三百万人の人々が今も「普通の」日々の生活を送っています。人々は相変わらず満員電車に乗って通勤し、高層ビルで働いています。今回の地震のあと、東京の人口が減ったという話は耳にしていません。
 なぜか?あなたはそう尋ねるかもしれません。どうしてそんな恐ろしい場所で、それほど多くの人が当たり前に生活していられるのか?恐怖で頭がおかしくなってしまわないのか、と。
 日本語には無常(mujo)という言葉があります。いつまでも続く状態=常なる状態はひとつとしてない、ということです。この世に生まれたあらゆるものはやがて消滅し、すべてはとどまることなく変移し続ける。永遠の安定とか、依って頼るべき不変不滅のものなどどこにもない。これは仏教から来ている 世界観ですが、この「無常」という考え方は、宗教とは少し違った脈絡で、日本人の精神性に強く焼き付けられ、民族的メンタリティーとして、古代からほとんど変わることなく引き継がれてきました。
 「すべてはただ過ぎ去っていく」という視点は、いわばあきらめの世界観です。人が自然の流れに逆らっても所詮は無駄だ、という考え方です。しかし日本人はそのようなあきらめの中に、むしろ積極的に美のあり方を見出してきました。
 自然についていえば、我々は春になれば桜を、夏には蛍を、秋になれば紅葉を愛でます。それも集団的に、習慣的に、そうするのがほとんど自明のこと であるかのように、熱心にそれらを観賞します。桜の名所、蛍の名所、紅葉の名所は、その季節になれば混み合い、ホテルの予約をとることもむずかしくなります。
 どうしてか?
 桜も蛍も紅葉も、ほんの僅かな時間のうちにその美しさを失ってしまうからです。我々はそのいっときの栄光を目撃するために、遠くまで足を運びます。そしてそれらがただ美しいばかりでなく、目の前で儚く散り、小さな灯りを失い、鮮やかな色を奪われていくことを確認し、むしろほっとするのです。美しさの盛りが通り過ぎ、消え失せていくことに、かえって安心を見出すのです。
 そのような精神性に、果たして自然災害が影響を及ぼしているかどうか、僕にはわかりません。しかし我々が次々に押し寄せる自然災害を乗り越え、ある意味では「仕方ないもの」として受け入れ、被害を集団的に克服するかたちで生き続けてきたのは確かなところです。あるいはその体験は、我々の美意識にも 影響を及ぼしたかもしれません。
 今回の大地震で、ほぼすべての日本人は激しいショックを受けましたし、普段から地震に馴れている我々でさえ、その被害の規模の大きさに、今なおたじろいでいます。無力感を抱き、国家の将来に不安さえ感じています。
 でも結局のところ、我々は精神を再編成し、復興に向けて立ち上がっていくでしょう。それについて、僕はあまり心配してはいません。我々はそうやって長い歴史を生き抜いてきた民族なのです。いつまでもショックにへたりこんでいるわけにはいかない。壊れた家屋は建て直せますし、崩れた道路は修復できます。
 結局のところ、我々はこの地球という惑星に勝手に間借りしているわけです。どうかここに住んで下さいと地球に頼まれたわけじゃない。少し揺れたか らといって、文句を言うこともできません。ときどき揺れるということが地球の属性のひとつなのだから。好むと好まざるとにかかわらず、そのような自然と共 存していくしかありません。
 ここで僕が語りたいのは、建物や道路とは違って、簡単には修復できないものごとについてです。それはたとえば倫理であり、たとえば規範です。それらはかたちを持つ物体ではありません。いったん損なわれてしまえば、簡単に元通りにはできません。機械が用意され、人手が集まり、資材さえ揃えばすぐに拵えられる、というものではないからです。
 僕が語っているのは、具体的に言えば、福島の原子力発電所のことです。
 みなさんもおそらくご存じのように、福島で地震と津波の被害にあった六基の原子炉のうち、少なくとも三基は、修復されないまま、いまだに周辺に放射能を撒き散らしています。メルトダウンがあり、まわりの土壌は汚染され、おそらくはかなりの濃度の放射能を含んだ排水が、近海に流されています。風がそれを広範囲に運びます。
 十万に及ぶ数の人々が、原子力発電所の周辺地域から立ち退きを余儀なくされました。畑や牧場や工場や商店街や港湾は、無人のまま放棄されていま す。そこに住んでいた人々はもう二度と、その地に戻れないかもしれません。その被害は日本ばかりではなく、まことに申し訳ないのですが、近隣諸国に及ぶことにもなりそうです。
 なぜこのような悲惨な事態がもたらされたのか、その原因はほぼ明らかです。原子力発電所を建設した人々が、これほど大きな津波の到来を想定していなかったためです。何人かの専門家は、かつて同じ規模の大津波がこの地方を襲ったことを指摘し、安全基準の見直しを求めていたのですが、電力会社はそれを 真剣には取り上げなかった。なぜなら、何百年かに一度あるかないかという大津波のために、大金を投資するのは、営利企業の歓迎するところではなかったから です。
 また原子力発電所の安全対策を厳しく管理するべき政府も、原子力政策を推し進めるために、その安全基準のレベルを下げていた節が見受けられます。
 我々はそのような事情を調査し、もし過ちがあったなら、明らかにしなくてはなりません。その過ちのために、少なくとも十万を超える数の人々が、土地を捨て、生活を変えることを余儀なくされたのです。我々は腹を立てなくてはならない。当然のことです。(バルセロナ共同)
http://mainichi.jp/enta/art/news/20110611k0000m040017000c.html
