流れのままに

流れのままに おのが道をゆけ ひたすらに ひたむきに

二〇一三年神無月

1881(明治14)年、政府が10年後に国会を開く約束をすると、国民の間から新しい政治のあり方を求めて、理想とする憲法案が、次々と発表された。憲法を考えるグループが生まれ、1881年に交詢社は『私擬憲法案』を編纂・発行し、植木枝盛は私擬憲法『東洋大日本国国憲按』を起草した。1968(昭和43)年に東京都あきる野市の農家の土蔵から発見されて有名になった憲法案は、地方における民権運動のハイライトである。明治時代、この土地が「五日市」という地名だったことから、今は「五日市憲法草案」と呼ばれている。「法律のもとに国民はすべて平等である」ことや「国民が政治に参加する」ことなど、国民の権利について細かく書かれている。204か条にも及ぶこの憲法案をつくったのは、五日市の農村の青年たちであった。日本の国を自分たちの手でつくり上げようと理想の憲法をつくったのだ。しかしながら、「五日市憲法草案」など民衆が考えた憲法案は、活かされることはなかった。

チト、驚いたことがあった。皇后陛下がお誕生日に際し、「宮内記者会の質問に対する文書ご回答」という形でこの五日市憲法草案を引用され、「市井の人々の間に既に育っていた民権意識を記録するものとして,世界でも珍しい文化遺産ではないかと思います」とおっしゃったこと。「今年は憲法をめぐり,例年に増して盛んな論議が取り交わされていたように感じます」と前置きしてのお話である。わが国の現状を憂慮なさったご発言に深い教養と胆識(勇氣)を覚えた。天皇陛下にご相談なさった上でのご回答であろう。それならば、このご回答は天皇皇后両陛下からのお言葉と捉えることもできそうだ。
皇后陛下お誕生日に際し(平成25年)
宮内記者会の質問に対する文書ご回答
問1 東日本大震災は発生から2年半が過ぎましたが,なお課題は山積です。一方で,皇族が出席されたIOC総会で2020年夏季五輪・パラリンピックの東京開催が決まるなど明るい出来事がありました。皇后さまにとってのこの1年,印象に残った出来事やご感想をお聞かせ下さい。

皇后陛下

 この10月で,東日本大震災から既に2年7か月以上になりますが,避難者は今も28万人を超えており,被災された方々のその後の日々を案じています。
 7月には,福島第一原発原子炉建屋の爆発の折,現場で指揮に当たった吉田元所長が亡くなりました。その死を悼むとともに,今も作業現場で働く人々の安全を祈っています。大震災とその後の日々が,次第に過去として遠ざかっていく中,どこまでも被災した地域の人々に寄り添う気持ちを持ち続けなければと思っています。
 今年は10月に入り,ようやく朝夕に涼しさを感じるようになりました。夏が異常に長く,暑く,又,かつてなかった程の激しい豪雨や突風,日本ではこれまで稀な現象であった竜巻等が各地で発生し,時に人命を奪い,人々の生活に予想もしなかった不便や損害をもたらすという悲しい出来事が相次いで起こりました。この回答を準備している今も,台風26号が北上し,伊豆大島に死者,行方不明者多数が出ており,深く案じています。世界の各地でも異常気象による災害が多く,この元にあるといわれている地球温暖化の問題を,今までにも増して強く認識させられた1年でした。
 5月の憲法記念日をはさみ,今年は憲法をめぐり,例年に増して盛んな論議が取り交わされていたように感じます。主に新聞紙上でこうした論議に触れながら,かつて,あきる野市の五日市を訪れた時,郷土館で見せて頂いた「五日市憲法草案」のことをしきりに思い出しておりました。明治憲法の公布(明治22年)に先立ち,地域の小学校の教員,地主や農民が,寄り合い,討議を重ねて書き上げた民間の憲法草案で,基本的人権の尊重や教育の自由の保障及び教育を受ける義務,法の下の平等,更に言論の自由,信教の自由など,204条が書かれており,地方自治権等についても記されています。当時これに類する民間の憲法草案が,日本各地の少なくとも40数か所で作られていたと聞きましたが,近代日本の黎明期に生きた人々の,政治参加への強い意欲や,自国の未来にかけた熱い願いに触れ,深い感銘を覚えたことでした。長い鎖国を経た19世紀末の日本で市井の人々の間に既に育っていた民権意識を記録するものとして,世界でも珍しい文化遺産ではないかと思います。(後略)http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/kaiken/gokaito-h25sk.htmlより転載
皇后陛下お誕生日に際してのご近影

