流れのままに

流れのままに おのが道をゆけ ひたすらに ひたむきに

二〇一二年葉月

おはようございます。
いかがお過ごしでしょうか。

爽快な朝です。

さて、昨夜、『蜘蛛巣城』(黒澤明・1957年)を観ていたら、グラグラっと来た。

地震である。

発生時刻 2012年8月25日 23時16分頃
震源地 十勝地方南部
最大震度 震度5弱
緯度 北緯 42.3度
経度 東経 143.1度
マグニチュード M6.1
深さ 約50km

1
http://bousai.tenki.jp/bousai/earthquake/より転載


閑話休題(それはさておき)


『蜘蛛巣城』は、黒澤作品としては最大規模のエキストラ・騎馬数とオープンセットを誇っている。シェイクスピアの『マクベス』を日本の戦国時代を背景にリライトして、能の動作や音楽を織り込んだ大胆な作風が楽しい。

物語は主人公・鷲津武時が謀反を起こした敵を討ち、その帰途の森で不氣味な老婆に出会い、彼女から「武時は北の館の主に、やがて蜘蛛巣城の城主になり、義明は一の砦の大将に、また義明の子はやがて蜘蛛巣城の城主になる」と不思議な予言をされるところから始まる。やがて予言通り事が運び始めると、欲望に取り憑かれた妻にそそのかされて主を殺し、自ら城主の地位につくのであった。蜘蛛巣城という小城を中心とした攻防戦という小さな世界の小さな権力のために、主人公は主を殺し友を裏切る。彼は、自身の器(うつわ)を超えた地位と権力を手に入れた故に、懐疑的になり惨めに自滅する。圧巻は、三船マクベスが、コレデモカ、コレデモカ、という無茶苦茶な矢の雨に曝されるラストシーン。

特撮ではなく、三十三間堂の通し矢の名手に、学生弓道部の部員が直接三船めがけてカメラフレームすぐ横から矢を射た。酒に酔った三船はこのシーンの撮影を思いだし、散弾銃を持って黒澤の自宅に押しかけ、自宅前で「コラ〜!出て来い!」と叫んだという。「黒澤の野郎、あいつ、バズーカ砲でぶっ殺してやる!」との彼の発言を聞いた人も多く、かなり腹立たしい思いをしていたようだ。

ちなみに、蜘蛛巣城は、私たちがよく知る熊本城・大阪城・名古屋城などのように権力の象徴として建てられたものではない。近隣大名との実戦を目的とした軍事要塞である。だから、低層の黒構えの城であり、外部に対し門を閉ざしている。そして、城内で繰り広げられる人々の欲望を包み込む。豊富な予算を手にしていた黒澤は、富士山麓に実物大のセットで蜘蛛巣城を造ることができた。日本映画界に資金が豊富にあった良き時代の良き作品である。

三船マクベスを、是非、ご覧アレ!

蜘蛛巣城 製作=東宝 1957.01.15 
11巻 3,006m 110分 白黒
監督   黒澤明
監督助手  野長瀬三摩地 田実泰良 金子敏 清水勝弥
脚本     小国英雄 橋本忍 菊島隆三 黒澤明
原作     シェークスピア 『マクベス』
撮影     中井朝一
音楽     佐藤勝
美術     村木与四郎
美術監修  江崎孝坪
録音     矢野口文雄
照明     岸田九一郎
記録     野上照代
特殊技術  東宝技術部
製作担当  根津博
流鏑馬指導 金子家教 (日本弓馬会範士) 遠藤茂 (日本弓馬会教士)



台風15号が沖縄本島に今日午後、最接近する。最大風速25〜50メートル、最大瞬間風速35〜70メートル、波の高さ6〜12メートルと予想された記録的な暴風雨が長時間続く。あすにかけ、50〜70ミリ/時の激しい雨が降り、局所的には80ミリ/時の猛烈な雨になる。その後も強い雨が続き、28日午前0時までの24時間にさらに最大300〜500ミリの記録的な大雨になる可能性が高い。土砂災害を警戒したい。