 日本人はなぜか、もともとあまり腹を立てない民族です。我慢することには長けているけれど、感情を爆発させるのはそれほど得意ではない。そういう ところはあるいは、バルセロナ市民とは少し違っているかもしれません。でも今回は、さすがの日本国民も真剣に腹を立てることでしょう。
 しかしそれと同時に我々は、そのような歪んだ構造の存在をこれまで許してきた、あるいは黙認してきた我々自身をも、糾弾しなくてはならないでしょう。今回の事態は、我々の倫理や規範に深くかかわる問題であるからです。
 ご存じのように、我々日本人は歴史上唯一、核爆弾を投下された経験を持つ国民です。1945年8月、広島と長崎という二つの都市に、米軍の爆撃機によって原子爆弾が投下され、合わせて20万を超す人命が失われました。死者のほとんどが非武装の一般市民でした。しかしここでは、その是非を問うことは しません。
 僕がここで言いたいのは、爆撃直後の20万の死者だけではなく、生き残った人の多くがその後、放射能被曝の症状に苦しみながら、時間をかけて亡くなっていったということです。核爆弾がどれほど破壊的なものであり、放射能がこの世界に、人間の身に、どれほど深い傷跡を残すものかを、我々はそれらの 人々の犠牲の上に学んだのです。
 戦後の日本の歩みには二つの大きな根幹がありました。ひとつは経済の復興であり、もうひとつは戦争行為の放棄です。どのようなことがあっても二度 と武力を行使することはしない、経済的に豊かになること、そして平和を希求すること、その二つが日本という国家の新しい指針となりました。
 広島にある原爆死没者慰霊碑にはこのような言葉が刻まれています。
 「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませんから」
 素晴らしい言葉です。我々は被害者であると同時に、加害者でもある。そこにはそういう意味がこめられています。核という圧倒的な力の前では、我々は誰しも被害者であり、また加害者でもあるのです。その力の脅威にさらされているという点においては、我々はすべて被害者でありますし、その力を引き出したという点においては、またその力の行使を防げなかったという点においては、我々はすべて加害者でもあります。
 そして原爆投下から66年が経過した今、福島第一発電所は、三カ月にわたって放射能をまき散らし、周辺の土壌や海や空気を汚染し続けています。それをいつどのようにして止められるのか、まだ誰にもわかっていません。これは我々日本人が歴史上体験する、二度目の大きな核の被害ですが、今回は誰かに爆弾を落とされたわけではありません。我々日本人自身がそのお膳立てをし、自らの手で過ちを犯し、我々自身の国土を損ない、我々自身の生活を破壊しているのです。
 何故そんなことになったのか?戦後長いあいだ我々が抱き続けてきた核に対する拒否感は、いったいどこに消えてしまったのでしょう?我々が一貫して求めていた平和で豊かな社会は、何によって損なわれ、歪められてしまったのでしょう?
 理由は簡単です。「効率」です。
 原子炉は効率が良い発電システムであると、電力会社は主張します。つまり利益が上がるシステムであるわけです。また日本政府は、とくにオイルショック以降、原油供給の安定性に疑問を持ち、原子力発電を国策として推し進めるようになりました。電力会社は膨大な金を宣伝費としてばらまき、メディア を買収し、原子力発電はどこまでも安全だという幻想を国民に植え付けてきました。
 そして気がついたときには、日本の発電量の約30パーセントが原子力発電によってまかなわれるようになっていました。国民がよく知らないうちに、地震の多い狭い島国の日本が、世界で三番目に原発の多い国になっていたのです。
 そうなるともうあと戻りはできません。既成事実がつくられてしまったわけです。原子力発電に危惧を抱く人々に対しては「じゃああなたは電気が足りなくてもいいんですね」という脅しのような質問が向けられます。国民の間にも「原発に頼るのも、まあ仕方ないか」という気分が広がります。高温多湿の日本で、夏場にエアコンが使えなくなるのは、ほとんど拷問に等しいからです。原発に疑問を呈する人々には、「非現実的な夢想家」というレッテルが貼られていき ます。
 そのようにして我々はここにいます。効率的であったはずの原子炉は、今や地獄の蓋を開けてしまったかのような、無惨な状態に陥っています。それが現実です。
 原子力発電を推進する人々の主張した「現実を見なさい」という現実とは、実は現実でもなんでもなく、ただの表面的な「便宜」に過ぎなかった。それを彼らは「現実」という言葉に置き換え、論理をすり替えていたのです。
 それは日本が長年にわたって誇ってきた「技術力」神話の崩壊であると同時に、そのような「すり替え」を許してきた、我々日本人の倫理と規範の敗北でもありました。我々は電力会社を非難し、政府を非難します。それは当然のことであり、必要なことです。しかし同時に、我々は自らをも告発しなくてはなり ません。我々は被害者であると同時に、加害者でもあるのです。そのことを厳しく見つめなおさなくてはなりません。そうしないことには、またどこかで同じ失敗が繰り返されるでしょう。
 「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませんから」
 我々はもう一度その言葉を心に刻まなくてはなりません。
 ロバート・オッペンハイマー博士は第二次世界大戦中、原爆開発の中心になった人ですが、彼は原子爆弾が広島と長崎に与えた惨状を知り、大きなショックを受けました。そしてトルーマン大統領に向かってこう言ったそうです。
 「大統領、私の両手は血にまみれています」
 トルーマン大統領はきれいに折り畳まれた白いハンカチをポケットから取り出し、言いました。「これで拭きたまえ」
