流れのままに

流れのままに おのが道をゆけ ひたすらに ひたむきに

二〇一四年水無月

環境大臣が、福島第1原発事故に伴う除染廃棄物の中間貯蔵施設建設をめぐる福島県側との交渉について、「最後は金目でしょ」と発言した。「死の町」発言で辞任した経済産業大臣がいたが、この大臣は安泰らしい。彼は福島第1原発のことを『福島原発の第1サティアン』と言った人であるから、無知が「金目でしょ」と言わしめたと思われがちだ。しかし、そうではない。極めて正直に、国民との話し合いのエッセンス(本質)を開陳したのであった。例えば、2005年ころに、「最後は結局、お金でしょっ」と発言している原子力工学の専門家がいる。彼は民衆の危機(the critical moment)を的確に、「どうしても、皆が受けて入れてくれないとなったら、じゃあ、おたくには、今までこれこれと言ってきたけど2倍払いましょう。それでも手を挙げないんだったら、5倍払いましょう、10倍払いましょう。どっかで、国民が納得することができるでしょう」と表現した。

もうひとつ。専門家の立場から放射線防護に関する勧告を行う民間の国際学術組織である国際放射線防護委員会(International Commission on Radiological Protection:ICRP)も、「今までこれこれと言ってきたけど2倍払いましょう。それでも手を挙げないんだったら、5倍払いましょう、10倍払いましょう」という政策を支持するに違いない。2007年に公表された「緊急時被ばく状況における人々の防護のための委員会勧告の適用」(ICRP Publ.109)では、放射能による人々の健康損傷よりも原子力発電などで受ける便益が大きくなるように総合的に放射線防護政策をとるべく、被ばくを前提に、「広範かつ透明なかたちで話し合う必要があろう」と勧告している。ICRPには、危険を生じさせるあらゆる核施設を地球上から根絶すべきだという発想は見当たらない。
広範囲にわたる高レベルの長寿命汚染物質の放出を伴うような大規模な緊急時状況の場合、こうした状況の発生後の新たな現実の一部として、社会、経済、政治的には以前のような居住を続けられないほどに汚染された地域が生じるかも知れない。こうした地域では、政府は、人の居住や土地利用を禁止する可能性がある。その場合は、これらの地域から避難した住民は帰還を許可されず、これらの地域への今後の再定住または土地利用が認められないであろう。ある地域から人々を永久にまたは予測可能な長い将来にわたり)移転させ、その地域の使用禁止を決定することは、その国の政府と国民にとって容易なことではないことは明らかである。したがって、決断に至る前に、こうした選択の社会、経済、政治、および放射線防護上の側面について、広範かつ透明なかたちで話し合う必要があろう。http://www.icrp.org/docs/P109_Japanese.pdf23頁より引用

もし大臣が勉強家であり、この勧告に教訓として記された「公衆や意思決定者は、自分と愛する人たちが安全であることを知りたいと思っている。費用便益や回避線量のみに基づく理論的説明は、この関心事に対処する上では有用でない」(30頁)を読み込んでいたなら、国民との話し合いのエッセンスを開陳することはなかっただろう。

「ICRP勧告 日本語版シリーズ」に興味がある方はこちらをご覧ください→http://www.jrias.or.jp/books/cat/sub1-01/101-14.html 
「金目」発言を撤回 石原環境相、福島で謝罪へ
(東京新聞 2014年6月19日 夕刊)
 石原伸晃(のぶてる)環境相は十九日の参院環境委員会で、東京電力福島第一原発事故に伴う中間貯蔵施設建設をめぐる「最後は金目」発言について、「品位を欠いた発言で誤解を招いた。おわびして撤回する」と述べた。国会閉会後に福島県を訪れ、直接謝罪する考えを示した。 
 野党議員からの辞任要求に対しては「職責を全うしたい」と述べ、辞任の考えがないことを明らかにした。
 石原氏は委員会で発言の趣旨について「用地補償や生活再建、地域振興など、地元の要望に応えるためにはしっかり予算を確保するのが大事という意味だった」とあらためて釈明した。
 福島県選出の増子輝彦氏(民主)は「県民の心を踏みにじる発言。中間貯蔵施設について理解を得る上で大きな影響がある」と指摘。「すぐに辞任すべきだ」と迫った。これに対し、石原氏は「金で解決できるとは言っていない。あらぬ誤解については謝罪する」とかわし、辞任する考えがないことを強調した。
 石原氏の答弁に、野党議員からは「質問に正面から答えろ」とやじが飛んだ。野党八党は石原氏を追及し、二十日までに問責決議案を提出する方針で一致している。
 菅義偉官房長官は十九日午前の会見で、石原氏の発言撤回の理由について「誤解され、福島県民に不快な思いをさせた」と説明した。
 石原氏は十六日、中間貯蔵施設に関する住民説明会の全日程が終了したことなどを官邸に報告。その後、記者団の取材に対し、福島県側との交渉について「最後は金目でしょ」と発言、地元から反発を受けている。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/news/CK2014061902000233.htmlより転載