閑話休題(それはさておき)


上から目線(支配層目線)で自主憲法制定!とか、押しつけ憲法反対!なんて言ってしまうから、本来、私たち民衆の手で作り上げる憲法の課題が先の大戦後(1945年)から始まったかのような錯覚に陥ってしまう。民衆の目線で見たなら、西南戦争(1877年)以降の農村指導者層を中心にした「豪農民権」と呼ばれる運動に自主憲法制定の精神の開闢(かいびゃく)を知ることができる。その運動のさ中に誕生した「五日市憲法草案」は、輸出・財政主導型高度経済成長第二期(1965〜1973年)に、ひょっこりと顔を出したのであった。

私たち民衆が暮らすこの社会は、何者かの仕掛けによっていとも簡単に崩壊(disrupt)させられてしまう。国民の権利を大切にという皇后陛下のメッセージは、自由という権利をあらゆる権力(powers)から意識して護り通してください、と伝わってくる。社会崩壊への危機を意識なさっていらっしゃるのかもしれない。

時空や自由は、自ら追い求めるところにその醍醐味が隠されている。
自由という権利を暴政の捧げものにしてはいけません。
今、ボーッとしている場合ではないのです!

SunSuntと輝く朝陽を浴びながら

笑顔の佳き日々を   

感謝

【追記】
17の直営ホテルと33のチェーンホテルを全国展開している日本屈指のホテルグループ「阪急阪神第一ホテルグループ」と66病院を含む280以上の医療施設を持つ日本最大の医療グループ「徳洲会」の一件では、彼らに組織運営上の油断があったのは確かだが、これら日本土着の組織を必要以上に叩いて崩壊させてはいけない。この事件の背後で、主要条項が秘密化されているTPP(自由貿易構想)で利を得る外資グループの食指が動いたのかもしれないのだから。(以上)

非常事態下の日本にあって、国会議員の本分を発揮できる国会が長期間の休暇からやっと目覚めてくれた。
第185臨時国会開会式
(NHK 10月15日 14時41分)
 第185臨時国会が15日召集され、参議院本会議場で天皇陛下をお迎えして、開会式が行われました。
 開会式では衆参両院を代表して伊吹衆議院議長が、「内政、外交にわたり、すみやかに適切かつ充実した審議を行い、国民生活の安定向上に努め、国際社会の一員として適確にその役割を果たしていかなければならない」と述べました。このあと天皇陛下が、「、全国民を代表する皆さんと一堂に会することは、私の深く喜びとするところです。国会が当面する内外の諸問題に対処するに当たり、国権の最高機関としてその使命を十分に果たし、国民の信託に応えることを切に希望します」と、おことばを述べられました。http://www3.nhk.or.jp/news/html/20131015/k10015282791000.htmlより転載