今週は、特に、慎重に、笑顔で参りましょう。

感謝
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竹島の領有権問題などに関して野田首相が李明博韓国大統領宛てに送った親書(レター)を、23日に韓国外交通商省は在日韓国大使館員(メッセンジャー)を日本の外務省に送り、直接、手渡しで返すつもりであった。しかしながら、わが外務省は、メッセンジャーが持って来たレターの受け取りを拒否した。聞くところでは、玄葉外相(48歳・福島県生)の指示だそうだ。暑い最中に、レターを返すために来た若い紳士を門前払いしてる様子がニュースで流された。彼を招き入れ、冷たい麦茶でも差し上げて、労をねぎらう器量も度量も発揮されなかった。外相は、「わが国の外交の品位を考える」方のようだが、器ではないらしい。彼が尊敬する石橋湛山やウインストン・チャーチルなら、メッセンジャーにお茶の一杯ぐらいは出させただろう。その後、レターは書留郵便で外務省に送り返され、結局、受け取るのであった。「わが国の外交の品位を考える」なら、先読みして、スマートに参りたいものです。

その昔、1868(明治元)年12月19日、明治新政府の使節で対馬藩家老の樋口鉄四郎らが、明治新政府の樹立を李氏朝鮮に通告する為に釜山浦に入港した。(李氏朝鮮は、1392年から1910年まで続いた朝鮮半島の最後の王朝) しかしながら、大院君政権下であった朝鮮は、日本使節が持参した『国書』の受け取りを拒否した。その理由は二つあった。ひとつは、文面に「皇上」「奉勅」の文字が使われていたから。もうひとつは、署名・印章ともにこれまでの徳川幕府のものと違っていたからであった。

李氏朝鮮は、「皇」は中華(清朝)皇帝にのみ許された呼称であり「王の国が皇を使うとは何だ、無礼だ」と受け取った。「勅」は中華の皇帝の詔勅を意味した。朝鮮王は中華皇帝の臣下ではあるが、日本国王(彼らは今も「日王」と呼ぶ)の臣下ではないので、この文字を使っている国書を受け取ることは出来ない、と考えた。そこで、明治新政府は、以後、度々使節を送って釜山での交渉を一年余り続けた。しかし、李朝は一貫して、文書の表現や形式がこれまでの慣例とは違うことを理由に、日本国書の受け取りを拒否し続けた。この状況が、大日本帝国に「征韓論」を浮上させる契機となった。世論を背景に、明治政府は砲艦外交に打って出る。1875(明治8)年、日本政府は雲揚などの軍艦を派遣し、釜山や江華島などで砲撃戦を行った。韓国が、大日本帝国による朝鮮侵略の始まりと主張する事件である。ここに清朝が仲介し、翌1876年に日鮮修好条約が調印された。

さて、朝鮮通信使(1607〜1811年に12回)が書いた『日東壮遊歌』(東洋文庫662・平凡社・1999年)の道中記は興味深い。大坂での記述には、当時の日本では高貴な家の婦女子が厠へ行くときはパジ(ズボン状下着)を着用していないので立ったまま排尿し、お供のものが後ろで絹の手拭きを持って立ち、寄こせと言われれば渡すと聞いて驚きあきれる話が見られるが、総じて日本の進んだ文化と社会体制への嫉妬と羨望が描写されている。現在、韓国の歴史教科書では歴史的事実を誇張・歪曲して「文化先進国の朝鮮と文化劣等国の日本」という自民族優越主義的な記述が見られ、韓国社会に広がる「韓国起源説」の温床になっている。『日東壮遊歌』を日韓両国のより良い教育環境形成のひとつとして活用したいものだ。


閑話休題(それはさておき)


8月18日に李明博韓国大統領が竹島に上陸した後、即座に野田首相は青瓦台(チョンワデ・大統領府)を訪ね、対面で話し合うというアクションをとらなかった。そのツケが今、回ってきている。「上陸」というアクションには、「緊急訪韓」というアクションで対応できたものを、もったいない。野田首相の祖父は朝鮮半島で生まれ熊本県天明町に移住した方だというから、先祖の話でもしながら大阪府中河内郡加美村(現大阪市平野区加美南3丁目)の「島田牧場」の社宅で生まれた李大統領(日本名は月山明博・つきやまあきひろ)と膝を交えた対話が出来たに違いない。両人の度量と器量のなさが、それを不可能にしたのだろう。

