流れのままに

流れのままに おのが道をゆけ ひたすらに ひたむきに

二〇一五年卯月


三原じゅん子議員(平成22年7月・第22回参議院議員通常選挙・全国比例区で初当選)が参議院予算委員会で八紘一宇という言葉を引用したことをどう思いますか、とご質問をいただきましたので記すことにします。恥ずかしながら、彼女の発言が物議をかもしていたことを知りませんでした。

予算委員会ではこの言葉の引用は問題とされなかった。興味深いのは、彼女の質問に対し、答弁に立った麻生太郎財務相が「この言葉を知っている人、手を挙げて」と議員諸氏に呼びかけたところ、挙手したのはわずか2名ほど。この状況に鑑み、八紘一宇という言葉はすでに忘れられた言葉なのですと判断するのは安易なことだ。その場にいた議員諸氏は一層努力精進して日本及び日本人の歴史を勉強してもらいたい。一部メディアは八紘一宇という言葉は戦争礼賛であると批判したようだが、その短絡的な考え方を反面教師として戒めとしたい。
だから私は「八紘一宇」という言葉を使った
予算委員会での発言の意図を本人が説明
 東洋経済ONLINE 2015年04月05日
三原じゅん子 :参議院議員
 自民党の三原じゅん子参院議員が3月16日の予算委員会で発言した「八紘一宇」が話題になっている。「戦時中のスローガンを国会でなぜ?」(3月19日付朝日新聞)や「侵略戦争を正当化」(同日付東京新聞)、「戦意活用スローガン『八紘一宇』国会発言」(3月27日付毎日新聞)など、リベラル系のメディアが一斉に批判した。
 これらの記事が報じるように、三原氏は軍国日本を讃えているのだろうか。なぜ「八紘一宇」を使ったのだろうか。以下、本人がその意図を弁明する。(聞き手:ジャーナリスト・安積明子)

 予算委員会での私の発言について、多くの方からご意見をいただきました。これをきっかけに政策や歴史に関する議論が活発するのであれば、それこそ本望だと思っています。
 しかし、「三原じゅん子は『八紘一宇』が戦争や侵略戦争を正当化するスローガンだったことを軽視している」というご指摘はあたっていないように思います。私とて、この言葉が戦前に国威発揚のために使われたことは存じております。そしてあの戦争が日本の歴史に悲劇をもたらしたことも十分に理解しているつもりです。
 よって戦争の原体験を持つ政治家たちの多くは、「八紘一宇」をそういう意味としてとらえてきたのです。でも私たちにはそうした体験はありません。だからこそ、この言葉が持つ本来の意味を評価する必要があると思います。
八紘一宇の本来の意味とは?
 そもそも「八紘一宇」の本来の意味は何なのでしょうか。この語源は、神武天皇が即位された際に作られたとされる「橿原建都の詔(みことのり)」に遡ります。