 しかし言うまでもなく、それだけの血をぬぐえる清潔なハンカチなど、この世界のどこを探してもありません。
 我々日本人は核に対する「ノー」を叫び続けるべきだった。それが僕の意見です。
 我々は技術力を結集し、持てる叡智を結集し、社会資本を注ぎ込み、原子力発電に代わる有効なエネルギー開発を、国家レベルで追求すべきだったのです。たとえ世界中が「原子力ほど効率の良いエネルギーはない。それを使わない日本人は馬鹿だ」とあざ笑ったとしても、我々は原爆体験によって植え付けられ た、核に対するアレルギーを、妥協することなく持ち続けるべきだった。核を使わないエネルギーの開発を、日本の戦後の歩みの、中心命題に据えるべきだった のです。
 それは広島と長崎で亡くなった多くの犠牲者に対する、我々の集合的責任の取り方となったはずです。日本にはそのような骨太の倫理と規範が、そして 社会的メッセージが必要だった。それは我々日本人が世界に真に貢献できる、大きな機会となったはずです。しかし急速な経済発展の途上で、「効率」という安易な基準に流され、その大事な道筋を我々は見失ってしまったのです。
 前にも述べましたように、いかに悲惨で深刻なものであれ、我々は自然災害の被害を乗り越えていくことができます。またそれを克服することによって、人の精神がより強く、深いものになる場合もあります。我々はなんとかそれをなし遂げるでしょう。
 壊れた道路や建物を再建するのは、それを専門とする人々の仕事になります。しかし損なわれた倫理や規範の再生を試みるとき、それは我々全員の仕事 になります。我々は死者を悼み、災害に苦しむ人々を思いやり、彼らが受けた痛みや、負った傷を無駄にするまいという自然な気持ちから、その作業に取りかかります。それは素朴で黙々とした、忍耐を必要とする手仕事になるはずです。晴れた春の朝、ひとつの村の人々が揃って畑に出て、土地を耕し、種を蒔くよう に、みんなで力を合わせてその作業を進めなくてはなりません。一人ひとりがそれぞれにできるかたちで、しかし心をひとつにして。
 その大がかりな集合作業には、言葉を専門とする我々=職業的作家たちが進んで関われる部分があるはずです。我々は新しい倫理や規範と、新しい言葉 とを連結させなくてはなりません。そして生き生きとした新しい物語を、そこに芽生えさせ、立ち上げてなくてはなりません。それは我々が共有できる物語であるはずです。それは畑の種蒔き歌のように、人々を励ます律動を持つ物語であるはずです。我々はかつて、まさにそのようにして、戦争によって焦土と化した日 本を再建してきました。その原点に、我々は再び立ち戻らなくてはならないでしょう。
 最初にも述べましたように、我々は「無常(mujo)」という移ろいゆく儚い世界に生きています。生まれた生命はただ移ろい、やがて例外なく滅びていきます。大きな自然の力の前では、人は無力です。そのような儚さの認識は、日本文化の基本的イデアのひとつになっています。しかしそれと同時に、滅びたものに対する敬意と、そのような危機に満ちた脆い世界にありながら、それでもなお生き生きと生き続けることへの静かな決意、そういった前向きの精神性も 我々には具わっているはずです。
 僕の作品がカタルーニャの人々に評価され、このような立派な賞をいただけたことを、誇りに思います。我々は住んでいる場所も遠く離れていますし、 話す言葉も違います。依って立つ文化も異なっています。しかしなおかつそれと同時に、我々は同じような問題を背負い、同じような悲しみと喜びを抱えた、世界市民同士でもあります。だからこそ、日本人の作家が書いた物語が何冊もカタルーニャ語に翻訳され、人々の手に取られることにもなるのです。僕はそのように、同じひとつの物語を皆さんと分かち合えることを嬉しく思います。夢を見ることは小説家の仕事です。しかし我々にとってより大事な仕事は、人々とその夢を分かち合うことです。その分かち合いの感覚なしに、小説家であることはできません。
 カタルーニャの人々がこれまでの歴史の中で、多くの苦難を乗り越え、ある時期には苛酷な目に遭いながらも、力強く生き続け、豊かな文化を護ってきたことを僕は知っています。我々のあいだには、分かち合えることがきっと数多くあるはずです。
 日本で、このカタルーニャで、あなた方や私たちが等しく「非現実的な夢想家」になることができたら、そのような国境や文化を超えて開かれた「精神のコミュニティー」を形作ることができたら、どんなに素敵だろうと思います。それこそがこの近年、様々な深刻な災害や、悲惨きわまりないテロルを通過してきた我々の、再生への出発点になるのではないかと、僕は考えます。我々は夢を見ることを恐れてはなりません。そして我々の足取りを、「効率」や「便宜」という名前を持つ災厄の犬たちに追いつかせてはなりません。我々は力強い足取りで前に進んでいく「非現実的な夢想家」でなくてはならないのです。人はいつか 死んで、消えていきます。しかしhumanityは残ります。それはいつまでも受け継がれていくものです。我々はまず、その力を信じるものでなくてはなりません。
 最後になりますが、今回の賞金は、地震の被害と、原子力発電所事故の被害にあった人々に、義援金として寄付させていただきたいと思います。そのような機会を与えてくださったカタルーニャの人々と、ジャナラリター・デ・カタルーニャのみなさんに深く感謝します。そして先日のロルカの地震の犠牲になられたみなさんにも、深い哀悼の意を表したいと思います。(バルセロナ共同)http://mainichi.jp/enta/art/news/20110611k0000m040019000c.html
(引用終わり)