「非常事態下」などという物々しい言葉を使ってしまうのは、10月7日の参院経済産業委員会で東京電力の広瀬社長が「現在も毎時1000万ベクレルの放射性物質セシウムが放出している」と語ったことで、「放射能はコントロールされていない」事実が明確になったから。これまでも、これからも、首都圏にも放射性物質が飛びかうに違いない。ただ事ではないのだ。にもかかわらず、私たち日本の民衆は何事もなかったかの如く暮している。生存することが、壮絶な闘いであり、サバイバルであるということを肝に銘じたい。
今も毎時1000万ベクレル 大気中に放出続く
(財経新聞 2013年10月8日 09:46)
 東京電力福島第一原発事故に伴い大気中に放出された放射性物質は「セシウムの134、137を合わせて2万兆ベクレルになるとみている」と東電の廣瀬直己社長が7日の閉会中審査の参議院経済産業委員会で語った。
 廣瀬社長は「現在も毎時1000万ベクレルの追加的放出がある」と大気汚染が継続的に続いているという深刻な状況にあることを示した。
 また、海洋への放射性物質の放出について「当初は7100兆ベクレル放出されたとみている。その後、地下水の汚染などにより、最大で1日あたり最大200億ベクレルのセシウムが放出されているとみている」と述べた。
 日本共産党の倉林明子参議院議員の質問に答えた。また、田中俊一原子力規制委員長は「これ以上、海洋への汚染が広がらないようにするのが我々の役目だと思っている」と答えた。茂木敏充経済産業大臣は「海を汚さないため、万全の対策をとっていきたい」とした。
 政府側は地下水バイパスの水処理については地下水を原子炉建屋に近づけないための策として地下水バイパスで汲み上げた水を貯水タンクに一次貯留し、水質の安全性を確認できたものを海に放出すると説明。またサブドレインによって汲み上げた水は基準値以下の水の扱いについて専門家の知見も活用して検討中とした。トリチウム水についての対策では現時点では大量にトリチウム水を処理する技術は見つかっていないが、内外の英知を結集すべく技術提案を求めているとした。またトリチウムの分離技術や長期安定貯蔵方法などについても提案を募っているなどを説明し「海への安易な放出は行わない」とした。(編集担当:森高龍二)http://www.zaikei.co.jp/article/20131008/155680.htmlより転載

福島第一原発崩壊の大惨事が巨大な消費マーケットを生み出し、食糧・医療・保険ビジネスが経済最前線として静かに脚光を浴びている。今こそ、経済のために生き、経済のために死ぬという経済至上主義から脱却し、生活のために働く社会から抜け出さない限りは、私たち民衆は暴政の虜になってしまう。児童の内部被曝問題を取り上げた下記の記事により、週刊朝日の編集長が解雇される事件が起きた。彼は経済至上主義のスケープゴート(生贄・犠牲者)であり、原発事故に関する誠実な報道が今後全面規制される嚆矢なのかもしれない。
セシウム検査で判明した子どもの体内被曝の深刻度
(週刊朝日  2013年10月4日号)
 関東15市町で実施されている最新検査で、子どもたちの尿の7割からセシウムが検出されていたことがわかった。ジャーナリストの桐島瞬氏は、その被曝の深刻度を明らかにする。
*  *  *
 入手したショッキングなデータをまず、ご紹介しよう。常総生活協同組合(茨城県守谷市)が、松戸、柏、つくば、取手など千葉、茨城の15市町に住む0歳から18歳までの子どもを対象に実施した尿検査の結果である。
 「初めの10人を終えたとき、すでに9人からセシウム134か137を検出していました。予備検査を含めた最高値は1リットル当たり1.683ベクレル。参考までに調べた大人は2.5ベクレルという高い数値でした。いまも検査は継続中ですが、すでに測定を終えた85人中、約7割に相当する58人の尿から1ベクレル以下のセシウムが出ています」(常総生協の横関純一さん)
 検査を始めたのは、原発事故から1年半が経過した昨年11月。検査対象全員の146人を終える来年明けごろには、セシウムが検出される子どもの数はさらに膨れ上がっているだろう。
 セシウム134と137はウランの核分裂などにより生じ、自然界には存在しない物質だ。福島から近い関東の子どもたちが、原発事故で飛び散ったセシウムを体内に取り込んでいるのは間違いないだろう。副理事長の大石光伸氏が言う。

子どもたちが食べ物から常時セシウムを摂取していることが明らかになりました。例えば8歳の子どもの尿に1ベクレル含まれていると、1日に同じだけ取り込んでいると言われます。内部被曝にしきい値はないので、長い目で健康チェックをしていく必要があります

 関東だけではない。放射能汚染による体内被曝が、東海や東北地方にまで及んでいることも分かった。福島を中心に200人以上の子どもの尿検査を続けている「福島老朽原発を考える会」事務局長の青木一政氏が、実例を挙げて説明する。

昨年11月に静岡県伊東市在住の10歳の男児、一昨年9月には岩手県一関市在住の4歳の女児の尿からセシウムが出ました。この女児の場合、4.64ベクレルという高い数字が出たため食べ物を調べたところ、祖母の畑で採れた野菜を気にせずに食ベていたのです。試しに測ってみたら、干しシイタケから1キロ当たり1810ベクレルが検出されました

