流れのままに

流れのままに おのが道をゆけ ひたすらに ひたむきに

二〇一三年長月


岡本太郎画伯(1911〜1996)の父・岡本一平氏(1886〜1948)が函館生まれであることは記憶にあった。今回、画伯の祖父・岡本竹次郎氏が函館師範学校に採用され教鞭を取ったことが縁で、一平が函館で生まれたことを知った。竹次郎は書家・岡本可亭としても知られた人物で、「山本山」など日本橋の大きな商店の看板の多くが彼の字であったという。興味深いことには、北大路魯山人が竹次郎に師事し書を学んでいた。また、一平は当時最新の映画手法であったクローズアップや鳥瞰法を漫画表現に導入し、絵巻物風に横へ時間軸が動いていた漫画を上から下へと見るようにした。彼は漫画に革命をもたらした人気漫画家であった。太郎の家庭には、この父と母・かの子(1889〜1939)がいた。しかしながら、多用な父と子をまったくかまわない母は、太郎を教育することも家庭的な愛情を与えることもなかった。その家に太郎の居所はなかった。彼は不登校児となり、小学校を幾度か変わった。小学校1年生の時にはすでに、「太陽」は最も「身内」な話し相手のような存在になっていた。彼は孤独ではあったが、孤独な闘争に耐える能力を自ら育み、その闘争過程に独創的な花を咲かせた。

1970(昭和45)年開催の大阪万国博覧会の巨大なシンボル・タワー『太陽の塔』は、当時の知識人たちから「日本の恥辱」などと批判を浴びた。しかし画伯は、「文明の進歩に反比例して、人の心がどんどん貧しくなっていく現代に対するアンチテーゼとしてこの塔を作ったのだ」と反論した。主催者が塔の内部に歴史上の偉人の写真を並べようとした時、彼は「世界を支えているのは無名の人たちである」と主張して、無名の人々の写真や民具を並べるよう提言・実現した。塔内部には全長45メートル高さの「生命の樹」をつくった。これは新しい概念であり、生命を奏でるエネルギーの象徴であった。2014年度から一般公開される予定。参照→http://www.yomiuri.co.jp/stream/m_news/vn130430_4.htm

taro
南青山の庭で

孤独とは自己のテクノロジーであり、
自己について太陽(=他者)と討議する度合いのことである。

静かな深夜に   感謝

鹿児島県奄美大島沖の海底で発見の報告が続いていたミステリーサークル。実は、シッポウフグの仲間の新種とみられるオスが、メスに産卵してもらうためにつくったものであった。体長10センチのオスが飾り立てたサークルは、直径2メートルはある幾何学模様。それは水深20〜30メートルの海底にあり、20年くらい前からダイバーたちに知られていた。昨年(2012年)6〜7月、千葉県立中央博物館の川瀬裕司・主任上席研究員や水中写真家・大方洋二氏らが10個のサークルを調査し、10日間程で作られているのを確認した。



これほどまでに精密な建造物をフグが作っている。
このフグは、独学で学習したのであろうか。
いや、そんなことはない。
自己と他者、雄と雌、陽と陰、そして宇宙との関係のみが拠り所である。

流れのままに、あるがままに、導かれ、天与の能力を発揮した。


神々しく静かな朝陽を浴びながら

大きな笑顔の佳き一日を   感謝

大御心(おおみごころ)は天皇の心と言われるが、それは皇祖皇宗の遺訓に順ったものであり、日本民族の一般意思であって、時代により変化しがちなその場限りの多数意思ではない。天皇陛下のスピーチにこの大御心を感じる方は多いだろう。わが国では日本語を「国語」と呼んでいるが、その国語のテキストに天皇陛下のスピーチを掲載し、おおらかな優しい気持ちを日本語で伝える契機としたいと願うのは私だけであろうか。