閑話休題(それはさておき)

沖縄戦:「今の命、虫のおかげ」 おばぁの飢餓体験伝える
(毎日新聞 2014年06月22日 13時23分(最終更新 06月22日 17時31分)
 京都府京田辺市の玉城(たまき)裕美子さん(45)は、沖縄県読谷村(よみたんそん)の村史編さんに携わり、沖縄戦などの証言収集を続けている。数々の証言から浮かび上がるのは、戦火を逃れ、山中に避難した住民を襲った「飢え」の恐ろしさだった。多くが息絶え、生存者はカタツムリや虫を食べてしのいだ。「『命をつないでくれた』と今も自然への感謝を忘れないおばぁたちの思いや、戦争のおろかさを伝えたい」。23日の「沖縄慰霊の日」に京田辺市の小学校で子供たちに語る。【高尾具成】
 玉城さんの祖母は戦前、沖縄から本土に渡った。玉城さんは京都府生まれの「沖縄3世」で、沖縄にルーツのある男性と結婚。1995年春から夫の実家がある沖縄本島南部で暮らし始めた。
 95年7月、読谷村の村史編集室嘱託職員に採用され、同村に転居。以後12年間、戦争体験者の証言に耳を傾けた。難解だったウチナーグチ(沖縄方言)の単語帳を自作し、記録を続けた。
 読谷村の資料などによると、米軍が沖縄本島へ上陸した45年4月以前から中・南部の高齢者や子供ら推定約3万人が北部のヤンバル(山林地帯)へと逃げ始めた。疎開した同村民5429人のうち657人が死亡。その7割以上が栄養失調や病気が原因だった。「ヤンバルでの飢餓は(旧日本軍の組織的な戦闘が終結したとされる)6月23日以降も続いた」と玉城さんは言う。
 家族らと山中に避難した看護師の女性は飢餓体験を語った。「誰かの畑の芋を無断で掘った。『命をつなぐためなんです』と畑の神様に手を合わせた」。カタツムリを炊いて口にし、木の葉を食べて下痢が続いた。山を下り、米兵に連れて行かれた収容所でも悲惨さは変わらなかった。「子供たちは栄養失調で、皮膚に黒い斑点ができ、肉が腐っていた。(食べ物を)かむ力もなくおなかがふくれ上がり、ばたばたと亡くなった」
 「抱いたまま息絶えた子に子守歌を歌い続けた」と語ったおばぁは体験のつらさから村史への記録を拒んだ。別のおばぁと一緒に避難経路をたどった際には「ヤギが食べる草が私たちも食べられる草の基準だった」と聞いた。http://mainichi.jp/select/news/20140622k0000e040129000c.htmlより転載



昨日、6月23日は「慰霊の日」であった。糸満市摩文仁では「沖縄全戦没者追悼式」が行われ、沖縄県各地でも慰霊祭が執り行われた。沖縄県は、太平洋戦争末期に、一般住民も巻き込んだ悲惨な地上戦が行われた場で、20万余の貴い生命とかけがえのない財産及び文化遺産が失われた。1945(昭和20)年6月23日は、沖縄戦において日本軍の第32軍司令官・牛島満(うしじま みつる)中将と同参謀長・長勇(ちょう いさむ)中将が沖縄戦最後の激戦地である糸満の摩文仁で自決し、日本軍の組織的戦闘が終わった日とされている。その6月23日を、恒久平和を希求するとともに戦没者の霊を慰めるため、1974年、県条例『沖縄県慰霊の日を定める条例』(昭和49年10月21日条例第42号)により沖縄独自の祭日「慰霊の日」として制定。

