流れのままに

流れのままに おのが道をゆけ ひたすらに ひたむきに

二〇一二年長月

フランス北東部の、ライン川左岸に位置するストラスブールは、グーテンベルグが印刷術を発明したと伝えられる都市である。また、カルヴァン、ゲーテ、モーツァルト、パストゥールなどもここで過ごしたことがあった。現在、ヨーロッパ議会やヨーロッパ人権委員会の本部が置かれ、ヨーロッパを代表する国際都市のひとつとしても知られる。フランス語では「ストラスブール」、標準ドイツ語では「シュトラースブルク」、アレマン語では「シュトロースブリ」、アルザス語では「シュトロースブーリ」と呼ばれるこの地域は、過去何百年にも渡るヨーロッパにおける領有権争いの中心であった。
ストラスブール
17世紀、フランス王ルイ14世の膨張政策が自然国境論のもとこの地域に触手を伸ばし、三十年戦争でドイツ圏のエルザス・ロートリンゲン地方(アルザス=ロレーヌ地方)を獲得すると、1697年に大同盟戦争の講和条約であるレイスウェイク条約によりフランス王国の領域に入り、シュトラースブルクはフランス語風にストラスブールと呼ばれた。そして、普仏戦争でプロイセンが勝利すると、アルザス=ロレーヌ地方はドイツ帝国領に復帰した。その後、第一次世界大戦でフランスが勝利すると1919年にこの地域は再びフランス領となった。第二次世界大戦でも独仏戦の戦火に巻き込まれ、1940年にドイツが自国領とするも1944年に連合国が奪還している。九州の3分の2ほどの広さがあり、元来ドイツ系の人々が住んでいた都市ではあるが、ドイツは返還を求めようとはしない。仏独互いの協働により利益を勝ち取る方向性を見出したのであった。1988年には、ライン川の支流イル川の中洲にある旧市街が「ストラスブールのグラン・ディル」としてユネスコの世界文化遺産に登録されたのは、領土問題を乗り越えた両国経営者たちの英知に起因している。ロシア・韓国・中国との間にわが日本は領土問題を抱えている。問題解決は一つの選択肢だが、このままの状態で、すなわち領土問題を抱えたままで、相互の協働により利益を勝ち取る方向で領土問題を乗り越えるという選択肢を加えてもいいだろう。その必要条件は、建設的な対話促進である。


閑話休題(それはさておき)


ナチスによるユダヤ人や共産主義者、ジプシーなどの虐殺、強制的断種措置といった行為の背景には、「アーリア人」という観念やレイシズム(人種主義)があったと言われている。1929年にこの人種主義的実践の中心的遂行機関であった親衛隊(SS)の全国的主導者となったのが、ハインリッヒ・ヒムラー(1900〜1945)であった。彼のアーリア人種観は次の3点に収斂できる。先ず、アーリア人とユダヤ人の世界史的闘争という考え方。次に、アーリア人種こそが唯一文化創造能力を持つという考え方。そして第三に、アーリア人の優秀性を維持、回復させるためには、「血の選別」を行わなければならないという考え方である。彼は、そのアーリア人の起源をチベットに見出していた。

ナチス発見の仏像、隕石だった=大戦前夜、チベット探検−調査チーム
(パリAFP=時事 2012/09/27-06:26)
 第2次世界大戦勃発前夜の1938年、秘境だったチベットに足を踏み入れたナチス・ドイツの探検隊が発見した約1000年前の仏像は、宇宙から飛来した隕石(いんせき)を彫刻して制作された極めて異色の作品だったことが分かった。ドイツの調査チームが鑑定結果を26日、学術誌に発表した。
 この探検隊は、ナチス親衛隊(SS)長官ハインリヒ・ヒムラーの支援の下で派遣されたもので、「アーリア人の優越」というナチスの人種イデオロギーの裏付けを探るためにチベットに送られた。ヒムラーはアーリア人の起源はチベットにあり、その優越性の証拠が同地で見つかると信じていたとされる。
 探検隊が持ち帰った仏像は毘沙門天の座像で、高さ24センチ、重さ10.6キロ。「鉄の男」と呼ばれていた。
 化学的に分析したところ、約1万5000年前にシベリアとモンゴルの境界付近に落下したチンガー隕石の一部を加工研磨して作られたと断定された。ナチスのシンボルであるかぎ十字とは逆向きの「まんじ」が胸に描かれ、探検隊が興味を持ったと言われている。
隕石の仏像
ナチス・ドイツの探検隊が1938年にチベットで発見した仏像。調査の結果、隕石(いんせき)を彫刻して制作されたことが判明した(AFP=時事)http://www.jiji.com/jc/c?g=int_30&k=2012092700069より転載