『Leviathan』(リヴァイアサン;1651年刊行)は、17世紀英国の政治哲学者トーマス・ホッブズ(1588−1679)の書。リヴァイアサンは、『旧約聖書』の「ヨブ記」41章に出てくる怪獣の名前で、神を除き、この地上で最強のものを象徴した言葉。ホッブズによれば、この最強なるものとは、人々がその生命(いのち)を守るために契約を結んで設立した政治共同体=コモンウェルス(国家)を意味した。また、このリヴァイアサンは海の怪獣にして平和の怪獣であったことは興味深い。国家は、人間が生命の安全と平和を確保するために力を合成する契約行為を通じてつくった政治共同体であるから、王族、教会、議会、ギルドなどの特権集団よりも強いと考えられている。当時彼が生きた時代を見ると、ピューリタン革命という悲惨な政治状況を背にしていた。だから、ホッブズは、なんとしてでも、民衆の生命や自由を保障できる平和で統一的な政治社会を組織したいと願い、『リヴァイアサン』を執筆したに違いない。今の日本にあって、もう一度、本書を紐解こうと思う。

さあ、今週も大きな笑顔で参りましょう。

感謝

リヴァイアサン
 岩波文庫 全4巻

NHK講座で習うイタリア語が実は、トスカーナ地方のフィレンツェの言葉で、他の大多数のイタリア半島に住む人にとっては「外国語」みたいなものだと知っている方は、イタリア通に違いない。