 食品に含まれる放射性セシウムの基準値は、1キログラムあたり一般食品100ベクレル、牛乳と乳児用食品50ベクレル、飲料水と飲用茶10ベクレルだ。ただし、基準そのものに不信感を持つ消費者も多い。検査もサンプル調査だから、東日本の食材を敬遠し、なおかつ1ベクレルでも気にする風潮につながっている。
 体内にセシウムを取り込むと、どういう影響が出るのか。内部被曝に詳しい琉球大学名誉教授の矢ケ崎克馬氏が解説する。

セシウムは体のあらゆる臓器に蓄積し、子どもの甲状腺も例外ではありません。体内で発する放射線は細胞組織のつながりを分断し、体の機能不全を起こします。震災後、福島や関東地方の子どもたちに鼻血や下血などが見られたり甲状腺がんが増えているのも、内部被曝が原因です。怖いのは、切断された遺伝子同士が元に戻ろうとして、間違ったつながり方をしてしまう『遺伝子組み換え』で、これが集積するとがんになる可能性があります

 矢ケ崎氏は、尿中に含まれるセシウム137がガンマ線だけ勘定して1ベクレルだとすれば、ベータ線も考慮すると体内に大人でおよそ240ベクレルのセシウムが存在し、それに加えてストロンチウム90もセシウムの半分程度あるとみる。
 体に入ったセシウムは大人約80日、子ども約40日の半減期で排出されるが、食物摂取で体内被曝し、放射線を発する状態が続くことが危険だと言う。
 常総生協が昨年度、食品1788品目を調査した資料がここにある。結果を見ると、280品目からセシウムが検出されていた。米74%、きのこ63%、お茶50%、それに3割近い一般食品にもセシウムが含まれていたのだ。http://dot.asahi.com/wa/2013092500046.htmlより転載

週刊朝日編集長を懲戒解雇
(朝日新聞デジタル 2013年10月8日20時57分)
 朝日新聞出版は、同社が発行する週刊朝日の小境郁也編集長(53)=朝日新聞社から出向=に重大な就業規則違反があったとして編集長を解任し、朝日新聞社は8日付で小境編集長を懲戒解雇処分にした。併せて朝日新聞出版は上司の監督責任を問い、9日付で青木康晋(やすゆき)社長を役員報酬減額、尾木和晴雑誌本部長を減給処分とする。
 小境編集長は昨年12月、週刊朝日が橋下徹・大阪市長を記事で取り上げた問題の後に起用された。
 朝日新聞出版・管理部と朝日新聞社広報部は「週刊朝日を立て直す重責を担う立場でありながら、こうした事態を招いたことは誠に遺憾です」とし、就業規則違反の内容については「関係者のプライバシーにかかわるため、公表は差し控えます。今後、さらに社内のコンプライアンス意識の徹底を図ります」とのコメントを発表した。
 後任の編集長には朝日新聞東京本社写真部の長友佐波子・フィーチャー写真担当部長が9日付で就く。http://www.asahi.com/national/update/1008/TKY201310080368.html より転載

そんな中、国家には『知らせない義務』があると驚天動地の発言をした自民幹部がいた。
「知る権利」文言入れず 秘密保護法案 自民幹部が明言
(東京新聞 2013年10月14日 朝刊)
 自民党幹部は十三日、機密を漏らした公務員らへの罰則強化を盛り込んだ特定秘密保護法案に、公明党が条文として明記するよう求めている国民の「知る権利」について、「文言としては明記しない」との考えを記者団に明らかにした。
 この幹部は理由について「国家には『知らせない義務』もある」と説明した。ただ、実質的に「知る権利」を担保する方針で、どういう表現で法案に盛り込むかは公明党と引き続き協議するとした。
 「知る権利」をめぐっては、公明党が報道や取材の自由を「国民の知る権利の保障に資する」と位置付けた上、法律の適用に当たって「十分に配慮する必要がある」と主張。山口那津男代表が安倍晋三首相に直接、要請した。首相は検討する意向を示し、政府の実務者は公明党に対して「知る権利」に配慮する表現を盛り込むと伝えていた。http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/news/CK2013101402000127.htmlより転載