「八紘(あめのした)を掩(おお)いて宇(いえ)と為(せ)むこと、亦可(またよ)からずや」

 つまりは「世界のすみずみまでも、ひとつの家族のように仲良く暮らしていける国にしていこうではないか」という建国の理念です。この詔を編入した日本書紀が完成したのは720年で、実に1300年以上も前に、国民を「おおみたから」と呼んで慈しみ、自分より他人を思いやる利他の精神、絆を大切にするこころや家族主義のルーツが記されていたのです。
 「八紘一宇」を予算委員会で用いた時、私は清水芳太郎氏の「建国」を解説として引用しました。これには「清水芳太郎は『日本的ファシストの象徴』と言われた北一輝の流れをくむ国家主義者ではないか」との批判をいただきましたが、私はそうは理解していません。
宮崎県にある平和の塔 清水芳太郎研究で知られる平井一臣鹿児島大学教授の著書「『地域ファシズム』の歴史像・国家改造運動と地域政治社会」によると、清水氏は農村の貧困問題に取り組み、創生会を結成して運動を展開していました。ファシストというより、弱者救済を国レベルで成し遂げようとした人ではなかったのかというのが私の理解です。
 さらに「八紘一宇」は二・二六事件の「蹶起趣意書」にも記載されていたために、軍事クーデターの原因となったとみなされがちですが、この事件が勃発するきっかけになったのも、農村の貧困問題でした。特に東北で長年農業恐慌が続いたことに加え、1931年と1934年に大凶作が起こり、少女の身売りや欠食児童問題が深刻になりました。
 これらを見ると、多くの人々が困窮して国が疲弊している時こそ「八紘一宇」の重要性が叫ばれていたという歴史的事実が浮かび上がります。「八紘一宇」は混乱の時代にあって、人々を救済するスローガンだったと思うのです。
多国籍資本は何をやってもいいのか
 それは現代社会にも当てはまります。たとえ武力による戦争に直接参加していなくても、日本はグローバル資本主義の下で激化する競争に常にさらされているのです。
 そこで私は3月16日の参院予算委員会で、現在のグローバル資本主義の中で日本がどう立ち振る舞うべきかを質問しました。たとえば日本でビジネスを展開して莫大な利益をあげているにもかかわらず、法律のはざまをぬって税金を納めない外国資本はどうでしょうか。法律によって違法とされない限り、何をやってもいいのでしょうか。
 実際に多国籍企業による「税源浸食と利益移転問題」は深刻化しており、本社を税率のより低い国に移すという「コーポレート・インバージョン」ばかりでなく、税率の低い第三国に親会社を設立するという「コンビネーション・インバージョン」も行われるようになりました。このように租税回避のテクニックは次々と生み出され、法律が追いつかないというのが現状です。
その結果、支払われなかった税金のしわ寄せは国民に押し付けられます。実際にOECDが2013年2月に公表した「BEPS報告書」によれば、このような企業の租税回避行動は各国の税収を減少させ、ひいては国の税制そのものへの信頼を失墜させるとされています。特にその影響を受けるのは発展途上国や家族経営企業などで、同報告書は「租税はただ愚か者が支払うようになった」とまで記載しているほどなのです。
 これはグローバル経済の下での当然の帰結かもしれません。しかし正直者が損する社会を作ってはいいのでしょうか。1国の努力だけで解決できるものではなく、国際的な協調が必要です。そこには何をもって法益とするのかについて合意しなくてはいけません。すなわちどの国も認める客観的な公正を認識することが必要なのです。
 この公正の理念こそが、「八紘一宇」ではないでしょうか。16日の予算委員会でこのことを提案した時、与党はもちろん他の政党の委員からも、全く批判の声は上がりませんでした。事前に理事会に添付資料と質問内容を通告しましたが、問題とされませんでした。
 また私の質問に対して答弁に立った麻生太郎財務相が「この言葉を知っている人、手を挙げて」と呼びかけても、2名ほどしか手を挙げませんでした。「八紘一宇」はすでに忘れられた言葉なのです。
建国の思いを世界に伝えるべきではないか
 だからこそ私はこの言葉に本来の意味を吹き込み、古来より日本が持っていた「和」の美徳をもういちど蘇らせたい。今年12月にはBEPSプロジェクトの取り組みについてとりまとめが行われるとことなので、この日本の建国の思いを是非とも世界に伝えるべきではないかと安倍晋三首相に申し上げたのです。
 「八紘一宇」をどうとらえるか。それは「日本人は永遠に言葉にとらわれつづけるべきだ」と考えるか、あるいは「戦争を乗り越えて、新しい未来を作る」と考えるかによって分かれるといえるでしょう。予算委員会で問題にならなかった私の「八紘一宇」発言は、一部のメディアにより曲解されて報道されましたが、これもいいチャンスだと思います。
 戦後70年を迎えた今だからこそ、もういちど歴史を見直し、改めて日本の将来を考えるべき時かもしれません。http://toyokeizai.net/articles/-/65369