慰霊の日は、県条例で制定される以前、日本復帰前の合衆国統治時代の琉球立法院で『住民の祝祭日に関する立法』(1961年立法第85号)により制定されていた。その立法に定められた慰霊の日は6月22日であった。同立法は、1965(昭和40)年4月21日に改正され、慰霊の日は6月23日に改められた。

ルネサンス期(14〜16世紀)の人文主義者(Humanist;Umanista)として知られるデジデリウス・エラスムス(Desiderius Erasmus Roterodamus:1466〜1536)は、人間や神の本質を考察した知識人であった。彼は、『War is delightful to those who have not experienced it.』(戦争は経験してない者には魅力的である)という名言を残してくれた。戦争を経験していない私たちではあっても、戦争経験者の証言などから追体験することができる。写真のエラスムス像は1930(昭和5)年に日本の重要文化財に指定され、東京国立博物館に寄託されている。好奇心が芽生えた方は、どうぞお調べください。
エラスムス像

大きな笑顔で邪氣を払って参りましょう。

SunSunの朝陽を浴びながら  感謝

ディズニー創立90周年記念作品の『アナと雪の女王(Frozen)』。松たか子さんの唱う劇中歌「レット・イット・ゴー」が話題となり、youtubeでは4,000万回を超えてヒットしている。しかしながら、彼女が唄う日本語内容は、オリジナルの英語歌詞の真逆。以下、左側の青字が日本語版で、右側の括弧内が字幕スーパー版日本語訳。松たか子さんは、「いままでは周りに合わせてきましたが、これからは自分を信じて、自分のやり方で自分を変えるの。そして、己が道を光を浴びながら歩みますわ」、と唄っている。一方、英語版は、「自分の秘密を人々に悟られもう隠せない、でもこれでいいの。これからは振りっ子を返上し、理想を追わずに本性をさらけ出しますわ」、と決心する内容。実に興味深い。字幕スーパー版翻訳は、松浦美奈女史。日本語版歌詞は、高橋知伽江女史。

歌手:松たか子
作詞:Kristen Anderson-Lopez・Robert Lopez・高橋知伽江
作曲:Kristen Anderson-Lopez・Robert Lopez
歌詞:
降り始めた雪は 足跡消して (雪が山を覆う夜 足跡一つ残らない)
真っ白な世界に ひとりのわたし (隔絶された王国 私はその女王)
風が心にささやくの (風が唸る 心の嵐のように)
このままじゃ ダメなんだと (私の苦しみを天だけが知っている)

とまどい 傷つき (秘密を悟られないで いつも素直な子で)
誰にも 打ち明けずに 悩んでた (感情を抑えて隠さなければ)
それももう やめよう (でも知られてしまった)

ありのままの 姿見せるのよ (これでいいのかまわない もう何も隠せない)
ありのままの 自分になるの (過去に扉を閉ざすのよ もう氣にしない)
何も怖くない 風よ吹け (何を言われようとも 嵐よ吹き荒れるがいい)
少しも寒くないわ (寒さなど平氣よ)

悩んでたことが うそみたいね (遠くから眺めるとすべてが砂粒のよう)
だってもう自由よ なんでもできる (恐れは遠く去りもう私を苦しめない)
どこまでやれるか (怯えることなく未知へと突き進む)
自分を試したいの (善悪やルールに縛られずに)
そうよ変わるのよ わたし (私は自由よ これでいいのかまわない)

ありのままで 空へ風に乗って (空と風は私のもの)
ありのままで 飛び出してみるの (これでいいのかまわない)
二度と 涙は流さないわ (二度と涙は流さない)