増税問題は十二分な討議がなされないまま、民意を無視する形で、先進国との税率の比較をベースに増税を正統化させたように見えた。ならば、合衆国・カナダ・フランス・ドイツ等の先進国の食料自給率がそれぞれ100%を越えている事実に鑑み、そろそろわが日本の食糧自給率を現状の40%弱から100%に引き上げようという国防意識が作動しこの問題が討議されても良さそうなものだが、そうなりはしない。TPPなんぞに現(うつつ)を抜かしている場合ではないのです。

眠れぬ静かな夜に

感謝

快晴の大安吉日。いかがお過ごしでしょうか。
チト、長くなりますがおつき合い願います。

今年は、出雲大社(島根県出雲市)のおおよそ60年ごとの大遷宮と伊勢神宮(三重県伊勢市)で行われる20年に一度の式年遷宮とが奇しくも重なった。5月10日、出雲大社の平成の大遷宮のクライマックスである遷座祭が無事執り行われた。そして今月2日に伊勢の内宮、5日に外宮の遷御(せんぎょ)の儀が無事完了した。

内宮のご祭神は国の内に隈なく光が照り徹ると称えられる天照坐皇大御神(あまてらしますすめおおみかみ)で、ご神体は八咫鏡(やたのかがみ)。外宮のご祭神は豊受大神だが、ご神体は公表されていない。

この式年遷宮に際して、天皇陛下も皇太子も伊勢にお出かけにならなかった。天皇陛下は皇居の神嘉殿(しんかでん)の前庭で神宮に向かって拝礼する「遙拝(ようはい)の儀」に臨まれた。正装の陛下は、閉じられた屏風の中でお一人で儀式に臨まれた。皇后陛下は皇居・御所で、皇太子ご夫妻は東宮御所で拝礼なさった。歴代天皇で式年遷宮に立ち会った方はいらっしゃらないようだ。今回の遷宮でも、立ち会うのは親王と皇族から出る斎王のみであった。なぜ、天皇家の天照大神の遷宮に天皇が立ち会わないかについては明らかにされていない。3日に、天皇皇后両陛下は最後の傷痍軍人会に出席なさった。
傷痍軍人会:解散式 平均92歳、会員数減で運営難しく
(毎日新聞 2013年10月03日20時00分
 戦争で負傷した元軍人らでつくる財団法人「日本傷痍(しょうい)軍人会」(東京都千代田区)は3日、明治神宮会館(渋谷区)で60周年となる最後の記念式典と解散件式を開いた。平均年齢が92歳と高齢化して会員も減り、組織運営が難しくなったため解散を決定。「自然な時代の流れ」と受け止める声がある一方、「体験者の集いが減れば戦争の記憶が忘れられていく」と懸念する参加者もいた。
 記念式典は天皇、皇后両陛下を迎えて行われ、元軍人や妻ら約1200人が全国から集まり、安倍晋三首相も参列。天皇陛下は「戦傷病者とその家族が歩んできた歴史が、決して忘れられることなく、皆さんの平和を願う思いと共に、将来に語り継がれていくよう切に希望してやみません」と述べ、安倍晋三首相は「命をかけて戦い、障害を受けられた方々に必要な援護施策を講じることは国の果たすべき当然の責務」などと話した。
 続く解散件式で、参加者は改めて黙とう。戦後68年がたって、最も多い時で約35万人だった会員数は約5000人にまで減っており、奥野義章会長は「組織の高齢化に伴ってお別れしなければならない状況になり、断ちがたいものがある」と感極まった様子で話した。
 同会は1952年、戦争で手足や視力を失うなどした元軍人らが設立した。戦時中は「名誉の負傷」とされ義肢支給などの援助策があったが、戦後は多くが廃止され、生活苦に陥る戦傷病者が続出。生活向上などを国に求める活動を続けてきた。
 法人としての正式な解散は11月末。会が運営してきた戦傷病者史料館「しょうけい館」(千代田区九段南)は厚生労働省の委託事業として民間企業が運営を受け継ぎ、今後も会員の証言ビデオなどを見ることができる。【山田奈緒】http://mainichi.jp/select/news/20131004k0000m040042000c.htmlより転載
遷宮の後、真のご神体とも言われる心御柱はどうなるのだろうか。源頼朝は1190年の第27回の内宮の式年遷宮に多大な貢献をしたが、その事を記した『吾妻鏡』には、遷宮の5年後に前の心御柱を使って仏像を彫り東国の守りにしたと記されている。筆者は神仏合体として評価している。
建久6(1195)年11月19日 庚子
 相模の国大庭御厨俣野郷の内に大日堂有り。今日田畠を寄進す。未来の際を限り、仏聖燈油料に宛らる。これ故俣野の五郎景久帰敬の梵閣なり。本仏は、則ち権五郎景政在生に、伊勢大神宮の御殿二十年一度造替の時、彼の心御柱を伐り取り、これを造立し奉る。権大僧都頼親の室に於いて開眼供養を遂ぐ。東国衆人を守護し給うべきの由誓願せしめ、これを安置し奉る。仏神の合躰尤も掲焉なり。内外の利生何ぞ疑わんか。
 違跡を相伝せしむの処、景久滅亡の後、堂舎漸く傾危に及び、仏像雨露に侵さる。景久の後家尼旦暮この事を愁い、醒めても寝てもその功を思う。三浦の介義澄これを伝え聞き、本より帰仏帰法の志有るに依って、興隆興行の儀を執り申す。而るに景久は反逆者たりと雖も、景政は源家の忠士たるなり。本尊はまた御衣木の濫觴と云い、当伽藍の由緒と云い、誠に檀那の誓約に任せ、専ら柳営の護持せしめ給うかの由御沙汰有り。聊か御奉加に及ぶと。
現在、前の心御柱は選ばれた神官が秘儀として丁重に扱い埋葬するようだが、詳細は不明である。