八紘一宇という言葉が、先の大戦後70年に当たる2015年というタイミングで突然、国会の場で語られた背景には、私たち日本の民衆の意識の変化があるだろう。それは、『古事記』に記された初代天皇カムヤマトイワレビコ(神武天皇)が日向を発ち大和を征服して目的地ともいうべき日高見の橿原宮で即位するまでを記した神武東征の神話が、壬申の乱として日本の歴史に残された天智から天武へという変動(※注)と、神武の東征に準じた西南戦争の結果生まれた「抜刀隊」という西郷隆盛への畏敬の念に満ちている軍歌の記憶とともに、自覚されることなく、私たちの行動や考え方に影響を与える意識の萌芽。

『古事記』と『日本書紀』(記紀)に記された文言から生まれ、戦前の日本人、皆が知っていたこの八紘一宇という文字が、70年の封印から解放されようとしている。合衆国も中国も今年2015年の8月・9月を中心に、戦後70年という対日戦争勝利のプロパガンダを、くり返し行なうだろう。しかしながら、私たち日本の民衆は、これによって、スタートから誤りであった明治維新の道が、併合することで朝鮮半島の人間を日本人としたり、五族協和などと言った満州国における日本的幻想を、神武天皇の神話を拠所にして創りだしたことの大失敗を、日本の歴史として改めて理解するようになるだろう。記紀がユーラシア大陸(ウシハク国)との不必要な縁を切らせるためにこの世に置かれたことは、日本がシラス国であることを発見した本居宣長の古事記伝や今日までの歴史時間と流血を伴った戦いをレヴューしたなら明白となるだろう。ユーラシア大陸進出は天意ではない国家神道というつくりものを付加した、太閤秀吉の時代に失敗した地政学的拡大の焼き直しであった。本居宣長や平田篤胤に代表される考え方を継承した国家神道は、明治日本の支配勢力の人間的欲求から生まれたものに過ぎない。明治政府は、本居宣長が発見していた、『古事記』のシラス国とウシハク国の差異を継承していなかった。

シラス国とウシハク国という統治原理の再発見という国学の原点に立ち返った、真の日本の国体(かたち)に基づいた、非戦・不戦の国創りを目指すスタートが2015年。私たちこの地球に生まれた人間は皆、他者の持ち物を奪うことも、他者を妬むことも必要としないのだと氣づき始める年でもある。


大きな笑顔の佳き週末を

SunSunの朝陽を浴びながら  感謝

(※注)壬申の乱の繰り返しが明治維新であるという史眼もあります。
参考:流れのままに「神在月に西郷さんを想う」(2013年10月13日)

パラオご訪問ご出発に当たっての天皇陛下のおことば(東京国際空港)平成27年4月8日(水)
 本年は戦後70年に当たります。先の戦争では,太平洋の各地においても激しい戦闘が行われ,数知れぬ人命が失われました。祖国を守るべく戦地に赴き,帰らぬ身となった人々のことが深く偲(しの)ばれます。
 私どもはこの節目の年に当たり,戦陣に倒れた幾多の人々の上を思いつつ,パラオ共和国を訪問いたします。
 パラオ共和国は,ミクロネシア連邦,マーシャル諸島共和国と共に,第一次世界大戦まではドイツの植民地でしたが,戦後,,ヴェルサイユ条約及び国際連盟の決定により我が国の委任統治の下に置かれました。そしてパラオには南洋庁が置かれ,我が国から多くの人々が移住し,昭和10年頃には,島民の数より多い5万人を超える人々が,これらの島々に住むようになりました。
 終戦の前年には,これらの地域で激しい戦闘が行われ,幾つもの島で日本軍が玉砕しました。この度訪れるペリリュー島もその一つで,この戦いにおいて日本軍は約1万人,米軍は約1,700人の戦死者を出しています。太平洋に浮かぶ美しい島々で,このような悲しい歴史があったことを,私どもは決して忘れてはならないと思います。
 この度のパラオ共和国訪問が,両国間にこれまで築かれてきた友好協力関係の,更なる発展に寄与することを念願しています。私どもは,この機会に,この地域で亡くなった日米の死者を追悼するとともに,パラオ国の人々が,厳しい戦禍を体験したにもかかわらず,戦後に,慰霊碑や墓地の清掃,遺骨の収集などに尽力されてきたことに対し,大統領閣下始めパラオ国民に,心から謝意を表したいと思っております。
 この訪問に際し,ミクロネシア連邦及びマーシャル諸島共和国の大統領御夫妻が私どものパラオ国訪問に合わせて御来島になり,パラオ国大統領御夫妻と共に,ペリリュー島にも同行してくださることを深く感謝しております。
 終わりに,この訪問の実現に向け,関係者の尽力を得たことに対し,深く感謝の意を表します。
http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/speech/speech-h27e-palau.html#AIRPORT

