流れのままに

流れのままに おのが道をゆけ ひたすらに ひたむきに

二〇一七年文月

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稲田氏は下降する気球から投げ捨てられた荷のようなもの
(スプートニク日本 ドミトリー ヴェルホトゥロフ 2017年07月28日 21:08(アップデート 2017年07月28日 21:47))
気球が上昇する力を失って地上に降下しようとするとき、乗員は気球を軽くして高度を保つために、荷を投げ捨てる。稲田朋美氏の防衛相辞任劇を説明するとき、この理論が適用できるかもしれない。安倍内閣は急激に国民の信頼を失っており、降下スピードをやわらげ、行動する時間を稼ぐために、お気に入りの存在を犠牲にしなければならなくなっているのだ。

形式的には、稲田氏は南スーダンの状況と、南スーダンでの自衛隊の国連平和維持活動について正確でない情報を伝えてしまったから、ということになっている。稲田氏は国連平和維持活動に従事している自衛隊員が南スーダンの首都、ジュバにおいて大規模な武力衝突を目にしていた頃、南スーダンは平常な状態だと発表していた。

筆者にとっては、この点を野党が批判するのは公正でないように思える。第一に、国連平和維持活動部隊は、内戦状態の国に派遣されており、戦闘行為を行わない隊員であったとしても、そこでのリスクは通常よりも大きい。そのような戦闘行為が行われているところに隊員を派遣しておきながら完全な安全を要求するのは、控えめに言ってナンセンスである。

第二に、南スーダンの状況の先鋭化は2013年12月に始まっており、その頃既に、大統領のサルバ・キール派と副大統領リエック・マチャル派に分かれて、大砲を用いた戦闘が行われていた。2014年には内戦は深刻なものになり、一般市民が迫害され、病院や食糧庫、国連の施設までが攻撃される事例が見受けられた。2016年6月にはジュバで戦車やヘリを使った本格的な戦闘が行われた。

こういったことについては世界中のメディアが報じており、言うまでもなく野党もこれらの情報を得られたはずだ。南スーダンにおける国連の報告書や資料を読むこともできた。それら資料は、南スーダンの状況の悪化について詳しく説明している。この意味において、日本防衛省の報告というのは、何かを決定的にする意味合いをもっていなかったのである。

戦争の歴史を紐解くと、戦地にいる軍が正確ではない報告、あるいはまったく正確ではない報告を出すことは、非常によくあることである。その理由はたくさんある。

また別の話として、南スーダンの現況について公式的に発表してこなかったことと、日報を破棄しようとしたことは、安倍政権に対する信頼が急降下する中で、非常に痛いポイントである。つまり問題は、まさに信頼がないということなのだ。不正確な情報の存在が日の目にさらされたことで、まずます信頼不在は大きく深くなる。

稲田氏の行動は非難すべきことだったかもしれないが、日本の防衛に損害をもたらしたわけでもないし、日本のイメージを悪くしたわけでもない。国連平和維持活動のミッションは犠牲者を出すことなく終了した。しかし口頭での叱責ではなく、安倍首相の謝罪と共に、辞任することになった。稲田氏の辞任は、安倍内閣の状況が悪くなるいっぽうだということを物語っており、もしかすると彼自身も自分に対する国民の信頼失墜のせいで、辞任の崖っぷちに立たされているのかもしれない。

ドミトリー ヴェルホトゥロフドミトリー ヴェルホトゥロフ: 1981年、クラスノヤルスク地方、アチンスク出身。2002年、クラスノヤルスク国立教育大学史学部卒業後、現代アフガニスタン調査センターに就職。フリーランスで様々な通信社に記事を書いている。ソ連邦、第2次世界大戦の歴史について13冊を執筆。2008年からは北東アジア安全保障問題研究を開始。アジアの経済発展、特に産業、エネルギー、安全保障、軍事分析、軍事政治関係が専門分野。