急遽訪韓して対話することを省略して、野田首相は李大統領宛の親書(レター)を送ることを考えた。李京秀(イ・ギョンス)駐日韓国大使館政務公使は「ちょっと来てほしい」という通知を受けて外務省を訪ねたところ、杉山晋輔アジア大洋州局長がいきなり封筒を差し出したという。それは密封され複写本が貼付されていなかった。複写本による内容の事前確認ができなかった。彼らが開封して内容を確認する前に、日本外務省のホームページにはレターの要旨が公開されてしまった。外交慣例上の非礼に当たるだろう。

平成24年8月17日
1. 本17日(金曜日)、野田佳彦内閣総理大臣は、李明博(イ・ミョンバク)大統領に対し、最近の同大統領の竹島上陸及び日韓関係に関する種々の発言について遺憾の意を伝えるとともに、近日中に、韓国政府に対し、竹島問題について、国際法にのっとり、冷静、公正かつ平和的に紛争を解決するための提案を行う旨伝え、また、日韓関係の大局に立って、日韓関係の未来のため、韓国側が慎重な対応をするよう求める旨の書簡を発出しました。
2. 同親書は、17日午後、杉山晋輔アジア大洋州局長が在京韓国大使館李京秀(イ・ギョンス)公使に手交し、転達方依頼しました。


慣例上、首脳間のレターは内容を公開しないものだが、上記のごとく公開している。さらに、恥ずかしいことに、野田首相のレターは日本海を渡ることもなく、東京の駐日韓国大使館から郵送で送り返されたのであった。送り主は、青瓦台(韓国政府)でも外交通商部(韓国外務省)でもなく、駐日韓国大使館であった。玄葉外相がレターを再送しない理由は、「わが国の外交の品位を考える」からだと説明しているが、実は自らの無知を恥じた結果なのかもしれない。

参照:外務省・野田総理発李明博(イ・ミョンバク)大統領宛親書の伝達

今回の韓国側の対応で明瞭になったことは、日韓の友好的外交関係よりも竹島の占有及び領土化が韓国にとっては最優先事項だということである。朝鮮半島地域は国連軍の監視下にあり、有事の際の戦時作戦統制権は米韓連合司令部にある。今年4月に在韓米軍司令官から韓国軍に移管される予定であった戦時作戦統制権は2015年12月1日まで延期となった。だから韓国単独で日韓戦争のシナリオを描くことはできない。しかし合衆国がゴーサインを出すならば可能となる。なにがなんでも、戦争は避けたい。だから、外交をするのだ。その外交が出来ない両国首脳には、日韓平和維持のために一刻も早くご退場願いたい。

日韓に関わる領土問題の曖昧さは、日本と合衆国(連合国)のサンフランシスコ講和条約(1951年9月8日調印・1952年4月28日発効)中に、日本が放棄する朝鮮に含まれる領域に竹島の文字がないことに起因している。合衆国側は竹島を日本の領域内に入れるためにこの措置を行ったのだが、その方針は合衆国の利害を考え、日本による領土主張を受けたウイリアム・シーボルト(William J.Sebald)の勧告がきっかけであった。シーボルトは占領下の東京に派遣されていたGHQ外交局長で、合衆国駐日政治顧問であった。

ところで、昨日の野田首相の記者会見で氣になることがあった。ダブルスタンダードの問題である。竹島の領有権問題で国際司法裁判所(ICJ)への共同提訴を提案しているが、尖閣の件では中国とICJへの共同提訴を提案していないところだ。一貫性に関する説明が今後、求められるかもしれない。