Remarks by His Majesty the Emperor at the Time of Their Majesties' Departure for the Republic of Palau (April 8, 2015)
 This year marks the 70th anniversary of the end of World War II, which brought fierce fighting to various parts of the Pacific Ocean, resulting in the loss of countless lives. Our thoughts go out to all those who went to the battlefields to defend their countries, never to return home.
 In this milestone year, reflecting upon those many people who fell in battle, we will visit the Republic of Palau.
 The Republic of Palau, along with the Federated States of Micronesia and the Republic of the Marshall Islands, was a German colony up through World War I. After that war, the Treaty of Versailles and the decision of the League of Nations placed those territories under the mandate of Japan. Palau became the site of Japan's South Seas Agency, and many people emigrated there from Japan. By around 1935, more than 50,000 Japanese nationals - a number greater than the native population - had come to live on those islands.
 In 1944, the year before the end of the war, fierce battles took place in the region, and Japanese forces fought to their deaths on many islands. The island of Peleliu, which we will visit on this trip, was one of those islands. Some 10,000 Japanese soldiers and 1,700 American soldiers lost their lives there. We believe that we must never forget that those beautiful islands in the Pacific Ocean have such a tragic history.
 It is our sincere hope that our visit to the Republic of Palau will contribute to the further development of the friendly cooperative relations that our nations have forged so far. While we are there, we will mourn and pay tribute to both the Japanese and Americans who perished in the region. At the same time, taking this opportunity, we wish to offer our heartfelt thanks to His Excellency the President and all the people of Palau, for, although they suffered the ravages of war themselves, the people of Palau worked hard after the war to care for the memorial cenotaphs and cemeteries and to collect the remains of the fallen.
 We are deeply grateful that during our stay there, Their Excellencies the Presidents and First Ladies of the Federated States of Micronesia and the Republic of the Marshall Islands will also visit the Republic of Palau, joining His Excellency the President and the First Lady of the Republic of Palau on our trip to Peleliu.
 Finally, we would like to express our deepest gratitude to all those who worked so hard to make this visit possible.
http://www.kunaicho.go.jp/e-okotoba/01/address/speech-h27e.html#AIRPORT