出雲大社(いずもおおやしろ)の遷宮は、随破遷宮といって損傷が進んだ時に行うのでおおよそ60年に一度という流動的なものである。遷宮はご本殿の新築祝いのように思われがちだが、その本意は神さまが鎮座されたその時を再現する原点回帰にある。はじまりのときに立ち返る、壮大なよみがえりのストーリー。遷座によってさらに力を増された神さまにお参りすることで、私たちも自己の原点を見つめ直し、たくましい生命力と新しいご縁を授かることができるに違いない。出雲大社のご祭神は大國主大神(おおくにぬしのおおかみ)で、ご神体は「誰でも拝すことのできるものではない」(第82代出雲国造の千家尊統(せんげたかむね)氏の著書『出雲大社』(学生社)より)である。現在も、皇室のファミリーであってもご本殿内までは入れないしきたりを守り続けている。古代より、ご祭神は「国内第一の霊神(れいじん)」と、ご本殿は「天下無双の大廈(たいか)」と称えられている。出雲大社のご本殿をご覧下さい。


旧暦10月には全国の八百万の神々が出雲の国に集まる。旧月名の「神無月」が、出雲地方だけ「神在月」と呼ばれる所以。とりわけ旧暦10月10日〜17日までの8日間、各神社では神々をお迎えする「神迎祭(かみむかえさい)」に始まり、神々が酒造りや縁結びについて議りごとをされる間の「神在祭(かみありさい)」、そして神々をお見送りする「神等去出祭(からさでさい)」まで、古式に則り神事が執り行われる。

11月12日(火) 19:00 神迎神事・神迎祭(稲佐の浜)
11月13日(水) 09:00 神在祭(御本殿)
11月17日(日) 10:00 神在祭・縁結大祭(御本殿)
11月19日(火) 10:00 神在祭・縁結大祭(御本殿)
11月19日(火) 16:00 神等去出祭(拝殿)
詳しくは→ http://www.izumo-kankou.gr.jp/1275


閑話休題(それはさておき)