さあ、慎重に笑顔で参りましょう。

感謝

合衆国海兵隊が「環境への重大な影響はない」と結論付けた知識は、私たち民衆が日々の生活から得ている判断とかけ離れている。この場合の誠実な対応は、『私たちの知識は、環境への重大な影響があると結論づけました』と明快に知らせ、彼らに学びの機会を与えることだ。もし、彼らからの知識のみを無防備に受け入れることが誠実な姿だと思うなら、誤っている。それは隷従である。

オスプレイ:ハワイの訓練を中止 環境への影響を考慮
(毎日新聞 2012年08月23日02時33分(最終更新08月23日08時38分)
 米政府がハワイ州の2空港で予定していた垂直離着陸輸送機MV22オスプレイの着陸訓練計画を取り下げていたことが22日までに分かった。空港周辺の歴史的遺産に与える影響や騒音に関する住民意見などを考慮したため。米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)への配備のために実施した環境審査では地元や住民の意見を聞く機会はなく、米国内への配備手続きとの違いが浮き彫りになった。 
 日米関係筋などによると、米海兵隊は18年までに、ハワイのカネオヘ基地にオスプレイ24機を配備する計画。これに先立ち、米海軍省は10年8月から国家環境政策法などに基づき、環境影響評価(アセスメント)を実施した。
 海軍省はアセス草案でモロカイ島のカラウパパ空港、ハワイ島のウポル空港での着陸訓練計画を提示した。住民や他省庁からは、カラウパパ空港周辺の米国立公園局指定の歴史的遺跡に対する影響やウポル空港周辺の騒音被害を懸念する意見が相次いだ。
 これを受け、海軍省はアセス最終評価で、両空港での着陸訓練計画を取り下げる意向を表明した。今月に策定したアセス決定書でも「MV22の下降気流がカラウパパ空港に隣接する考古学的資源に与える潜在的影響を考慮」するとして、訓練から同空港を除外することを決めた。ウポル空港についても、海兵隊とハワイ州側の計画合意書で、緊急着陸などの使用に限定することが明記された。
 米国では今年6月、ニューメキシコ州のキャノン空軍基地に所属するCV22オスプレイの低空飛行訓練も、環境アセスに対する住民意見を受けて延期されている。
 米海兵隊は普天間へのオスプレイ配備に向け、今年6月、大統領令などに基づく環境審査結果を公表。カラウパパ、ウポル両空港で取り下げられたのと同種の着陸訓練を伊江島補助飛行場(沖縄県伊江村)などで計画していることを明記し、「環境への重大な影響はない」と結論付けた。同環境審査には、住民意見を募る手続きはない。【朝日弘行】
オスプレイの訓練計画を中止したハワイの2空港
http://mainichi.jp/select/news/20120823k0000m010106000c.htmlより転載

私たち民衆の生活を守ることを最優先にすべく、合衆国の軍隊の知識を更新したいものだ。知識を提供し、彼らを教育する見識と胆識(勇氣)がわが国の独立不羈を約束する。最も、オスプレイの沖縄配備に日本国として断固、反対し続けていれば、伊江島補助飛行場での着陸訓練は計画されなかったのだが・・・。


閑話休題(それはさておき)


67年前の昨日、1945年8月23日、 内務省は「進駐軍を迎える国民の心得」を諭告している。女性に対し、新聞等を通じて、「日本女性の心構えとして、日本の女子は日本婦人の自覚をもち外国軍に隙を見せてはいけない、ふしだらな服装は禁物である」、「駐屯地付近の婦女子は夜はもちろんのこと、昼間でも人通りの少ない場所の一人歩きをしないよう」等の指示・警告がなされた。一方で、数日前まで民間人に辱めを受けるよりは自決を強要していた国家権力が、連合軍を鬼畜米英と呼んで戦意を煽ってた国家権力が、合衆国兵に対し国営売春施設を設けるという政策を日本の婦女子を守るという名のもとで実施した。ヨーロッパの戦場で、合衆国軍のレイプにあった女性たちの実態が伝わっていたのかもしれない。被害者は14,000人、内ドイツ人女性 11,040人という記録がある。(Taken by Force: Rape and American GIs in Europe during World War II・ J Robert Lilly 著・12頁