両陛下 ペリリュー島で戦没者慰霊へ
(NHK 4月9日 4時14分)
両陛下 ペリリュー島で戦没者慰霊へ1504090439 戦後70年に当たり、太平洋戦争の舞台となったパラオを訪れている天皇皇后両陛下は9日、激戦地のペリリュー島を訪れ、慰霊碑に花を供えて戦没者の霊を慰められます。
 8日夕方にパラオに到着した両陛下は、空港での歓迎行事やレメンゲサウ大統領夫妻との会見に臨んだあと、夜には歓迎の晩さん会に出席されました。
 この席で、天皇陛下は「ここパラオの地において、私どもは先の戦争で亡くなったすべての人々を追悼し、その遺族の歩んできた苦難の道をしのびたいと思います」と述べられました。
 両陛下は訪問2日目の9日、一晩宿泊した海上保安庁の巡視船をヘリコプターで発って、激戦地となって、およそ1万人の日本軍がほぼ全滅したペリリュー島を訪ねられます。
 そして、生き残った元日本兵や遺族らも見守るなか、日本政府が建てた「西太平洋戦没者の碑」に日本から持参した白い菊の花束を供えて、犠牲者の霊を慰められます。両陛下は、アメリカ軍の慰霊碑にも足を運んだあと、日系人も多い島の住民と交流する機会も持ち、9日夜に帰国されます。
西太平洋戦没者の碑
 ペリリュー島の南端にある「西太平洋戦没者の碑」は、パラオの島々や周辺の海などで亡くなった戦没者を慰霊するため、日本政府が昭和60年に建てた石碑です。
 日本の方角に向けられていて、「さきの大戦において、西太平洋の諸島及び海域で戦没した人々をしのび、平和への思いを込めてこの碑を建立する」と記されています。
 戦没者の遺族や、遺骨収集のためパラオを訪れる人たちのほとんどが、この慰霊碑に足を運び、線香や花を供えています。
 3年前、台風による高潮で土台の一部がえぐり取られるなどしましたが、3月上旬、4か月余りにわたる復旧工事が終わり、元通りに修復されました。
アメリカ軍の慰霊碑
 アメリカ軍の慰霊碑は、ペリリュー島に上陸したアメリカ軍の主力部隊が、日本軍との間で激しい戦闘を繰り広げた「オレンジビーチ」のそばに建てられていて、2つの石碑の間に白い十字架が置かれています。
 アメリカ軍は、洞くつを利用して島を要塞化した日本軍の激しい抵抗にあい、2か月余りで千数百人に上る犠牲者を出しました。
 慰霊碑は、かつて戦死者が埋葬されていた場所に建てられているということで、「ペリリュー島で戦い、死亡した兵士たちの記憶を永遠に伝える」などと記されています。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150409/k10010042381000.html

沖縄県と宮崎県以外は全国的に空間線量が急上昇している。政府は私たち民衆に、この事態に関して警告を発していない。2号炉の原子炉の冷却水は既に89度に達し、限りなく沸騰温度に近づいている。東電福島第一原発の地下に沈んだ百数十トンの溶融燃料塊(デブリ)が原因なのか。


大きな笑顔で邪氣を払って参りましょう

感謝

昨日の朝の夢のことであった。英国人の法律家が現れ、“Indeed he is poor, but you must not therefore despise him.(いかに愚かに見える人であっても侮ってはいけません)Please try way harder to do your very best.(常に用心して最善を尽くしてください)”と語りかけてくれる。ハッとして、"I can relate to it myself."と呟き目を覚ます。この一瞬、ある種の厳しさを味わった。

人の意識が胸部位に集まり生命維持システムが働くとき、意識のバランスが整う。バランス感覚の滅失をキャッチした意識群は、大宇宙を組織化しているバランスをとるunity(組織体)により、睡眠中の肉体環境に流入し、バランスを矯正する。このSTRAIGHTENING DEVICEを夢といい、夢を流すには3段界ある。

A) 現自点修正
B) 知恵の補充
C) 未来予知

私たちは、夢により不明な点などを、明らかにされる。
だから、いつでも状況変転できる。


閑話休題(それはさておき)


翁長雄志沖縄県知事と菅義偉(よしひで)官房長官は5日(日曜日)、県庁ではなく、那覇市内のハーバー ビューホテルで会談した。ホテル前には1500名の民衆が集まり、知事に声援を送った。翁長氏は、合衆国軍普天間飛行場の名護市辺野古移設の阻止を公約し、昨年12月に知事に就任。官房長官が翁長氏と会談したのは初めてのことであった。