さらに、その方がイタリア共和国憲法の第75 条の以下の定めをご存知であったら、脱帽してしまう。

・・・・・・
 50万人の有権者又は5つの州議会の要求があった場合には、法律又は法律の効力を有する行為の全部又は一部の廃止を決定するための国民投票が実施される。
 租税法律、予算法律、恩赦の法律、減刑の法律及び国際条約の批准を承認する法律について
の国民投票は認められない。
 下院の選挙権を有するすべての市民が国民投票に参加する権利を有する。
 有権者の過半数が投票に参加し、かつ、有効投票の過半数に達した場合には、国民投票に付託された提案は、承認される。
 法律は、国民投票の実施の方式を定める。
・・・・・・

この規定に基づき、イタリアでは2007年現在で14回、59件の国民投票が実施され、うち19件が賛成多数で、法律の廃止が承認された。なお、投票率が過半数に達せず、不成立に終わった件数は21件であった。(※1)

イタリアでは1987年の旧ソ連のチェルノブイリ原発事故を契機として、原発に反対する世論が形成され、1987の国民投票の決定以降、原発の建設や運転が禁止され1990年までに原発を全廃した。当然、電力不足になったのだが、フランス、スイス、スロベニアなどの隣国から電力を輸入することで需要をまかなっている。

しかし、ベルルスコーニ政権は脱原発政策を転換し、2009年2月にフランスと協力協定を結び、イタリア国内で2013年から原子力発電所を4基建設し2020年までに運転を始めると発表した。この原発再開政策に反対する野党などは署名を集め、国民投票の実施を求めて憲法裁判所に提訴した。憲法裁判所は今年1月に原子力発電所の再開について、国民投票で是非を問うことを認める判決を下した。その後、3月11日の地震によるフクシマ原発事故が起こった。だから、フクシマを契機とした国民投票ではない。

今回のイタリアの国民投票では、裁判不出廷特権法についても国民投票が実施された。昨年成立されたこの法律は首相、大統領、上下両院議長に在職中の刑事免責特権を与え、刑事裁判での出廷を免除するもの。これまでこの法律により、ベルルスコーニ首相は贈賄事件及びそれをつくろうために行ったイギリス人弁護士に対する買収事件や脱税事件、17歳のモロッコ人女性に対する買春事件などからを身を守られてきた。国民投票では、この法律を廃案にすべきだとの意見が圧倒的多数となった。今後、この結果はベルルスコーニ保守連立政権に政治的試練をもたらすに違いない。

また、イタリア最高裁は今回の国民投票の設問を、新規建設をうたった旧法の是非ではなく、「原発凍結法」の条文から、「安全性に関する科学的見解が得られるまで」原発建設を進めないとした前提条文を削除するかどうかに変更した。削除にイエスとの結果が出たのだから、「政府は原発新設の手続きを進めない」となり、脱原発が確定した。テクニカルな手腕が見て取れる。

・・・・・・
イタリア、原発再開を凍結へ 国民投票が成立
(2011年6月13日23時53分)
 原発再開の是非を問うイタリアの国民投票は、投票最終日の13日、投票率が50%を超えて成立した。開票が始まり、原発反対派が9割を超えて圧勝し、新規建設や再稼働が凍結される見通しとなった。投票不成立を目指したベルルスコーニ政権への大きな打撃となった。
 イタリア内務省は投票が締め切られた13日夕、暫定投票率が約57%に達したと発表。全国約6万カ所の投票所のうちの約2万カ所の暫定開票結果では、原発凍結賛成票が約94.5%を占めた。原発再開を模索していたベルルスコーニ首相は13日午後の記者会見で「イタリアは原発にさよならを言わなければなら ない」と敗北宣言をした。
 東京電力福島第一原発の事故後、脱原発の是非を国民投票で問うのは、イタリアが初めて。脱原発に踏み出したドイツ、スイスに続き、事故を受けて原発を拒否する世論が欧州に広がっていることが浮き彫りとなった。
 国民投票では「安全性に関する科学的見解が得られるまで」原発建設を進めないことを定めた「原発凍結法」から、前提条件を削除することへの賛否を投票した。反原発派の圧勝で、原発の新設や再稼働が無条件に凍結されることになる。
 イタリアは1986年のチェルノブイリ原発事故後に、国内4カ所の原発をすべて閉鎖し、電力の約15%を輸入に依存している。同時に実施された、首相ら の裁判不出廷特権法の是非を問う国民投票でも、法律を廃案にすべきだとの意見が圧倒的多数。投票率50%割れによる投票不成立を狙ったベルルスコーニ政権の戦術は不発に終わった。(ローマ=前川浩之)http://www.asahi.com/special/10005/TKY201106130284.html
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イタリア原発凍結法の国民投票実施へ 最高裁が判断下す
(2011年6月1日23時46分)
 ANSA通信によると、イタリア最高裁は1日、原発再開の是非を問う今月中旬の国民投票について、予定通り実施すべきだとの判断を示した。ベルルス コーニ政権は先月、原発凍結法をつくったが、最高裁は、この法では原発再開を厳密に断念したとはいえず、国民の判断が必要だとした。
 福島第一原発事故後、原発問題には伊国民の関心が高く、投票率が50%を超え国民投票は成立する、との観測が出ていた。同時にある別の国民投票では、ベルルスコーニ首相に裁判不出廷特権を与えた法の是非が問われる。特権法をめぐってはすでに違憲判決が出ており、少女買春事件なども抱える首相は、国民から改めてノーを突き付けられる事態を恐れていた。
 このため首相側は、国民投票つぶしをねらい、安全性に関する科学的見解が得られるまで原発新設の手続きを進めないとした凍結法をつくっていた。だが、最高裁判断で、首相の保身の思惑は崩された形だ。
 最高裁は、凍結法の条文は原発を再開できる余地があると解釈でき、2013年までの原発新規建設を定めた別の法を廃案にしたとは言えないと判断した。
 その上で、国民投票の設問を、新規建設をうたった旧法の是非ではなく、凍結法の条文から、安全性に関する科学的見解に言及したくだりを削除するかどうかに変更した。削除にイエスとの結果が出れば、「政府は原発新設の手続きを進めない」となり、事実上、脱原発が確定する。
 イタリアは1986年の旧ソ連のチェルノブイリ原発事故後、原発を順次廃炉にし、現在はゼロ。政府は、エネルギーの選択肢を増やすために再開を模索していたが、建設地選定などで反発が強く、具体化はしていない。(ローマ=前川浩之)
http://www.asahi.com/special/10005/TKY201106010718.html
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イタリア的考え方