敗戦(戦争停止発令)から3日後の18日、警視総監・坂信弥が中心になり、都内の芸子置屋同盟、貸座敷組合、慰安所連合会などの売春関連産業との打ち合わせを終え、内務省は各地方へ「外国駐屯軍慰安設備に関する整備要項」を行政通達した。これをベースに26日、連合国軍(合衆国軍)兵士向けの売春婦(慰安婦)のいる慰安所である「特殊慰安施設協会(RAA:Recreation and Amusement Association)」が設立された。

この協会の資本金は1億円で、その内の5,500万円は大蔵省の保証により管業銀行が融資している。後の総理大臣であり、当時の大蔵省主税局長であった池田勇人は資金の調達に尽力した。建設に必要な資材や営業に必要な生活什器、衣服、布団、約1,200万個のコンドームは東京都と警視庁が現物提供した。

「新日本女性に告ぐ! 進駐軍慰安婦の大事業に参加する新日本女性の協力を求む。事務員募集、年齢18歳以上25歳まで。宿舎、被服、食糧など完全支給」「戦後処理の国家緊急施設の一端として駐屯軍慰安の大事業に参加する"新日本女性"の率先参加を求む。女子事務員募集、年齢18才以上25歳まで。宿舎、被服、食料全部当方支給 — RAA」というような慰安婦募集宣伝が、8月31日の朝日新聞を皮切りに、以後、各新聞に同様の募集広告が次々に掲載された。また街頭ではチラシを配布し、銀座などに広告板を設置して慰安婦を募集した。一日あたり約300人が応募したが、大半は仕事の実態を聞いて去っていった。しかし、働くことを決めた者たちもいた。

RAAには、モンペ姿やセーラー服の少女が、東京だけで1,000人の募集に4,000人が応募してきた。そのなかには食料支給という言葉につられて集まってきた女性が多かった。そして1,360人が慰安婦として働くことになった。彼女らは戦争によって配偶者を失った未亡人もいたが、応募者の半数近くは処女だったと言われている。焼け野原の東京で餓死しないため、生きるためであった。「応募すれば衣食住が満たされる」、この条件は彼女たちにとって生きるための必要条件であったことは言うまでもない。応募した女性の多くが、素足のままであった。全国で4,000人が募集されたが、慰安婦を志望した彼女たちは「昭和の唐人お吉、日本民族の血統を守る人柱」と訓辞された。RAAは国家政策としてきわめて真面目なもの(※注)と考えられ実施された。結果、RAAは、日本政府の予想とおり合衆国兵が列をつくるほどの大繁盛となった。最盛期には都内だけで国営売春施設は20カ所以上、全国では7万人の慰安婦が働いていた。(ひとりの慰安婦が取る一日の客数は30〜50人であった) 彼女たちの6割が梅毒など何らかの性病に罹患した。彼女たちは進駐軍の毒牙から婦女子を守るための防波堤と見なされた。

※注)参考:『被占領心理 肉体の戦士R.A.Aと官僚的「合理性」』・川島高峰明治大学政治学研究室http://www.isc.meiji.ac.jp/~takane/ronbun/hisenryou.htm

進駐軍(合衆国兵)の不法行為は慰安所の開設後も数多く発生した。最初に合衆国軍が横須賀に上陸した1945年8月30日に早くも強姦事件が起きている。特別高等警察はこれらの不法行為を解散命令が出た1945年10月4日まで調査を続け、内務省警保局外事課より「進駐軍ノ不法行為」として文書化された。この合衆国にとって不名誉な文書は一旦没収されたが、1973年12月に日本へ返却、翌年1月より国立公文書館に所蔵された。(『敗戦前後の社会情勢:第7巻 進駐軍の不法行為』・現代史料出版) 神奈川県下だけで最初の10日間に、1,336件の強姦事件が発生したとの記録もある。(Schrijvers, Peter著、2,002年・ The GI War Against Japan. New York City・ New York University Press・212頁