日本体育協会・日本オリンピック委員会創立100周年記念祝賀式典
(平成23年7月16日(土)(グランドプリンスホテル新高輪))
 国内外から参加された皆さんと共に日本体育協会・日本オリンピック委員会創立100周年記念祝賀式典に臨むことを誠に喜ばしく思います。
 日本体育協会と日本オリンピック委員会は,今から100年前の明治44年,1911年に,嘉納治五郎会長の下で大日本体育協会として創立されました。国際オリンピック委員会委員でもあった嘉納会長は,大日本体育協会が日本を代表する国内オリンピック委員会であるとともに日本におけるスポーツ振興の中核的存在となることを願っていました。そして翌年にはストックホルムで行われた第5回オリンピック大会へ嘉納団長の下,二人の選手が参加しました。日本選手が初めてメダルを獲得したのはそれから8年後,アントワープ大会のことであります。種目はテニスであり,熊谷一弥選手が銀メダルを,ダブルスで熊谷選手と柏尾誠一郎選手が同じく銀メダルを受賞しました。それから8年後,アムステルダム大会では三段跳びで織田幹雄選手,200メートル平泳ぎで鶴田義行選手がそれぞれ金メダルに輝きました。大日本体育協会の支援の下,日本のスポーツは盛んになり,ロサンゼルス大会とベルリン大会における日本選手の活躍には目覚ましいものがありました。
 しかし,その後,第二次世界大戦が起こり,終戦までに日本を含む多くの国々で大勢の人々が,かけがえのない命を失いました。ロサンゼルス大会の馬術大賞典障害飛越で優勝した西竹一中尉,ベルリン大会の棒高跳びで西田修平選手と二位と三位を分け合った大江季雄(すえお)選手もこの戦いにおいて帰らぬ人となりました。
 日本の各地は空襲で焼け野原となり,戦後の人々の生活には誠に厳しいものがありました。このような荒廃した状況の中,日本体育協会の前身である大日本体育会の関係者が集まり,国民,特に青少年にスポーツの喜びを与えたいと国民体育大会を開催することが提案されました。食糧難,交通難,宿舎難など様々な困難を乗り越え,終戦の翌年,国民体育大会は,戦災を免れた京都市を中心にして開催されました。戦争の痛手に打ちひしがれていた日本の人々に,スポーツの面から復興の気持ちを盛り立てようとしたスポーツ関係者の気概には心を打たれるものがあり,日本のスポーツがこのような先人の努力の上に築かれたことに深く思いを致すのであります。
 今日,日本体育協会と日本オリンピック委員会は独立した組織となっており,日本体育協会は,国民スポーツの普及振興を,日本オリンピック委員会は,国際競技力の向上を担うこととなっています。両者が交流を深めつつ互いに助け合い,高め合って,スポーツの発展に力を尽くされることを願い,記念式典に寄せる言葉といたします。http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/okotoba/okotoba-h23e.html#D0716より転載

国際オリンピック委員会(IOC)は7日に総会を開き、日本時間8日(日曜日)午前5時に2020年夏季五輪の開催地を発表する。日本(東京&福島)の放射線の問題はオリンピックまでの7年間で解決できる期待は薄いが、スペイン(マドリッド)の経済危機は7年後には解決していると期待できる状況にある。そんな中、以下のニュースが流された。
久子さま:IOC総会へ 宮内庁長官「苦渋の決断」
(毎日新聞 2013年09月02日 21時07分(最終更新 09月02日 23時07分))
 宮内庁は2日、高円宮妃久子さまが、アルゼンチン・ブエノスアイレスで7日開かれる2020年夏季五輪開催都市を決める国際オリンピック委員会(IOC)総会に出席すると発表した。東日本大震災支援への感謝を表すスピーチをするが、「皇室は招致活動に参加しない」との姿勢を守ってきた宮内庁は、風岡典之長官が記者会見し、政権側の要請を受け入れたとして「苦渋の決断をした。天皇、皇后両陛下もご案じになっていらっしゃるのではないか」と異例の言及をした。
 日本の皇族がIOC総会に出席するのは初とみられる。宮内庁によると、久子さまは総会前のレセプションなどでIOC委員と懇談する予定だったが、下村博文文部科学相が8月26日に同庁を訪れて総会出席を要請、官邸からも同様の要請があった。
 同庁は、海外との競争の面がある五輪招致活動に皇室が関わるのを避けてきた経緯があり、風岡長官によると、下村氏に対し懸念を伝えたが、委員全員がいる場で謝意を伝えられる▽プレゼンテーションとは区分する−−との説明を受け、「総会まで時間も迫っており、内閣の一員としてぎりぎりの判断をした」と説明。招致活動への関与に当たるかについては「正直微妙だと思う」と認め、「前例とはしない」と述べた。
 両陛下には先月末に報告。風岡長官は詳しい説明は避けつつ「昭和からの皇室の対応にかんがみて(今回の決定を)案じられていると拝察した」と述べた。http://mainichi.jp/feature/koushitsu/news/20130903k0000m040054000c.htmlより転載

オリンピック招致は海外の他の都市と競うもの。皇室はあくまで国際親善の観点から、また儀礼上諸々のオファーを受けるに過ぎず、招致活動に携わることはない。もしかすると、風岡長官の「昭和からの皇室の対応にかんがみて(今回の決定を)案じられていると拝察した」との思いは、『わが国にとっての最優先事項は、オリンピック誘致ではなく、福島第一原発の放射能問題の解決にあるのだから、福島を何とかしたい』との思いを婉曲に伝えたのかもしれない。


閑話休題(それはさておき)