日本会議とか統一教会系の政治関係者たちがこのようにして国防の官庁から去っていく背景に、天皇の姿を感じるのは私だけでしょうか。


大きな笑顔の佳き日曜日を。  感謝

この人生には色々な「試練」が訪れる。長生きをすることが喜びではなく、「試練」となっている人々がいる。自分にはもう生きる必要がないのだけれども、早く死んでしまいたいのだけれども、生きていなければならない人々がいる。彼らのなかには、自分で自分のことができなくなった老人たちもいる。その多くが、日常生活を介助してくれる周りの人々へ感謝しているかというと、必ずしもそうとは限らないようだ。悪態をつく人が多く、そこにその人物の身魂の成長が顕れる。試されることの苦しみが見え隠れする。

認知症が発症するや、以前の穏やかな人格とは別な凶暴で攻撃性を帯びた人格が登場することがある。これは発症により新しく備わった性質ではなく、長い間、隠されてきた本性が隠しきれなくなったものだろう。いかに自分自身を綺麗事で包み込んだとしても、人生の最期には、自分の言動が本性によるものであったのか、本性を隠すための言動であったのかが周知される。残酷なことだ。本性が暴かれるシステムが認知症なのかもしれない。

我よしで、頑固な、素直でない人たちほど、年老いた時の認知症のリスクが高まるようだ。人が人として生きるということは、その身体に良心(魂)という聖なるものを宿して生きるということ。だから、健康なうちにシッカリと身体と良心(魂)を不可分一体のもの(身魂)として成長させる。これから老人になるわたしたちはこのことを知っておきたい。