2003年12月公開の映画『ラストサムライ(The Last Samurai)』は、西郷隆盛(1828年1月23日〜1877年9月24日)らが明治新政府に対して蜂起した西南戦争(1877年)をモデルにしている。監督・脚本を手がけたエドワード・ズウィック氏はアイヴァン・モリス著『高貴なる敗北 日本史の悲劇の英雄たち』の第9章「西郷隆盛伝」に影響を受け、明治維新の実現に当初貢献しながらも、やがて新政府に反旗を翻した西郷隆盛の美しくも悲劇的な生涯が、ラストサムライという架空の物語の出発点となったことを表明している。この作品には時代考証を怠った漫画チックな忍者軍団が登場したりするのだが、時代から取り残されたようにみえるサムライたちの生き様を描きつつ、日本が近代国家に生まれ変わる過程を見せてくれる。

1877年2月15日、60年ぶりといわれた大雪の中、鹿児島の私学校生を中心とした士族は西郷隆盛を擁して挙兵した。それから9月24日城山での西郷の死による終結まで、半年以上に亘る戦いが九州各地で続いた。日本最後の内戦であるこの西南戦争の結果が、外に向けた戦いの火ぶたを切らせてしまったとみることもできる。1877年3月1日から3月31日まで、現在の熊本県熊本市植木町大字豊岡で田原坂・吉次峠の激戦が繰り広げられた。兵器の質、量とも優っていたにもかかわらず、政府軍はこの田原坂で苦戦した。武器は既に刀から銃の時代になっていたが、銃の政府軍は薩摩士族の太刀・示現流に太刀打ちできなかった。この白兵戦(close combat;arme blanche)に対抗するため、警視庁から旧幕臣(士族)の剣豪を募り臨時編成されたのが『抜刀隊』であった。1885年(明治18年)、『新体詩抄』(1882)上で発表された東京帝大・外山正一教授(1848〜1900)の歌詞に、陸軍省に軍楽隊教師として雇われていたフランス人シャルル・ルルー(1851〜1926)が作曲した軍歌『抜刀隊』が、鹿鳴館での大日本音楽会演奏会で発表された。

下記の歌詞にある「古今無双の英雄」とは、なんと西郷さんのことなのだ。抜刀隊の活躍を歌ったものであるというのに、敵将である西郷さんを英雄と呼んでいる。外山教授には、1953年のペリーによる黒船来航が日本を特定の組織の支配下に置こうとした事件であったという視点があったのかもしれない。後年、この曲は陸軍で「分列行進曲」として採用された。現在に関しては、以下をご覧ください。


抜刀隊
作詞:外山正一 作曲:シャルル・ルルー

1.
吾(われ)は官軍我が敵は 天地容れざる朝敵ぞ
敵の大将たる者は 古今無双の英雄で
これに従うつわものは 共に慄悍決死(ひょうかんけっし)の士
鬼神に恥じぬ勇あるも 天の許さぬ反逆を
起こせし者は昔より 栄えしためし有らざるぞ
敵の亡ぶるそれ迄は 進めや進め諸共に
玉散る剣抜きつれて 死する覚悟で進むべし

2.
皇国(みくに)の風(ふう)ともののふは その身を護る魂の
維新このかた廃れたる 日本刀(やまとがたな)の今更に
また世に出ずる身のほまれ 敵も味方も諸共に
刃(やいば)の下に死ぬべきぞ 大和魂あるものの
死すべき時は今なるぞ 人に後(おく)れて恥かくな
敵の亡ぶるそれ迄は 進めや進め諸共に
玉散る剣抜きつれて 死する覚悟で進むべし

3.
前を望めば剣なり 右も左もみな剣
剣の山に登らんは 未来のことと聞きつるに
この世において目(ま)のあたり 剣の山に登らんは
我が身のなせる罪業(ざいごう)を 滅ぼすために非ずして
賊を征伐するがため 剣の山もなんのその
敵の亡ぶるそれ迄は 進めや進め諸共に
玉散る剣抜きつれて 死する覚悟で進むべし

4.
剣の光ひらめくは 雲間に見ゆる稲妻か
四方(よも)に打ち出す砲声は 天にとどろく雷(いかずち)か
敵の刃に伏す者や 弾に砕けて玉の緒の
絶えて果敢(はか)なく失(う)する身の 屍(かばね)は積みて山をなし
その血は流れて川をなす 死地に入るのも君が爲
敵の亡ぶるそれ迄は 進めや進め諸共に
玉散る剣抜きつれて 死する覚悟で進むべし