このブログ『ながれにままに』の副題「おのが道をゆく ひたすらにひたむきに」の「おのが道」とは何ですかという質問を頂いたのでお答えします。己が道のことで、他人の夢の奴隷にならない、縛られない、我慢から解放される、括られない、ライフスタイルのことです。
オータムフェスト2012
昨日の夕方に大通公園のオータムフェストにて。札幌市を横切る北緯43度線は、イタリア、フランス、スペインと南ヨーロッパ諸国を通過する。四季おりおりの表情を持つ札幌の氣候風土は、時としてヨーロッパにいるような氣持ちにさせてくれる。ヨーロッパの伝統ある街々の多くが独自の食文化とともに成熟したと同様、この豊かな北の街にも『食』がマッチしている。
オータムフェスト2012


大きな笑顔の良き週末を

感謝

2006年9月26日を最終在職日とした第90代内閣総理大臣・安倍晋三(1954.9.21生)氏は、昨日9月26日に野党第一党の自由民主党総裁に選ばれた。はたして、彼は6年前に彼を退陣に追い込んだ好ましくない勢力への逆襲を開始するだろうか。九星による彼の星回りは、一白水星。本年は『知者は惑わず、仁者は憂えず』の年回りで、異分野の世界を体験することで、自分の考え方や生き方を大きく変えることができるかもしれない。ただし、秘密の暴露が待ち受けているだろうから注意が必要だ。ウォーモンガーズ(戦争屋)と刺し違える覚悟を持って、この日本人と日本国を守るという氣骨(バックボーン)を見せて欲しい。戦争という手段を使わずにわが国と隣国との問題を解決に導いて欲しいのだが、そのような三識(知識・見識・胆識)を彼とブレーンたちが備えているかは分からない。安倍氏の叔父・西村正雄氏が6年前に『歴史から学べ』(「タカ派議員こそ平和ボケ」)と題されたインタヴューを残してくれた。是非ともこの方の智慧を承継していただきたい。


閑話休題(それはさておき)


昨日は、安倍氏の空台詞『戦後レジーム(体制)からの脱却』を実践した「国民の生活が第一」代表の小沢一郎(70)氏の控訴審第1回公判が東京高裁(小川正持裁判長)で開かれた。検察官役の指定弁護士は、2000年ごろまで小沢事務所で勤務した元秘書2人の供述調書などを新たに証拠請求したが、高裁は採用せず、証人尋問も行わないことを決めた。公判はわずか1時間で結審し、判決は11月12日に指定された。資金管理団体「陸山会」の土地取引をめぐり、政治資金規正法違反(収支報告書の虚偽記載)罪に問われ、一審で無罪とされた小沢氏は再び無罪判決を手にする。わたしたち市民は、この検察審査会の強制起訴によって、誰が、何を、何時、如何にして手にしたを見抜く眼力を持ちたい。東京新聞のような真摯なジャーナリスト魂がそれを助けてくれるに違いない。
東京新聞(合衆国の圧力
参照:http://www.yokota.af.mil/

大きな笑顔の良き一日を

感謝

諏訪さんは、プライベートな集まりでは演奏なさっていたようだが、この3月に昇天なさった。戦争さえなければ、彼女はもっと多くの仕事が出来て、人材も育ったに違いない。

諏訪根自子さん:今年3月に死去 世界的バイオリニスト
(毎日新聞 2012年09月24日 22時11分(最終更新 09月24日 23時05分)
 戦前から戦後にかけて世界的なバイオリニストとして活躍した諏訪根自子(すわ・ねじこ)さんが今年3月に死去していたことが24日、関係者の話で分かった。92歳。東京都出身。葬儀・告別式は近親者で行った。
 3歳でバイオリンを始め、「天才少女」と評判となった。16歳からベルギーに留学し、第二次大戦中も欧州各地で演奏活動を続けた。ウィーン・フィルやベルリン・フィルといった名だたるオーケストラと共演、ナチス・ドイツ宣伝相のゲッベルスから贈られたストラディバリウスが愛器だったという。
 終戦後に帰国。1960年ごろから公式な活動を行わなくなり、80年代に一時復帰して話題を集めた。(共同)
http://mainichi.jp/select/news/20120925k0000m040092000c.htmlより転載
諏訪根自子