ファビオ ランベッリ(Fabio Rambel)著『イタリア的考え方―日本人のためのイタリア入門』(ちくま新書 1997年刊行 714円)

良書です。おススメします☆

閑話休題(ソレハサテオキ)

イタリアでは毎年、憲法裁判所に提起される件数は、800から1,000件近くある。実際に命令ないしは判決という形で憲法裁判所が毎年出す数は大体400から500である。(※2)

民主主義国家においては、間接民主制が原則とされているが、議会と一般国民との間に意見の乖離が見られること等を理由に、国民投票を補完的に採用する国がある。イタリア・スイス・フランスなどでは一般の国政上の課題も国民投票の対象となっている。(アメリカ合衆国には国民投票制度そのものがない。だから、アメリカの民衆は知らないかも?)

わが日本には、「国民投票法」と称される法律があるが、正式には「日本国憲法の改正手続に関する法律(平成19年法律第51号)」で、日本国憲法第96条に基づき、憲法改正手続きとしての国民投票に特化している(第1条)。今後、憲法改正以外の部分の国民投票制度が法制化される必要がある。原発維持の国策に、NO!という世論を反映する政治手段である。

ピッコロ・マキャベリ(1469-1527)やフランチェスコ・グィッチャルディーニ(1483-1540)などの政治思想家を育てた環境に暮らすイタリア人は、政府や政治かを決して信用しない。日本では、国家の権力を行政権・立法権・司法権と3つに分け、独立性を持たせ、行政府(内閣)・立法府(議会)・司法府(裁判所)に担当させることで、各機関に他の機関の越権を抑える権限を与え、相互に監視しあいチェック&バランスを図り、国家権力の集中・濫用を防ぐことで、国民の権利と政治的自由を保障システムが整っていると、初等教育のテキストには紹介されている。しかしながら、このシステムは機能していない。それは、日本の行政・立法・司法の三権すべてが、諸権力と利権の構造に組み込まれてしまっているからである。

ザレ・ルペルト(Cesare Ruperto)憲法裁判所長官の以下の発言にイタリア市民社会の豊饒を感じる。

「憲法裁判所は、例えば議会に従属していたりあるいは他の機関に従属していたりということではなく、すべての機関を超えたところに存在していて、それで国民の人権を守っていて、憲法が実際に保障されるようにする機関である」

「憲法裁判所として判断を下す場合には、政治的な側面で、例えばこういう判断をこのタイミングですると政治的に影響があるのではないかとか、あるいはこの段 階で判断した方が都合がいいのではないかとかは一切判断しない。あくまでもこれが合憲なのか違憲なのかという判断のみをしている。違憲かどうかということ については、憲法に明文で書いてあることに違反しているかということではなくて、その裏にある原理、憲法が抱えている原理・原則に照らして、この法律が憲 法に沿っているかという観点からも判断している」(※2)