5.
弾丸雨飛(うひ)の間にも 二つなき身を惜しまずに
進む我が身は野嵐に 吹かれて消ゆる白露の
果敢(はか)なき最期を遂ぐるとも 忠義のために死する身の
死して甲斐あるものなれば 死ぬるも更にうらみなし
われと思わん人たちは 一歩もあとへ引くなかれ
敵の亡ぶるそれ迄は 進めや進め諸共に
玉散る剣抜きつれて 死する覚悟で進むべし

6.
吾(われ)今ここに死なん身は 君のためなり国のため
捨つべきものは命なり たとえ屍は朽ちるとも
忠義のために死する身の 名は芳しく後の世に
永く伝えて残るらん 武士と生まれし甲斐もなく
義のなき犬と言わるるな 卑怯者とな謗(そし)られそ
敵の亡ぶるそれ迄は 進めや進め諸共に
玉散る剣抜きつれて 死する覚悟で進むべし

The real voyage of discovery consists not in seeking new landscapes, but in having new eyes.
(発見の旅とは新しい景色を探すことではなく、新しい視点で見ることだ)
マルセル・プルースト(1871〜1922)

西南戦争の結果が、日本を日清→日露→第一次世界大戦→大東亜戦争(第二次世界大戦)へと導いたとみることもできる。また、ペリーによる黒船来航事件の目的が無条件降伏により成就され、その結果が今日の日本だと捉えることもできる。西郷さんが私たち日本の民衆に伝えようとしたものは何であったのか。これも公表されてはいない。


笑顔の佳き週末を    感謝

(「抜刀隊」拙訳)
1.
我は官軍、我が敵は天地も許さぬ朝敵だ。
敵の大将である西郷さんは古今類なき英雄で、
彼に従う兵たちは全て決死の覚悟をした屈強な男たちである。
彼等は鬼神にさえ引けをとらない勇者たちではある。
しかしたとえ彼等が幾ら勇敢であるとはいえ、
天の許さぬ反逆を起して未だかつて栄えた者などはいないのだ。
敵が滅びるその時まで、一丸になって進めよ進め。
刃先きらめく剣を抜き持ちて、決死の覚悟で進もう。
2.
皇国日本の伝統的な慣わしとして、
武士は日本刀を自分の身を護る為に魂のごとく大事にしてきた。
その日本刀も明治維新以来すっかり廃れてしまったが、
西南戦争にあたって再び世に出る光栄を得た。
だからこそ敵も味方も一緒に刃のもとに死ぬべきではないか。
大和魂を持つ男児が死ぬべきなのは今ではないか。
人に死に遅れて恥をかいてはならない。
3.
前を眺め見れば剣、右も左もすべて剣ばかり。
地獄にあるという「剣の山」に登るのは
死して後のことだと聞いていたが、
まさかそれをこの世で目の当たりにするとは。
しかしこの「剣の山」に登るのは、己が身の罪を償う為ではない。
賊軍を征伐する為である。
だから「剣の山」だとはいえ何も恐れる事はない。
4.
剣の光は、まるで雲間にみえる稲妻のようだ。
四方でひびく砲声は、まるで空に轟く雷のようだ。
敵の刃に斃れる者や、
弾丸に身を砕かれて呆氣なく死んでしまう者たちの、
死体は積みあがって山のようになっている。
その死者の血は流れて、川のようになっている。
このような死地に突入するのも大切な人のためである。
5.
弾丸が雨のように飛ぶところにも、
掛け替えのない命を惜しまずに突き進む。
そんなわが身はまるで、
野嵐に吹かれて忽ち消えてしまう水滴のように果敢ない。
たとえ呆氣なく死んでしまうとしても、
忠義の為に死ぬのが意義のあることだとすれば、
死んだとしても何も思い残す事はない。
だから我こそはと思う者たちは、一歩もあとで引いてはならない。
6.
我が身の今ここに果てようとするは、大切な人と国家のため。
捨てるべきものは生命である。
たとえ死体は朽ち果ててしまうとも、
忠義に殉じた名は永久に語り継がれることであろう。
武士として生まれた甲斐もなく、
義のない犬や卑怯ものなどと罵られてはならない。

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