話題を変えよう。

近視眼的な小手先の利益獲得を経済と呼ぶこともできるだろう。しかしながら、それは手段に過ぎず到底、政治目的とは成り得ない。政治の目的は、経世済民としての経済なのだから、人間の尊厳を最優先としたい。『雪というのは、生活との戦いなんだ。俺が訴えている地方分権や、一極集中を排除しなければいかんと言っている発想の原点は、雪との戦いなんだ』と語った田中角栄氏の政治家としての身魂に、人間が人間らしくあること、ごくごく普通の日常を送れるようにする世の中を顕現させようとする意識と知恵を感じる。
田中角栄 日本が酔いしれた親分力(16)地方に賭ける6時間の熱弁
田中角栄20160728o2nd-250x250  1972年の大ベストセラーとなった田中角栄の著書「日本列島改造論」。そこでは都会と地方の経済格差をなくすための交通・情報インフラ整備を促す明確なビジョンが示され、いち早く地方分権への道が模索されていた。この先見的な政策は、いかにして生み出されたのか!?
 田中角栄は1971年(昭和46年)7月5日、佐藤内閣改造で、通産大臣になった。秘書官になった小長啓一は、大臣室に挨拶に出向いた。
 田中は、扇子をせわしそうにパタパタと扇ぎながら言った。
 「君の生まれはどこだ」
 「岡山でございます」
 「温暖な気候の岡山の人間にとって、雪というのはロマンの対象だよな。川端康成の『雪国』のようにあくまで抒情的な世界だよ。だけど、新潟県人の俺にとって雪はロマンじゃない。雪というのは、生活との戦いなんだ。俺が訴えている地方分権や、一極集中を排除しなければいかんと言っている発想の原点は、雪との戦いなんだ。君が雪をロマンの対象と見ている限りにおいては、俺とは本質的にちがうよな」
その年の暮れ、田中は小長に言った。
 「俺は、通産大臣になってこの半年の間に、産業サイドから見た国土開発を勉強した。これで一応、国土開発の政策体系を網羅したことになる。3年前に都市政策大綱をまとめたが、抽象的で理屈が多すぎる。内容も難しい。専門家は評価してくれたが、もっと国民にわかりやすいものを産業サイドの視点も入れて作りたい。何か、できないかな」
 さっそく小長は、通産省の関係者に相談した。みな乗り気であった。
 「やろうじゃないか」
 小長は田中に報告した。
 「大臣、みなOKですよ」
 「そうか。出版社は日刊工業新聞に頼もう」
 田中は、日刊工業新聞の白井十四雄社長と親しかったのである。さらに、冗談めかして言った。
 「大手の新聞社のどこかから出すと、他の大手新聞社がひがむからな」
 小長は考えた。
〈田中さんなりに勉強を積んでいたのだな。過去の経験と勉強が合体し、体系ができてきた。今度は通産大臣になり、工業の勉強をして、それがパーフェクトになったということだろう〉
 12月に入ると、田中によるレクチャーが始まった。開口一番の言葉は、これだった。
 「自分は政治家になって以来、国土開発を手がけてきた。その最初が、道路の問題だった。都市集中、表日本集中の政治を、裏日本、北海道などにも恩典に浴すために道路財源の確保が問題だった」
 ここから日本列島改造が始まった。それからしばらくして舗装率は高まり、高速道路も建設され、空港もでき、港湾も整備されていく。この変化の様を、田中はとうとうと語った。
 田中は、国土開発に関する自分の考えを熱い口調で語った。
 「高度成長時代は、東京へ、東京へ、という流れでやってきた。これを放任しておったら、日本はパンクしてしまう。その流れを180度変えて、地方への流れにしなければならない。地方に25万人程度の中核都市を作る。それこそが、日本の新しい生き残り戦略の最大ポイントだ。そのためには、地域にそれなりのインフラを整備しないといかん。新幹線鉄道網であり、交通道路網であり、航空路の整備に取り組む」
 田中は強調した。
 「東京に一極集中されれば、地方はどんどん過疎になる。過疎になれば、ますますインフラ整備ができない。日本は、いびつな不均衡発展を遂げる。これはもう、大変なことになる。それを避けることを、今から計画的にやっていかないといけないんだ」
 口調は迫力を増した。
 「東京にいれば、酔っぱらって具合が悪くなり、道端でひっくり返っても、すぐに救急車が来て助けてくれる。命に別状もない。同じことをインフラの整備されていない過疎地域でやったら、どうなるか。救急車の数も少なく、すぐには来られない。命を落としてしまう。同じ人間の命で、そういうことがあっていいのか! どこにいても、ちゃんと命が保証されるということでないと、いかんのではないか!
 田中は、しだいに興奮してきた。
 「日本海側は、裏日本と言われているが、そんな差別用語みたいなことを言うのはけしからん! 江戸時代以前の帆船だけしかない時代は、日本海側こそ、むしろ交通の要所だったんだ。太平洋側は、船が航行できない。蒸気船ができて初めて航行できるようになった。昔、立派に栄えたところが、今や裏日本と呼ばれ、過疎地域みたいな言い方をされるのはおかしい
 ふと気がつけば、6時間が経過していた。あっという間の出来事だった。
作家:大下英治