1946年1月にGHQは日本政府に公娼制度(貸座敷・娼妓)の廃止を求め、3月27日に「公娼廃止に関する覚え学」を出し、すべてのRAAが廃止された。前アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルト夫人エレノア・ルーズベルトの反対、性病の蔓延が理由であった。売春行為そのものを反民主主義、反人道主義的行為とする合衆国世論の広がり、そして合衆国に帰った兵隊たちの妻や母親から性病に冒されているとの抗議がGHQに殺到したのであった。慰安婦の失業した彼女たちへの補償は無かった。強制的なものでもないし、給与が払われていたこともあり、日本国から彼女たちへの保障は現在まで全く行われていない。

RAAが廃止される前の強姦事件と婦女暴行の数は、1日平均40件であった。廃止後、1946年前半の1日平均数は330件に増えている。(Svoboda, Terese. "Race and American Military Justice: Rape, Murder, and Execution in Occupied Japan". The Asia-Pacific Journal,Japan Focus.)

多くは街娼、水商売等に進んだと言われる。国家管理の売春が自由意志の売春に姿を変えたのだ。街頭に放り出された彼女たちは、手に職もなく、もぐりの売春婦となり、街に立った。「パンパン」「パン助」「オンリー」「夜の女」「闇の女」等の軽蔑と羨望がミックスされた俗称で呼ばれた彼女たちの相手は、自然、占領軍から日本人へとシフトしていった。

性風俗が悪化するのを回避したい政府は、1946年11月4日、「接待所慰安所等の転換措置に関する通達」を出した。特殊飲食店等の地域を限定して設け、社会上やむおえない社会悪として売春を黙認する政策を実施した。特殊飲食店は風紀上支障のない地域に限定し、売春を地区で認めるようになった。娼家は特殊飲食店・「カフェー」に、娼婦は「女給」と名前を変え、売春が行われた。戦前から政府公認の売春ゾーンが「赤線」と呼ばれたのは、警察の地図上に赤い線で囲まれていたからであった。1945年9月現在、東京では吉原・州崎・新宿・立川・小岩・向島など16カ所が赤線の指定を受け、全国では662カ所が指定され、娼婦は49,000人いた。公認の「赤線」に対して、非公式に売春行為をおこなう場所は「青線」と呼ばれた。

1955年「売春白書」によれば、全国の売春地区(赤線)は1,921カ所で売春婦は約50万人であった。いかに加速度的に数が増えたかがわかる。これは組織売春に限られた統計であるから、カウントされないフリーの売春を含めるならば、売春婦の数はこれ以上になるだろう。(ひとりの売春婦が一日にとる客数は平均2〜4人とされている) 生活苦が理由で売春を始めたにもかかわらず、組織で働く彼女たちの手取りは3割で、残りの7割は搾取されていたのだから、生活苦からの解放を手にしたものは多くはなかった。

売春防止法が施行される1958年4月1日まで、「赤線」での公認売春は続けらえれた。

菊池章子が歌う「星の流れに」( 清水みのる 作詞、利根一郎 作曲)。作詞した清水は、敗戦して間もない頃、東京日日新聞(現在の毎日新聞)に載った女性の手記を読んだ。もと従軍看護婦だった彼女は、奉天から東京に帰ったが、焼け野原で家族もすべて失われたため、「夜の女」として生きるしかないわが身を嘆いていたという。清水は、戦争への怒りや、やるせない氣持ちを歌にした。こみ上げてくる憤りをたたきつけて、戦争への告発歌を徹夜で作詞し、作曲の利根は上野の地下道や公園を見回りながら作曲したという。テイチクではコロムビアから移籍したばかりのブルースの女王・淡谷のり子に吹き込みを依頼したが、「夜の女の仲間に見られるようなパンパン歌謡は歌いたくない」と断られた。そこで、会社は同じくコロムビアから移籍していた菊池に吹き込みを依頼した。彼女は歌の本心を知り、戦争の犠牲になった女の無限の哀しみを切々と歌い上げた。完成した際の題名は『こんな女に誰がした』であった。しかし、GHQから「日本人の反米感情を煽るおそれがある」とクレームがつき、テイチクは題名を『星の流れに』と変更し発売した。


大きな笑顔の良き週末を

感謝

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