合衆国軍普天間飛行場移設問題に関し、菅氏は「辺野古移設を断念することは普天間の固定化にもつながる。(仲井真弘多前知事に)承認いただいた関係法令に基づき、辺野古埋め立てを粛々と進めている」と説明。翁長氏は「『粛々』という言葉を何度も使う官房長官の姿が、米軍軍政下に『沖縄の自治は神話だ』と言った最高権力者キャラウェイ高等弁務官の姿と重なる。県民の怒りは増幅し、辺野古の新基地は絶対に建設することはできない」と強く批判した。1時間の会談は最初の30分が公開、後の30分が非公開であった。普天間基地は合衆国軍が戦争中に住民を排除して作った事を翁長氏は指摘した。戦争中に民間地を奪取する事はハーグ陸戦条約に違反しているそうだ。

現政権が沖縄の民衆を無視せざるを得ないのは、合衆国の覇権がそうさせるのだろう。しかしながら、現状の行為を容認し可能にさせている最大変数(メイン・ファクター)は、私たち日本の民衆の意思なのではないだろうか。基地の問題は他人事でしかないのだ。政官界のトップ・エリート諸氏の意識には、沖縄は日本でないと刷り込まれているようで、プライベートな対話の折に本音が顔を出す。私たち民衆も彼らと同じように沖縄を扱っていないだろうか。翁長氏が弾圧政治を行った合衆国の代理人を現政権に重ねて、今の時代には過去に通用した強権政治は通じないと諭し、現政権の時代錯誤をクリスタライズしたのは天晴であった。

翁長氏の保守政治家らしい落ち着きには感動する。凛としてサワヤカ、バックボーンが真っ直ぐだ。対坐した内閣官房長官は彼の面前では貧弱に見えた。政治に携わる人間としてのエッセンスの違いであろうか。彼は埋め立て承認の取り消しに時間エネルギーを使い、かつ手続きを踏んでいる。久々に見る保守政治家の姿にエールを送りたくなると同時に、指導者としての人材と地方自治政府のポテンシャルを持つ沖縄県民は幸せだと思った。来週の北海道知事選を目前にして、地方自治を担うポテンシャルある人材が候補者に見当たらない。

さて、沖縄の歴史をレヴューしてみると英国が浮かび上がり、明治維新に英国が深く関与していたことが分かる。

日本は1867年に大政奉還で徳川家の支配体制が崩壊し、薩摩藩・長州藩を中心とする新体制へ移行していった。そして1868年1月3日の王政復古以後に成立した政権を明治政府、新政府、維新政府などと私たちは呼び始めた。廃藩置県の翌年の1872年、琉球国王・尚泰は、明治政府により「琉球藩王」とされるとともに華族とされ、これにより琉球藩が設置。これを別の表現では、明治政府は琉球王国を潰して琉球藩をでっち上げ、植民地化したのは1872年のことであった、と言える。この背景には、1871年10月の琉球漁民殺害事件がある。

1871年9月に日清修好条規(1894年7月まで)は結ばれたのだが、この年の10月、琉球王国の首里王府に年貢を納めて帰途についた宮古・八重山の船4隻のうち、宮古船の1隻が台湾近海で遭難。台湾東南海岸に漂着した69人のうち3人が溺死(1名は高齢のためか?)、台湾山中をさまよった生存者のうち54名が台湾原住民によって殺害された。明治政府は、この事件に対し清朝に厳重抗議するも、原住民は「化外の民」(国家統治の及ばない者たち)であるという清朝からの回答があった。これを利用して、明治政府は1874年、台湾へ軍隊を派遣(台湾出兵)。このために、琉球が日本の領土だとする形式が要請されたのであった。