冷たく大地を包み込み (私のパワーが大氣と地に満ちる)
高く舞い上がる 想い描いて (氷の図形のように私の魂が広がる)
花咲く氷の結晶のように (結晶となって思いが形作られる)
輝いていたい もう決めたの (二度と戻らない 過去はもう過ぎたこと)

これでいいの 自分を好きになって (新しい夜明け これでいいのかまわない)
これでいいの 自分を信じて (理想の娘はもういない 私の道を行く)
光あびながら 歩きだそう (輝く光を受けて 嵐よ吹き荒れるがいい)
少しも寒くないわ (寒さなど平氣よ)

次の25ヶ国語バージョンを視聴した海外の人々のなかには、それぞれの母国語よりも日本語で唄われた部分に心を奪われた(全体を感じた)人々もいたようだ。

ありのー ままのー すがたみせーるーのよー

人種や言語の壁を乗り越えて、日本語が人々に相互作用しているのかもしれない。


大きな笑顔の佳き日曜日を

感謝


(参照)
英語歌詞と日本語歌詞 http://www.youtube.com/watch?v=X-LGncOfNvw

Demi Lovato(デミ・ ロヴァート) ヴァージョンは、1億7,700万回を超えてヒットしている。
こちらも、ご覧ください。http://www.youtube.com/watch?v=kHue-HaXXzg
(以上)

おはようございます。

窓から入る風が、ヒンヤリと氣持ち良い朝。
6月に入りました。

さあ、今朝は久々に最近考え、知ったことをお伝えします。
長文になると思われますが、おつき合いいただければ幸いです。

カトリックでは、5月はマリア様に捧げられた月。日本では「聖母マリア」という表現が好んで使われる。ヨーロッパでは、Holy Mother(聖母)よりむしろthe Virgin Mary(処女マリア・童女マリア)、Saint Mary(聖女マリア)、Our Lady(我らが貴婦人)などと呼ぶ方が多いだろう。他に、the Queen of Graceやthe Holy Mother of Jesus Christも聖母マリアを意味する表現だが、使用頻度は少ないに違いない。

なぜ、日本では「聖母」という表現がマリア様に対して好んで使われるのだろうかと考えていたところ、日本正教会(Orthodox Church in Japan)は聖母という表現を用いず、英語のTheotokosに相当する日本語、「生神女(しょうしんじょ)」「生神女マリヤ」「生神女マリア」を使っていることを知った。生神女マリアを単に聖母マリアという語に限定してしまうのは誤りだという。

これを知った翌日、漢語に「聖母」という言葉があり、人格の優れた尊崇される人の母を意味することが分かった。また、人徳を極めた女性に対する敬称としても使われる。そして、神功(じんぐう)皇后(成務40年〜神功69年4月17日)が聖母(しょうも)とも呼ばれることを、真鍋大覚氏の『儺の国の星』の一文により知る。以下に引用。

 遠く『山海経』の頃から「女を以て主となす」が倭人の家の習いとして大陸に知られていたところを見れば、神代の昔は(双子座は)二人の兄弟姉妹よりも、母が我が子を抱き、子を負う姿に託していたと思われる。妹背星(いもせほし)ともよばれていた。
 聖母とは神功皇后で、応神天皇の生母であった。近世までは聖母様、あるいは聖母大明神として仏堂の観音像とならんで神祠の聖母像の女人の懐胎出産の祈りの対象であった。
 聖母の字はキリスト(紀元前4〜30)の母なるマリヤを直観させる。

 聖書が倭人に伝えられたのはザビエル(1506〜1552)に始まるが、当時の人に宣教師の説くマリヤがいかに映じていたかは不詳である。
 しかし、西海でキリシタン禁令の出る慶長17(1612)年までに、あれだけの爆発的多数の信者を集めた背景には、古来の聖母信仰が潜在的基盤を形成していたのかもしれない。
 基督(キリスト)教の信仰の自由は明治6年(1873)年から再開されたが、昭和16年(1941)年から同20(1945)年の大東亜戦争の間は、事実上の耶蘇教禁止にほかならなかった。
 そして終戦の冬には神道仏教のいかんにかかわらず、九州はどこの僻地もありあわせの食膳でささやかながらも聖誕祭を祝ったことは、今なお記憶に新たなところである。
 聖母の名は島原の乱以後の近世の神社からは聊(いささ)かも抹殺されなかった。
 宗門改め(しゅうもんあらため)の認定尋問が年毎に行われていても、聖母様の祭日なる陰暦12月14日には神官氏子こぞっての団欒がお火焚祭(おひたきまつり)の形で続いていた事実は史家の氣付かぬところでもある。
※「ひもろぎ逍遥」http://lunabura.exblog.jp/18639312/より転載