田中角栄 日本が酔いしれた親分力(17)政策を形にした数々の協力
田中角栄20160728o2nd-250x250 1日6時間ぶっ通しの田中によるレクチャーは、3日間も続いた。
 通産大臣室には、田中がレクチャーする内容に合った官僚たちが、その日ごとに集められた。企業局立地指導課長の浜岡平一をはじめとする関係局の課長、日刊工業新聞社の記者2〜3人の、合わせて10人前後であった。
 通産大臣秘書官として3日間、1日6時間に渡るすべてのレクチャーを聞いた小長は驚くしかなかった。
〈もう、すごい‥‥すごいとしか言えない〉
 それほど、田中の頭の中には、国土開発の構想がしっかりと描かれていた。
〈大臣の国土開発に懸ける思いは、血肉化しているんだな〉
 田中が語った話はスケールが大きく、はるかに通産省の枠をはみ出していた。テーマによっては、建設省の道路局や河川局、運輸省の鉄道監督局、経済企画庁、大蔵省の領域のものがある。それら関係省庁の協力を仰がなければならない。
 小長は、各省庁の担当局長、課長に電話を入れた。
 「田中大臣の指示により、産業サイドから見た国土開発をまとめているんですが、資料をいただけますか?」
小長が細かく説明するまでもなく、担当局長や課長は即答した。
 「わかりました。あなたが欲しい資料は××の視点からの××の資料でしょう」
 「はい、そうです」
 「明日にでも届けますよ」
 あまりのあっけなさに、小長はビックリした。本来なら、通産省の一官僚である小長が、他省の局長や課長に電話を入れ、資料を頼んだとしても、それを受け入れてくれることなどない。それなのに、小長の要求は想像していたよりもスムーズに承諾してくれる。
 むしろ、相手側が乗り気になっているのだ。
 「田中さんが、そういうことをする気になったんだ。そうとあれば全面協力だ」
 決して田中が根回ししていたわけではない。それでも、小長が驚くくらいにどの省庁も協力的で、小長のもとに必要な資料を届けてくれる。しかも、田中の発想に基づいた最新の資料ばかりだ。小長が客観的に見ても、目新しく映る部分が相当あり、田中がレクチャーした以上の内容まで盛り込まれている。
 これができるのも、田中がそれまでに築き上げてきた人脈があってこそのことである。小長は、田中の人脈の広さを思い知らされていた。
〈国土開発のあらゆる省庁に、田中さんの思想が浸透している。そして、田中シンパがいるんだな〉
 その集まった最新の資料を整理し、小長はそれぞれの担当者に割り振っていった。そのメンバーの中には、作家であり経済評論家でもある堺屋太一──後に国務大臣、経済企画庁長官も務める池口小太郎の姿もあった。当時、大臣官房企画室企画主任だった池口には、日本経済の成長率関連の執筆が割り当てられた。
 しかし、71年が終わると、田中の秘書の早坂茂三が、小長をせかした。
 「オヤジは総裁選に立候補するかもしれない。この本を立候補宣言用の材料にする。出版は3月だ。急いでほしい」
 小長らは土日も忘れて、突貫工事で執筆作業に没頭した。
 72年(昭和47年)3月、小長たちは、次期首相を目指す田中の政策構想をまとめた原稿を入稿した。原稿は校正を経て、日刊工業新聞社から出版されることになった。書名は「日本列島改造論」。
 日本全体の工業化を促進し、日本を均衡化していこうというものである。東京、大阪、名古屋など一部の大都市の経済を発展させるのではなく、全国の経済を発展させる。いわば、地方分権のはしりであった。
 公害など環境問題が出てくることも予見されていたが、それを処理することも示されていた。経済の成長だけではなく環境問題にも配慮する、時勢に合った政策でもあった。
 出来上がった本を見て、田中も喜んだ。各省庁から提出された最新の資料のおかげで、田中が想像していた以上にイメージが膨らみ説得力を増していた。
作家:大下英治


閑話休題(それはさておき)


文化庁の京都市への移転について検討している政府の協議会は25日(火曜日)の会合で、移転先を京都府上京区にある京都府警本部の本館とし、遅くとも平成33年度中の移転を目指すことを正式に決めた。移転の規模は国会や他の府省庁との調整が必要な業務を担う職員を除き、文化庁の全職員の7割に当たる250人規模とする。
「文化庁の京都移転 地元とのズレ」(ここに注目!)
(NHK 2017年03月30日 (木) 名越章浩解説委員)
文化庁が、平成31年度以降に京都に全面移転するのを前に、新年度から一部が先行して京都に移転します。名越章浩解説委員がお伝えします。

Q、なぜ、文化庁が移転することになったのでしょうか?
A、文化庁の移転は、安倍政権が掲げる「地方創生」の1つとして決まりました。
もともとは、中央省庁の中の消費者庁や中小企業庁など7つの機関が移転の対象にあがっていたのですが、唯一、全面移転が正式に決まったのが、文化庁でした。
地方創生の試金石となるのか、注目されています。

Q、でも、新年度からは、一部の移転なのですね?
A、そうです。
今回は、職員およそ230人のうち、10人が京都にうつり、全面移転に向けた準備を進めることになっています。
しかし、ここにきて京都側と、文化庁側とで、本質的な考え方のズレが浮かび上がってきています。