このアイディアは日本人の脳裏に閃いたものではなかった。1872年、厦門(アモイ)の合衆国領事を務めていたチャールズ・ルジャンドル(1830〜1899)が合衆国への帰路、日本に立ち寄った。彼は南北戦争では北軍の陸軍大佐としてグラント将軍旗下で活躍、戦後除隊した後には陸軍准将に名誉進級されていた。このルジャンドルが、明治政府に台湾問題の武力解決を提唱。副島種臣外務卿も意見を一致させ、ルジャンドルは合衆国領事の職を辞し、1872年12月12日、外交および軍事顧問として明治政府に雇用された。1873年2月、副島は1871年10月に台湾で起きた琉球漁民殺害事件の処理交渉の特命全権公使兼外務大臣として北京へ派遣されたが、ルジャンドルもこれに参加。この交渉は部分的に成功し、ルジャンドルは引き続き1874年の台湾出兵の準備を手伝っている。1875年に明治政府から勲二等旭日重光章を授与された。外国人として最初のものであった。その年の末、外交および軍事顧問の職を辞した。彼は1890年までわが国に滞在し、大隈重信の個人的な顧問を務めた。その後、1890年から1899年まで、朝鮮王高宗(1897年から大韓帝国皇帝)の顧問を務めた。「花の橘屋」と呼ばれた十五代目市村羽左衛門(1874〜1945)は実子。ボローニャ大学から日本人初のディプロマを取得し、ミラノのスカラ座入団後にプリマドンナとして活躍した声楽家の関屋敏子(1904〜1941)は孫にあたる。彼女は自ら作曲した『野いばら』の楽譜の裏表紙に遺書を遺し、睡眠薬で自殺してしまう。37歳であった。
関屋敏子は、三十八歳で今散りましても、桜の花のようにかぐわしい名は永久消える事のない今日只今だと悟りました。そして敏子の名誉を永久に保管していただき、百万年も万々年も世とともに人の心の清さを知らしむる御手本になりますよう、大日本芸術の品格を守らして下さいませ。— 関屋敏子、遺書


横道にそれてしまった。軌道修正しよう。明治日本が台湾へ派兵したのが1874年。その翌年1875年9月20日の雲揚号事件を契機として、日朝修好条規を結ばせて清国の宗主権を否定させることに成功。ここまで極東情勢を逼迫させたメイン・ファクターは、アヘン戦争(1840〜1842)とアロー戦争(第2次アヘン戦争:1856〜1860)であった。この2つの戦争で英国は中国に麻薬貿易を認めさせ、利権を手にした。これらの戦争で財を成したのは、1832年設立のジャーディン・マセソン商会(Jardine Matheson Holdings Limited)であった。アヘンの密輸と茶の英国への輸出を設立当初の主な業務にしていたこの会社は、創設から180年たった今日も、アジアを基盤に世界最大級の国際コングロマリット(複合企業)として影響力を持っている。1859年、上海支店にいた英国人ウィリアム・ケズィック(1834〜1912)が横浜に「ジャーディン・マセソン商会」横浜支店を設立したが、これは日本に進出した外資第1号。後に吉田茂の養父・吉田健三が一時期、同社横浜支店長を勤めていたことを想いだす人は少ない。ウィリアム・ケズウィックは1863年、長州藩の名の下で、井上聞多(馨)・遠藤謹助・山尾庸三・伊藤俊輔(博文)・野村弥吉(井上勝)の長州五傑を支援して英国へ送り出した。渡航にはジャーディン・マセソン商会の船が使われていた。