今回のイタリアの国民投票を見てわかることは、日本国憲法下で最高裁判所に与えられた違憲立法審査権では日本市民の人権を守るには消極的過ぎて不十分だということ。(行政府の一部局である内閣法制局の憲法解釈が公権的解釈として力を持ち、政府と国会がこれに拘束されているという現実もある) だから、具体的事件・紛争を前提としなくとも、人権を守る立場から法律の合憲性を審査する制度と憲法裁判所の設置が望まれる。

わたしたちは今、日本にいながらにして、イタリア料理をいただくことができる。さあ、次は、イタリアのように憲法裁判所を設置して国民投票制度を導入し、司法府を諸権力から独立させ日本市民の人権を守る目的で育てたい。料理の他にも知りたいですね、イタリア社会を。


さあ、大きな笑顔でよき週末をお楽しみください♪

感謝

(※1) 出典:「イタリア憲法制定議会における国民投票制度に関する議論」
山岡規雄 レファレンス 平成19年12月号 http://www.ndl.go.jp/jp/data/publication/refer/200712_683/068304.pdf#search=%27%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%82%A2%20%E5%9B%BD%E6%B0%91%E6%8A%95%E7%A5%A8%27

(※2) 出典:「イタリア・ベルギー・フランスにおける憲法事情に関する実情調査 概要」
参議院憲法調査会 http://www.sangiin.go.jp/japanese/kenpou/ibf/ibf_chosa05.htm

フクシマ第一原発事故の影響で、福島の子らは外での活動は禁止され、大人しく室内にいるという。こうした中で、今年の夏休みを迎える 子らに「室内避難」を押し付ける形ではなく、この機会を生かし、子らの学びと育ちを支援する教育事業を実施し、多様な体験や人とのコミュニケーションを作り出して行くことを目的とした企画がある。せめて夏休みは、なんの心配もなく、思いきり「子どもをやってもらう」ことが企画者の願いである。

大震災:いま、これから 道南で林間学校計画 福島の子供200人招待 /北海道
 福島第1原発事故で屋外活動を制限されている福島県内の小中学生に元気に野山で遊んでもらおうと、NPO関係者らが夏休みに道南でサマーキャンプ (林間学校)を計画している。6日からホームページで参加者を募ったところ、定員200人が予約開始30分で埋まる人気ぶりで、実行委員会は2次募集も視 野に、活動資金の協力を呼び掛けている。
 林間学校の実行委は北海道と福島県のNPO関係者らで構成。7月25日〜8月30日、七飯町の大沼国定公園を拠点に活動する。同町の函館大沼プリ ンスホテルに宿泊しながら、山歩きや農業、渓流釣りや星の観察など自然体験を楽しみ、学生ボランティアによる夏休みの宿題指導や補習授業も予定。農家や漁 師の家にホームステイも計画中だ。
 応募した保護者からは「子供を外で思い切り遊ばせてやれる環境が見つかってよかった」と、歓迎の声が寄せられたという。
 200人の応募は即日で締め切られたが、実行委は2次募集も検討している。だが2500万円が目標の支援金は178万円しか集まっていないといい、NPO「ねおす」(札幌市)の宮本英樹理事は「理念に賛同してくれる人は、ぜひ資金援助してほしい」と話している。
 参加は1週間単位で最大5週間滞在でき、費用は期間にかかわらず子供1人3万円。支援金などを受け付けるホームページは「ふくしまキッズ夏季林間 学校」(http://fukushima-kids.org)。問い合わせは現地本部(0138・67・3777)。【田中裕之】http://mainichi.jp/hokkaido/news/20110607ddlk01040250000c.html

さて、北海道の今年の花粉の飛散量は例年の5〜10倍になる模様。

支笏湖に黄色い花粉の帯http://www.hokkaido-nl.jp/detail.cgi?id=8604
黄色い利尻島http://www.rinya.maff.go.jp/hokkaido/square/kitanosima/index.html#110608

フクシマ第一原子力発電所1号機〜4号機の映像は東京電力により「ふくいちライブカメラ」と題され、リアルタイムで24時間、配信されている。http://www.tepco.co.jp/nu/f1-np/camera/index-j.html

昨日14日の午前3時から4時の映像(早送り)を見ると、4号炉から白煙が見える。しかし、未だ日本政府と東京電力からは報告はない。


閑話休題(ソレハサテオキ)

3月23日にサマーズ氏の「誠に残念ですが、日本は貧しい国になるでしょう」との発言は話題となったが、世界各国から放射能汚染の責任を問われて損害賠償請求される可能性も考慮しての発言であったかもしれない。しかし、悪いことばかりではないだろう。禍(わざわい)転じて福と成すという事もある。