神功皇后は、第12代景行天皇の子・日本武尊(やまとたけるのみこと) 第二子の第14代仲哀(ちゅうあい)天皇の皇后。『日本書紀』(720年完成)では氣長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)・『古事記』では息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)・大帯比売命(おおたらしひめのみこと)・大足姫命(おおたらしひめのみこと)皇后。父は開化天皇玄孫・息長宿禰王(おきながのすくねのみこ)で、母は天日矛裔(あめのひほこのすえ)・葛城高顙媛(かずらきのたかぬかひめ)。彦坐王(ひこいますのみこ)の4世孫、第15代応神天皇の母であり、この事から聖母(しょうも)とも呼ばれる。

『日本書紀』は、天皇一代ごとに冒頭に天皇の名を記し、その治世の事績を年代順に記す、という構成をとっている。原則的には天皇一代につき1巻。神功皇后(氣長足姫尊)は、他の歴代天皇と同様に巻頭に名を記され、「卷第九」を割り当てられている。水戸藩の『大日本史』では、神功皇后は本紀から除外されて后妃伝に入れられ、天皇としては扱われていない。明治以降、南朝が正統されたのは、この『大日本史』の影響とされるが、神功皇后が歴代天皇から外されたのは、歴史的伝統より儒教の大義名分論を重視した結果であろうか。なお、1060年完成の『新唐書』(中国の唐代の正史・1060年完成)に「神功天皇」の名がある。平安時代の前半には、大足姫(氣長足姫)に対して「天皇号」が諡(おく)られたからであろう。ちなみに、「卷第十」は誉田天皇(ほむだのすめらみこと)・応神天皇(第15代)、そして「卷第十一」が大鷦鷯天皇(おほさざきのすめらみこと)・仁徳天皇(第16代)。なお、彼は仁徳天皇87(399)年1月16日(2月7日)に没したが、原本は現存せず幾つかの写本が伝わる『古事記』(712年)では「この天皇の御年、八十三歳( やそじまりみとせ )丁卯の年の八月十五日に崩(かむあが )りましき」と記されている。
(※)生前の行跡に基づいて死後に贈られた名を「諡」(おくりな)という。7世紀の後半から中国の慣習に習い、日本でも採用。諡を贈ることは天皇の大権の一つとされた。なお、天皇在世中の名を「諱」(いみな)という。

さて、『儺の国の星』の著者・真鍋大覚氏は実に興味深い人物なので、彼の業績を日本社会に敷衍(ふえん)して論じたい。

航空工学者にして暦法家であった真鍋大覚氏(1923年5月〜1993年)は、福岡県筑紫郡那珂川町に生まれた。福岡県中学修猷館、九州大学工学部を卒業し、九州大学工学部航空工学科助教授を務めた。専門は航空機運動安定論。専門分野以外での多様な研究でも知られ、1976年には既に1966年に発見されていた屋久島に自生する最大級の屋久杉を、過去に伐採された周辺の屋久杉のデータと氣候データなどをもとに、樹齢を7,200年と推定した。以後「縄文杉」と呼ばれるようになった。だから、縄文杉は種の名称ではなく、植物の個体に付された名。その後の調査で古木の周囲を3本程度の若い木が融合して包み込んでいる合体木である可能性が浮上し、外側の若い木の部分の年代測定では樹齢約2,700年と判定された。現在は、縄文杉の樹齢は古くとも4,000年以上はさかのぼらないとするのが定説。

彼は1980年、九州各地のボ−リングでのハイガイ化石調査による放射性炭素年代測定を元に、以下のような古代九州の詳細な地形図を発表し、後の古代史研究に影響を与えた。