Q、どういうこと?
A、簡単にいうと、京都側は、1日でも早く全面移転を実現させたいと、門を開いて待っているのですが、文化庁側は、国会対応など、一部の重要な部署は出来るだけ多く東京に残しておきたいと考えているのです。つまり、全面的な移転は難しく、割合をどの程度にするのか、今後の課題になってきそうなのです。

Q、どうして、こういうズレが生まれたのでしょうか。
A、そもそも、文化庁に限らず、どこの省庁も、国会対応や予算の交渉があるため、地方移転には二の足を踏んでいました。
また、京都は近くの奈良と共に文化財の宝庫ですけれども、文化行政は、舞台芸術や映画、音楽などの分野も大事で、そうした分野は、東京に本社や中枢機能がある団体が多くあります。
そういう団体からは、「移転されると文化の衰退につながるのではないか」という懸念の声が根強くあるのです。
一方で、文化庁が国会対応することは少なく、東京じゃないとできない仕事はどの程度あるのか、その中身が国民には分かりづらいという意見もあります。

Q、どうなるのでしょうか。
A、当分、駆け引きは続くと思います。
大事なのは、もっと国民のプラスになる文化行政とは何かという視点です。
しっかりと議論を深め、説得力のある移転の効果が、国民にわかりやすく示されることを期待したいと思います。
(名越 章浩 解説委員)


政治の目的は、経世済民としての経済なのだから、人間の尊厳を最優先としたいものだ。


大きな笑顔の佳き週末を。 感謝

先の大戦後、他県同様に宮城県内にも大東亜戦争で戦死したり仙台空襲等で被災したりして親や保護者を失った戦災孤児が多数いた。そこで宮城県庁は、1947(昭和22)年の児童福祉法に基づきラ・サール会(キリスト教学校修士会)に要請し、翌年に養護施設(旧・孤児院、現・児童養護施設)を東仙台駅近くの七北田丘陵の一部に設置。これが現在のラ・サール・ホームの前身である。ここの出身者として作家の井上ひさし氏はよく知られていて、函館ラ・サール時代には彼の名前をよく耳にした。

彼の戯曲に『天保十二年のシェイクスピア』というシェイクスピア全37作品全ての台詞とシチュエーションをパロディ化し、エロ・暴力・任侠でデフォルメした大作がある。この劇中歌のひとつに「もしもシェイクスピアがいなかったなら」という歌があり、「もしもシェイクスピアがいなかったら、バーンスタインはウェストサイドを作曲できなかったろう」「もしもシェイクスピアがいなかったら、文学博士になりそこなった英文学者がずいぶん出ただろう」「もしもシェイクスピアがいなかったなら、女は弱いなんていう、あんな誤解は生まれなかったろう」などと合唱する。

この流れで『もし、日本という国がなかったら』(集英社インターナショナル 2011・坂野由紀子訳)と題して、「もしも日本がなくなったなら、世界はうんとつまらなくなっているだろう」と語るのは、合衆国出身の作家・翻訳家・劇作家・演出家ロジャー・パルバース氏(1944年生)。彼は井上ひさしの作品に惚れ込んで、彼をオーストラリア国立大学の客員教授として招致するよう運動。 井上作品の英訳も行っている。私たち日本人以上に日本に精通した彼が記した『もし、日本という国がなかったら』がもっと読まれるなら、日本の社会はさらに楽しいものとなるに違いない。
もし、日本という国がなかったら
パルバース氏は、UCLAを政治学専攻で卒業後、ハーバード大学大学院をロシア地域研究専攻で修了。この後、CIAが後ろ盾になっている国際的学生派遣組織・NSA(米国学生協会)の奨学金でワルシャワに留学した。ある日、彼はNSA会長から「いますぐロンドンに行ってほしい」という電話をもらい、ロンドンへ。訳が分からない話なのだが、いつのまにか彼は冷戦下でロシア語とポーランド語を流暢に操るCIAのスパイとしてでっちあげられていた。紆余曲折を経て、彼は1967(昭和42)年秋に初来日し、知人から若泉敬氏(1930〜1996)を紹介される。若泉氏は彼が勤務する京都産業大学の学長・荒木俊馬氏を紹介し、幸運にも(必然的に)、パルバース氏は23歳にしてロシア語とポーランド語の専任講師として迎え入れられるのであった。