米国で「東電には経営責任がある」株主代表訴訟も
2011.3.30 22:44 (1/2ページ
【ニューヨーク=松浦肇】東京電力の経営責任を問う声が米国内で強まっている。東日本大震災で事故を起した福島第1原子力発電所への対応処理、情報 開示の遅さに対して、エコノミスト、大学教授からウォール街関係者まで批判的だ。東京電力が昨年9月に実施した公募増資では米国の投資家も東電株を購入し ており、海外発で株主代表訴訟が起きる可能性も出てきた。
 「誠に残念ですが、日本は貧しい国になるでしょう」。米国家経済会議(NEC)前委員長のローレンス・サマーズ米ハーバード大学教授が23日、ニューヨーク市内の講演で断言すると、会場が静まり返った。
 米国では、震災後の落ち着いた日本の社会秩序が評価される一方で、経済の先行きが懸念されている。
 米国のエコノミストは第2四半期(4〜6月)の日本の国内総生産(GDP)が前年比約3%減るとみているが、減少率の半分、1・5%分が東電「発」によるネガティブ要因。放射能漏れや停電が都心部の経済活動を妨げ、消費の低迷につながるという見方だ。
 経済への影響だけではない。コロンビア大学が22日開催した日本セミナーでは、出席した法律、経済、政治の専門家3人が口をそろえて、「東電には経営責任がある」と主張した。(後略)http://sankei.jp.msn.com/world/news/110330/amr11033022470007-n1.htm

 日本を脱出している方々もいらっしゃるが、日本に向い人々を助けようとする方々も今後増えてくる。9.11の時、非常階段を上階から下階へと避難する人々に流れに逆らって、消防士たちと共に上階へと向かい身障者やショックで動けなくなった人々を助け、自らは避難することなく多くの命を救ってくれた勇氣ある若者たちの姿を友人が目撃している。ビルの崩壊と共に彼らは昇天することになったが、その胆識(勇氣と行動)は人々の記憶に残り、語り継がれている。日本政府が放射能問題で役割を果せないのなら、わたしたちは外国に助けてもらうという選択肢を持ってもいいだろう。今上陛下の今後の言動を注目したい。

デンマーク皇太子が2011年6月13-16日に訪日
 2011年3月11日に発生した大震災、津波、原子力発電所事故に対するお見舞いと援助を目的に、デンマーク皇太子が来日します。
 日本滞在中、皇太子は最大規模の被害を受けた東北の東松島市で、家を失った方々や親を亡くした子どもたちをお見舞いするとともに、デンマーク企業の復興支 援を受けた保育所や学校を訪ねることになっています。また、現地でデンマークからの寄付を手渡し、被災者、復興作業員、ボランティアの方々を慰問する予定 です。
 6月15日には、日本のエネルギー問題の解決策に関するセミナーに参加し、横浜周辺の企業を訪問する予定です。 http://www.ambtokyo.um.dk/ja/menu/AboutUs/News/CrownPrinceVisit.htm

 さて、この時期、神社に出かけて身の安全などをお願いする方々も増えていらっしゃるようです。本殿中央(お賽銭箱前)を占有し、ひとり長い時間参拝されている方を見かけますが、これは「我良し(われよし)」の姿であり、自分の存在を神さまに知らせたい、自分さえ良ければ他者はどうでも良いという「我(が)」(※)を出した参拝姿です。このスタイルは霊験をもたらしませんので、どうしても長居してしまうのです。神社には鏡を祭ってありますが、自分が出す思いのエネルギーは、鏡に反射するように自分自身に返ってきます。加えて、その場に蓄積された他者の同様の思いもまた自分自身に引き寄せられ身心に取り付き、参拝の動機によっては運を下げる結果となります。例えば、「病氣が治りますように」と願い事をしてしまうと、そこに蓄積した多数の他者の病氣治癒の願望エネルギーを身心が受け取ってしまい、重い氣持ちになってしまいます。お氣を付けください。神社での参拝は、今、こうして生かせて貰っている自分自身への「感謝」のみで十分です。そうすると、不思議、不思議、感謝したくなるような出来事が訪れます☆

さあ、今日も大きな笑顔で参りましょう。

感謝

(※)『延喜式』五十巻のうち最初の十巻が神祗式でその巻八が「祝詞式」だが、その「神前拝詞」のなかに『現世乃此乃身(ウツシヨノコノミ)』という表現がある。鏡に映し出された我が身を意識していることが分かる。

   かがみ(鏡)−が(我)=かみ(神) 
 
izumo
※出雲大社※

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