1) 博多湾と有明海は太宰府付近を瀬戸にしてつながっていた。
  真鍋氏はこれを「針摺瀬戸(はりずりのせと)」と命名。
2) 福岡平野、筑紫平野は海底にあり、福岡地方は群島だった。
3) 島原半島は雲仙岳をいただく大きな島だった。
(※)さだまさしは、アルバム『うつろひ』(1981年6月)に収録した古代史研究家宮崎康平への鎮魂歌『邪馬臺』の中で、「針摺瀬戸」と書いて「かいきょう」と読ませた。

また、彼は元奈良市長・元衆議院議員である鍵田忠三郎(1922〜1994)に協力し、「放射状の雲は震源を指し、近くでは長時間滞空し遠地では短い。波紋状の雲が同心円上に出る時は垂直方向が震源となる」という地震の震源捕捉法を考案し、地震雲を世に伝えた。なお、鍵田氏は1960(昭和35)年、先の大戦の敗戦の日である8月15日に慰霊する為、奈良東山の高円山に奈良大文字を創始した人としても知られている。

真鍋家では代々、暦を編纂していた。暦を作るためには、太陽・月・星を観測し、歳差運動を知る必要がある。暦の編纂者は地震や台風、日食などの予知もしていた。生まれ故郷・那珂川町の依頼で彼はそれを本にして世に出した。『儺の国の星』(1981年)と『儺の国の星 拾遺』(1982年)である。絶版となっている。本書は失明を押して口述筆記したもので、昔の記憶を辿りながらであるためだろうか、難解な文脈である。彼の祖先である物部氏に伝わる伝承が根底にあるという。古代日本の謎を究明する学徒にとっては、必読の2冊。

他の著作に関しては、「国立国会図書館サーチ」(http://iss.ndl.go.jp/に「真鍋大覚」と入れ検索すると知ることができる。
(※)検索結果に『独逸語訳古事記』がある。この翻訳事業は、1926年のドイツ・日本研究所(ベルリン)設立の際に、日本の古典である『古事記』のドイツ語翻訳という提案が成されたことに起因する。当時、ドイツの大学に留学した日本人の中に、後の香椎宮宮司となる木下祝夫氏(1894〜1980)がいた。彼は唯一の國學院大學出身者であったことから、この仕事を任されることになった。1929年、高松宮宣仁親王より、著述出版費として有栖川宮奨学金が与えられた。これにより、彼は1930年以降、『古事記』関係の資料を蒐集し、『古事記』の諸本を求めて全国を訪ね歩いた。真鍋大覚氏は彼の協力者であり、第4巻(天文暦象篇・1984年)と第5巻(国土地理篇・1986年)を香椎宮奉斎会より出版した。原文・ローマ字文・ドイツ語訳が記された丁寧な著作である。

話題を「聖母」に戻そう。真鍋氏は、筑紫の人々が双子座を見て、「神功皇后が皇子を抱く姿」を思い浮かべるのは、その潜在意識に「聖母マリアがイエスを抱く姿」があったからだと示唆する。そして、イエスは紀元前4年生まれで、応神天皇が紀元200年生まれ。この二人の誕生に200年の差しかないところから、聖書が編纂されるよりもかなり以前に「子を抱くマリアの姿」が筑紫に入っていたと試算した。

記紀(古事記と日本書紀)の神話が、新約聖書の情報を何らかの意図をもって内包しているのかもしれない。聖母マリアの血を受け継ぐ方が、「始めて天下を馭(ぎょ)した」天皇という意味の「はつくにしらすすめらみこ」として日本をおつくりになったとしたら・・・。今後、わが国の誰かが世界むけて何かを初めて知らすことになるだろう。神との契約という概念が不要なほどに、すめらみこ(皇)たちは捨石の如く生きる神意識そのものであったことも知っておきたい。
聖母@函館トラピスチヌ

閑話休題(それはさておき)