その一方、長崎は、1859年9月19日にトーマス・ブレーク・グラバー(1838〜1911)が「ジャーディン・マセソン商会」長崎代理店として「グラバー商会」を設立。その他、神戸・大阪・函館にも代理店を置いた。彼は五代友厚・森有礼・寺島宗則・長澤鼎(以上、薩摩)・坂本龍馬(海援隊)・岩崎弥太郎(三菱財閥)らの海外留学を支援。また上記、長州五傑の英国渡航の手引きもしている。彼は1868年の明治維新後も造幣寮の機械輸入に関わるなど明治政府との関係を深めるも、武器が売れなくなったことや諸藩からの資金回収が滞ったことなどで1870年グラバー商会を破産させた。彼自身は高島炭鉱(後に官営)の実質的経営者として日本に在留。1881年、官営事業払い下げで三菱の岩崎弥太郎が高島炭鉱を買収してからも所長として経営に当たった。1885年以降は三菱の相談役としても活躍。経営危機に直面していたスプリング・バレー・ブルワリーの再建参画を岩崎に勧め、後の麒麟麦酒(現、キリンホールディングス)の基礎を築いた。

司馬遼太郎(1923〜1996)は、司馬史観と呼ばれる立場で歴史を小説化した心優しい作家であった。その文学的創造が多くの日本人に支持されたにもかかわらず、既に色あせているのは歴史の真実を描いていないからだろう。人知を越えた部分の情報をすべてオミットして、彼は日本のかたちを語ってしまった。明治初期を生きた人々を描いても、フリーメイソンには触れることはなかった。また、日露戦争のときの参謀として千里眼の持ち主としても知られた秋山真之という人物のことを描く際にも、その宗教的遍歴や大地震の予言騒動などスピリチュアル面での彼の特性にはほとんど触れようとはしなかった。興味がある方は、浅野和三郎著「大本霊験秘録」(1997年・八幡書店刊行)の『冬籠』をご覧いただきたい。また、「歴史の中の日本」(中公文庫)には『生きている出雲王朝』と題されて昭和36年に書かれたものがある。出雲大社の神職の家系につながる人物である新聞社時代の同僚W氏から口伝としてあると教えられた出雲族側の大和朝廷による出雲族の征服の情報について記しているが、知り得たことをすべて書き残してはいないようだ。スピリチュアルな世界をスポイルし、真実から離れたつくりものの歴史を私たち日本の民衆にプリントしたのであった。

また、維新政府の元勲たちは、暗殺者であり、今風に言い換えるならテロリストであり、その行動の結果として権力を手にした人々であった。彼らには、この日本を外国に売ったという劣等意識はなかったようだ。自分たちの政治的な保身目的で1889年にプロシア風の欽定憲法を制定。第11条にある「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」という条文に、統帥権すなわち軍事作戦に関する命令・実行の権限は行政・司法・立法から独立していることを保障しているとする憲法解釈を許容した。この法的な不完全さが、結果、政戦略(国家戦略と軍事戦略との整合性)の不一致、しいては制御不能の軍部を生み出し、1945年の敗戦へとわが国を導いてしまった。不思議なことだが、この責任が問われることはなかった。先の大戦後の日本の天皇の在り方がマッカーサーによって守られたのは、そのシステムを保持することで、合衆国が間接統治できるという功利(utility)を優先した結果であった。

〔声0歐靴ら1945年の敗戦まで、1945年8月から2014年8月まで、そして、2015年4月の今上陛下のパラオ訪問実現からの時空の流れを、ゆとりをもってレヴューできる時代に私たちは生きている。太平洋戦争と名付けられた、合衆国と日本の間の戦争は、今年、真に終わろうとしている。

今日から始まる今上陛下のパオラ共和国ご訪問。80歳を超えられている陛下にとっては、「太平洋戦争」の激戦地であるペリリュー島への鎮魂の旅が、ここ10年来の悲願であった。この思いを私たち日本の民衆も共有したい。鎮魂の時期を静かに穏やかに過ごしたい。
御日程の概要
4月8日(水) 東京 御発
        バベルダオブ島 御着(パラオ国)
        コロール島 御着
4月9日(木) ペリリュー島 御着
        バベルダオブ島 御着
        同地 御発
        東京 御着   


大きな笑顔の佳き水曜日を  感謝
ペリリュー島

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