若泉敬氏は国際政治学者で、佐藤栄作首相がニクソン大統領と「沖縄核(持込)密約」を締結した時の同行特使。彼は東京大学法学部政治学科在学中の1952(昭和27)年に国連アジア学生会議の日本代表としてインドとビルマを訪問した。1954(昭和29)の大学卒業後に保安庁保安研修所教官となり、1957(昭和32)年にロンドン・スクール・オブ・エコノミクス大学院修了。1960(昭和35)年、ジョンズ・ホプキンス大学高等国際問題研究所(SAIS)に留学し、客員研究員として滞在。マイク・マンスフィールド、ディーン・アチソン、ウォルター・リップマン、ウォルト・ロストウらの日米安保派の人々と交流を持った。1961(昭和36)年より防衛庁防衛研究所所員。1966(昭和41)年、創立に貢献した京都産業大学より法学部教授として招聘された。トインビー博士やハーマン・カーン教授の来日に貢献したコミュニケーターとしても活躍。1994(平成6)年、『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』の上梓後、沖縄県知事・大田昌秀氏宛に「歴史に対して負っている私の重い『結果責任』を取り、国立戦没者墓苑において自裁(自殺)します」(6月23日付)とする遺書を送るも、果たさず。1996(平成8)年7月27日、自著の英語版の完成稿を翻訳協力者に渡し、福井県鯖江市の自宅にて青酸カリで服毒自殺。Speech is silver, silence is gold. (雄弁は銀、沈黙は金。)と言うが、 銀の人生を選択した彼の最期は金であった。

若泉氏は、ともに学びフロンティア精神で立派な大学にしましょうと京都産業大学(京産大)の進運に貢献した。その京産大は、今話題の加計学園とともに、国家戦略特区を活用した獣医学部新設を要望していた。しかしながら、切符を手にしたのは加計学園。「もし、日本という国がなかったら」、湯水の如く税金が使われている事実が知らされることはなかったのではありませんか。田中龍作氏の秀逸なリポートを転載させていただきます。
【加計疑獄】建設費は文科省基準の6倍 アベ友が今治市からボッタクリ 
(田中龍作ジャーナル 2017年7月22日 11:56)
 今治市が上物(校舎建設など)費用の半分を負担する加計学園獣医学部。文科省が定める大学設置基準の6倍もの建設費を計上していたことがわかった。
 「今治加計獣医学部問題を考える会」の黒川敦彦さんが、野党議員を通じて文科省に問い合わせ、判明した。
 加計学園は上物(校舎、設備)費用に192億円を要するとしている。ところが、文科省の認可基準によると、定員160名の場合、最低基準価格は34億1000万円(校舎16億6500万円、設備17億4500万円)。
 つまり加計学園は最低基準価格の5・6倍もの費用を計上しているのだ。
 文科省高等教育局・専門教育課の松永賢誕課長によると最低価格は定められているが、上限はない。
 公金であるため出す方も痛みを感じない。要求する方はナンボでもふっかける。「上限なし」は不正の温床となる。
 今治市は加計学園に求められるままに192億円の半分にあたる96億円を交付する。3月、加計学園から申請があると、今治市は即日決定し即日加計学園に通知した。

 民間企業同士のお金のやりとりであれば、これほど拙速でズサンなことはしないはずだ。
 坪あたりの建築単価は約150万円。これを見ても加計学園獣医学部はべらぼうに高いことがわかる。
 同じ医学系で特区事業の国際医療福祉大学(成田市)の坪単価は88万円だ。
 今治市民が情報公開請求しても、市役所は獣医学部の設計図と見積もりを出さない。理由はこの辺にありそうだ。
 ぼったくる方も悪党だが、いわれるままに出す方も間抜けである。原資は市民の血税なのだから。
    〜終わり〜

参考:愛媛県今治市における大学獣医学部構想


大きな笑顔の佳き日々を。  感謝

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