「開国に反対の孝明天皇が亡くなり,10代の若さで私の曽祖父明治天皇が即位いたしました」という個所に、今上天皇の奥深い知性を見た。明治天皇の父に当たる孝明天皇(1846〜1867)は、平安京最初の天皇・桓武天皇を祀る平安神宮へ、平安京最後の天皇として昭和15年(1940年、皇紀2600年)に合祀された。
国賓 フランス大統領閣下及びトリエルヴェレール女史のための宮中晩餐
(平成25年6月7日(金)(宮殿))
 この度,フランス共和国大統領フランソワ・オランド閣下が,ヴァレリー・トリエルヴェレール女史と共に,国賓として我が国を御訪問になりましたことを,心から歓迎いたします。
 歓迎の言葉を述べますに先立ち,まず大統領閣下に,おととしの3月11日に発生した死者,行方不明者が2万人を超える東日本大震災に対して,貴国から緊急援助隊を始めとする,様々な支援を頂いたことに,深くお礼を申し上げます。
 私が貴国を初めて訪れましたのは,1953年,私の父昭和天皇の名代として,エリザベス女王陛下の戴冠式に参列した機会に,貴国を始めとする欧米諸国を回った時のことでありました。平和条約が発効した翌年,戦争により荒廃した国土から訪れた19歳の私にとって,欧米諸国の実状に触れたこの旅は,その後長く心に残るものでありました。貴国では,最初の3日間を国賓として迎えられ,エリゼー宮にオリオール大統領を訪問し,その後御夫妻が,午餐会を催してくださいました。
 それから40年余,私は皇后と共に国賓として貴国を訪問いたしました。当時ミッテラン大統領は,御健康が優れないにもかかわらず,寒い空港に私どもを迎えられ,晩餐会を催してくださり,また昼食にお招きくださるなど,心のこもったおもてなしを頂きました。大統領は,それから時を経ず亡くなられましたが,真面目な温かいお人柄が懐かしくしのばれます。
 歴史を振り返りますと,貴国と我が国は,1858年,貴国と徳川幕府との間に締結された修好通商条約により,交流が始まりました。この時期に,我が国は外国からの強い要請により,200年以上続けてきた鎖国政策を改め,開国を決断いたしました。当然のこととして,国内には大きな変化が起こりました。開国に反対の孝明天皇が亡くなり,10代の若さで私の曽祖父明治天皇が即位いたしました。200年以上続いた徳川幕府は廃止され,天皇は千年以上にわたって住み続けた京都から,当時江戸と呼ばれていた東京に移り住むこととなり,今日に至っています。
 その後,我が国は欧米諸国に伍ごして国を発展させるため,欧米諸国から多くのことを学びました。「日本近代法の父」として記憶されているギュスターヴ・ボワソナード教授は,1873年から20余年を我が国で過ごし,ナポレオン法典を基礎とした民法典の起草など,日本の近代法典の整備や,我が国における法学教育に尽力されました。
 貴国と我が国は,国交が開かれた当初から,お互いに重要な貿易上の相手国でありました。中でも,我が国古来の伝統文化に深く根ざす生糸は,かつて,貴国への最も重要な輸出品でした。1855年に,欧州を襲った蚕の微粒子病により,当時世界一と評された貴国の養蚕業と絹織物産業が大打撃を蒙こうむった際には,横浜港から貴国に向けて輸出された我が国の蚕種と生糸が,貴国のそれらの産業の立ち直りに貢献しました。一方,我が国は,近代繊維産業を発達させる上で,貴国から多くのことを学んでいます。1872年,我が国において,リヨン出身のポール・ブリューナ氏と,同氏が貴国から伴ってきた技師や職人の指導の下,西欧の近代技術と工場システムを導入した富岡製糸場が建設されました。我が国の各地で,繊維産業に携わる人々の多くも,この製糸場で育てられていきました。おととし,私は皇后と共にこの製糸場を訪れ,今も史跡として大切に保存されている建物の内部を見学し,往時をしのびました。
 貴国と我が国との交流は,文化面においても誠に実り多いものでありました。19世紀後半のパリ万国博覧会に出展された我が国の浮世絵,漆器,陶器等は,貴国の人々に深い関心を持たれたと聞いております。一方,我が国からは,それまでの日本画とは異なる油絵や彫刻を学ぶために,多くの人々が渡仏しました。貴国の文学や音楽も,広く我が国の人々に親しまれてきています。
 両国の交流は,現在,更に広範な分野に広がり,深さを増しています。このような両国の交流の拡大と深化をうれしく思うとともに,両国関係の一層の発展を心から祈念しています。
 日本は今,梅雨の時期に入り,御滞在中の天候が心配されますが,大統領閣下並びにトリエルヴェレール女史のこの度の御滞在が,真に実り多きものとなりますよう願っております。
 ここに杯を挙げて,大統領閣下並びにトリエルヴェレール女史の御健勝と,フランス国民の幸せを祈ります。http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/okotoba/okotoba-h25e.html#D0607より転載

元侍従長の浜尾実氏が旭川ロータリークラブで語られた話で、面白いものがある。昭和天皇が四国のある村を訪問なさった。そして、そこの村長から見晴台から見える山の説明をお受けになった。その時、昭和天皇は指を差されて「あの山は何と言う山かね?」とお尋ねになった。一瞬、困った村長は「陛下、あの山はただの山でございます」と返答した。その時何もなかったように振舞う陛下の足元をみると、一生懸命笑いをこらえて足元が震えているのが分かった。後日、東京にお帰りになった昭和天皇は、皇太子(今上天皇)にこの話をお伝えになった。後年、同じ村を皇太子が訪問された。同じ場所に立って村長にまず、「村長、ただの山とはどの山ですか?」とお尋ねになった。昭和天皇にも似たユーモアとウィットを今上天皇も持ち合わせているようだ。

笑いは、百薬の長。
笑う門には、福来たる。

今日は、おおらかな優しい氣持ちで参りましょう。

感謝

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