ハンガリー国王聖イシュトバーンがマリア様に王冠を捧げる絵画は、ハンガリー国をマリア様に捧げているという意味がある。イエズス会宣教師・フランシスコ・ザビエルは1549年8月15日に鹿児島の海岸に上陸。日本に着いた日が、聖母マリアの被昇天の祭日に当たっていたこともあり、彼は日本をマリア様に捧げた。他にも、キリスト教の世界では多くの場がマリア様に捧げられてきたと言われる。

これからの時代は、このマリア様を通じた天への捧げものの本質を見極めて、ブレイク・スルーしていくことが課題となりそうだ。この地球で生活する生身のすべての人間のためにあるはずのものを天に捧げるという口実で、多くの犠牲を出すならば、それはキリスト教世界の都合の産物であって、天やマリア様やイエスが望んだものでないことは明らかだ。そもそも、天にはすべてのものがあるのだから。天やマリア様やキリストのためにではなく、苦しんでいる人々のために還すことが、捧げものの本当の目的であり、神の国のあり方だ。

人間が神の子であるならば、「神の国」というものを、この現実の世にあらわす能力が与えられている。その意味で、「ルカによる福音」にあるイエスの発言(17:20〜21)は示唆に富んでいる。
神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、「神の国は、見られるかたちで来るものではない。 また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」。

2000年前には、イエスはひとりであったかも知れないが、今は、望むなら誰でもイエスと同じはたらきをすることができる時代に、私たちは活かされ役割を担っている。

戦争は、近代文明における「紛争解決の最終手段」に名を借りた、暴力と流血に過ぎない。にもかかわらず、戦争を神の如きものとして認めてしまった人間たちが、この世界のリーダーのような顔をして生きている。この現実を変えることができるのは、彼らに対する暴力ではなく、私たち一人ひとりの信仰。それは、偶像崇拝しているに過ぎない今日的な宗教レベルの異質な信仰などではない。知識・名誉・地位などを道具とした自己顕示欲や他者から認知されたいといった欲求のようなレベルでは計れない、私たち一人ひとりにある大きな天命というものだろう。生きている間に、己が天命に素直にお役目を果たすために生きたい。お役目が果たせないでいるならば、今ある場から抜け出すには、何をして、何をなさずに何をするのかを熟慮して、奈落の底へのベクトルを光明へと向かわせたい。さもなければ、この地球の資源を自分のものだと主張するようなヘンテコリンな連中が、悪意を以てヨハネの黙示録をシナリオとして機能させる協力者にもなりかねない。神や神々といった意識体ではない、人間を乗り物として使える意識体にこころを奪われ宿されて、好戦的なこころを産み出されることは回避したい。こころを彼らに明け渡しても、自分の人生のように錯覚しながら生き続けることも可能だ。しかし、それは自分にとっての本当の人生ではない。再度、自分という人間を見直し、見極めてみよう。そして、何かを求め続けるこころが、何かを宿らす隙を与えることも知っておこう。また、私たち人間のこころは場を共有でき、場を形成することができる。特定の閉ざされた集団でのみ役割を味わう意識体なのか、すべての人々の身霊(みたま)に役割を担い光明をもたらすものなか、を見極めたい。私見によれば、福音の本来の目的は、この事実を知らしめることであり、私たちが理解できるものである。

私たち一人ひとりは、自分の人生のなかで、自分がどこから来て、どこへ行こうとしているのかを、自ら見つけ出すことができるように仕組まれている。その仕組みがスイッチ・オンになったなら、自分の歩いた道の後に続く人々のために、今の自分のお役目があるということを自覚できる。そして、もし自分が立ち止まってしまうなら、闇(darkness)が追い憑いて来るくるという実感を持ちながら、光明(light)のものとして生きて道を歩みたい。「汚れなきマリアの軍隊」を創建した意識もこのようなものであったに違いない。

世界は今、各国が同時株高でもって数字としてのマネーが満ち溢れている。その一方で、貧困は確実に拡大している。戦争を望む者たちが活氣づいているようだが、戦争は何も与えてはくれはしない。私たちには、光のものとして、天の道(天命)を歩むものとして、立ち止まることなく歩きつづける勇氣が求められている。この勇氣を知ることも、愛なのかもしれない。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。

大きな笑顔の佳き6月を

SunSunの朝陽を浴びながら  感謝

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