諏訪根自子 〜日本人初の世界的ヴァイオリニスト〜
(花の絵 2011.06.07)
 戦前から戦中にかけて海外でその実力を認められ、高い評価を得ていた世界的ヴァイオリニスト、諏訪根自子(すわ・ねじこ)。おそらく彼女の名前を見て胸を熱くするのはかなり上の世代だろう。
 諏訪のファンだった城山三郎は「日本が初めて生んだ知的な美人という気がした」と述べていたそうだ。たしかに綺麗な顔立ちである。一目でそれと分かる美人ヴァイオリニスト。ただ、音楽的にはどうなのか。「日本人初の世界的ヴァイオリニスト」という看板に偽りはないのか。それもレコードやCDが入手困難な状況にあるため、私には確かめようがなかった。
 そんなある日、諏訪根自子独奏によるJ.S.バッハの「無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ」全曲を聴く機会を得た。知人が数万円出してレコードを購入したのだ。私はあまり期待もせずに出向き、スピーカーと向き合った。そして、ノックアウトされた。パルティータ第3番を聴き終えた後は、胸がいっぱいになり、「まいった」という間抜けな感想しか出てこなかった。あれからもう5、6年経つが、今もその余韻はうっすらと、しかし消えることなく残っている。
諏訪根自子2
 諏訪根自子は1920年1月23日東京生まれ。3歳からヴァイオリンを始め、中島田鶴子に師事。1年後、中島の師である小野アンナの指導を受けた。小野アンナはロシア生まれ。貴族の出で、ロシア革命を逃れて来日、多くのヴァイオリニストを育てた名教師である。その指導はかなり厳しかったようだが、おかげで諏訪のヴァイオリンの腕前はめきめき上達した。
 1927年に一条公爵家の園遊会、1929年に小野アンナ門下生の発表会で演奏を披露し、評判となる。1930年からはアレクサンドル・モギレフスキーに師事。師から「天才という言葉があります。彼女の場合、これは少しも誇張された言葉ではありません」と絶賛される。
 1931年1月、来日した名ヴァイオリニスト、エフレム・ジンバリストの前でメンデルスゾーンのコンチェルトを披露、ジンバリストを驚かせた、という記事が朝日新聞に載る。その際ジンバリストは「早くヨーロッパに行って先生についてはどうか。自分も必ず年に二度ずつ立ち寄って面倒を見るから」と激励したらしい。
 1932年4月9日、日本青年館で正式にデビュー。その演奏を客席で聴いていたフランスの閨秀ヴァイオリニスト、ルネ・シュメーのコメントが残されている。「理屈は抜きにして、ヨーロッパへ行っても、この歳でこれだけの子はいません」ーーここまではエリカ・モリーニか、ジネット・ヌヴーか、諏訪根自子か、という勢いだ。
 1936年1月、交換留学生としてベルギーへ。エミール・ショーモンに師事した後、パリでボリス・カメンスキーに教わり、1939年5月19日、サル・ド・ショパン(ショパン楽堂と表記している資料もある)でヨーロッパ・デビュー。しかし、まさにこれから輝かしいキャリアが始まらんとしている時、第二次世界大戦が勃発する。
 そのままパリに留まった諏訪は、ジャン・フルネ指揮、コンセール・ラムルーと協演。1942年頃、同盟国ドイツに移住。1943年にはハンス・クナッパーツブッシュ指揮、ベルリン・フィルと協演。ゲッベルスからストラディヴァリウスを贈られたのもこの頃のことだろう。
 1944年にはスイス(ローザンヌ、ジュネーヴ、チューリヒの3都市)でリサイタルを開き、賞賛される。中立国とはいえ、当時の日本人に対する目線は決して寛容なものではなかったと思われるが、聴衆は諏訪の魔術のような演奏に感嘆し、惜しみない拍手を送ったという。
諏訪根自子3
 1945年12月7日、アメリカ経由で帰国。帰国するまでの間、諏訪はストラディヴァリウスを肌身離さず抱えていた。『アサヒグラフ』のインタビューにも「これだけは生命がけで大切にしてきました」と答えている。
 1946年10月3日に開かれたコンサートを皮切りに演奏家としての活動を再開。1960年頃から公の場では演奏しなくなった。1968年に大学教授の大賀小四郎と結婚。大賀が西独日本文化館初代館長に就任すると、夫と共に渡欧し、1972年に帰国した。
 1981年、J.S.バッハの「無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ」全曲のレコードを発表、大きな話題を呼んだ。これは1978年から1980年にかけて録音されたもので、一切テープ編集を行わず、そのまま世に出したという。つまりレコーディング・スタッフを前にしたライヴ録音である。
 粗はあるものの、どの作品の演奏にも生々しい息遣いと気魄が刻印されている。その響きには聴き手の胸を圧迫するような重みがある。生涯にわたって弾き続けた「シャコンヌ」は厳格さと情熱が交錯する熱演。凄い緊張感である。「激動の昭和、波瀾万丈の青春時代を送った才媛の......」といった一種の感傷的説明を差し引いても、この録音の音楽的価値が下がることはないと思う。
 このCDとレコードは一部ファンの間でお宝とされ、かなりの高値で取り引きされている。出来れば再発してもらいたいものだ。
 諏訪根自子は今年91歳になっているはず。どこで何をされているのかは分からないが、今もその手にヴァイオリンは握られているのだろうか。
http://www.hananoe.jp/classical/takuminomiri/takuminomori13.htmlより転載


いつの間にか、姿を消してしまった二人の日本人女性がいる。

原節子さん(1920.6.17〜)と諏訪根自子さん(1920.1.23〜2012.3)である。


さあ、今日も笑顔で参りましょう。

恵みの雨の札幌にて

感謝

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