流れのままに

流れのままに おのが道をゆけ ひたすらに ひたむきに

二〇一八年睦月

先日の日曜日、三人のご夫人たちとランチを楽しませていただきました。みなさん、相手に興味を持ち、傾聴する姿勢を大切になさっています。Martha夫人は慎み深く、彼女の求道心は内なるしじまと向き合っている。Misha夫人は思いやりある優しさで、縁ある人々に氣運と機運を知らす(シラス)。Chris夫人は好奇心のヴォルケイノ、彼女の真理への探究心は流れのままに上昇中。三夫人は、喜びを以てご縁のある方々を各々のスタイルでサポートなさっています。2時間ほどのこの会食では、愉快に時が流れました。Martha夫人が『古事記』のカタカナ読み下し文を音読なさっているのを知り、尊いことだと感じました。三夫人に感謝の念を、そして読者の皆さんへ誠意を以て『古事記(ふることふみ)』についてお伝えします。

『古事記』は、全文が祝詞(のりと)そのもの。神さまに奉(たてまつ)る祈りの言葉。神社で奏(そう)される、数々の祝詞の内容が全て記された原文です。だから、『古事記』を音読するのは祝詞を上げることと同じこと。大和言葉(やまとことば)で記されたこの書には、源日本人の持つリズムが、1300年近く前の音が、残されているのです。『古事記』を音読することで、『古事記』が編纂された時代または神代にタイム・リープ(時間跳躍)することができそうです。
ふることふみ@倉野憲司
名著:倉野憲司博士の『日本古典文学大系〈第1〉古事記祝詞』(1958年)

元明天皇(707〜715)の代、詔(みことのり)により太朝臣安萬侶(おほのあそみやすまろ;太安万侶(おおのやすまろ))は、稗田阿礼(ひえだのあれ)が「誦習」(※注1)していた『帝皇日継』(天皇の系譜)と『先代旧辞』(古い伝承)を筆録。それを『古事記』として編纂し、712(和銅5)年に献上しました。確認できる日本最古の歴史書で、上つ巻(序・神話)・中つ巻(初代から十五代天皇まで)・下つ巻(第十六代から三十三代天皇まで)の全3巻よりなっています。原本は存在しませんが、後世の写本の古事記の序文に書かれた和銅年及び月日によって、年代を知ることができます。『古事記』に登場する神々は多くの神社で祭神として祀(まつ)られ、今日に至るまで日本の民衆の精神に大きな影響を与えています。『古事記』は全てが大和言葉(和語)なので、漢音は存在しません。ですから「古事記」を“こじき”と漢音で呼よぶのも良いですが、大和言葉で“ふることふみ”と呼ぶのが自然だと感じます。江戸時代の本居宣長が「古事記」の訓読みとして“フルコトブミ”とカタカナで示したことがありましたが、それは伝播(でんぱ)しませんでした。

(※注1)かつて「誦習」は、単に「暗誦」することと考えられていましたが、小島憲之(『上代日本文学と中国文学 上』塙書房)や西宮一民(「古事記行文私解」『古事記年報』15)らの研究で、「文字資料の読み方に習熟する行為」であったことが確かめられています。なお、稗田阿礼に神が懸かったとする説があり、神代の息吹がそのままに保存されている「言靈(ことたま)の書」として『古事記』を見極めることもできそうです。(以上)

かつては古事記原文とその読み下し文は、声を出して音読して読まれることがありませんでした。記紀(『古事記』と『日本書紀』)は、天皇家の書・雲上人の書であり、帝国大学の秀逸な学者のみが「黙読」で研究することを許されていたのです。記紀は天皇と同じように神格化されていた模様。先の大戦後に『古事記』と『日本書紀』が岩波書店から書物となって公開された時点でも、黙読のマナーは継承され、声に出して音読するという風ではありませんでした。明治という時代につくられた新しい伝統は、古事記の音靈(おとたま)を封印し続けたのです。

ところで、国文学者の倉野憲司博士(1902〜1991)は本居宣長の全44巻の註釈書『古事記傳』を「古事記研究史上に永久不滅の偉大なる足跡を残した」と、宣長の功績を高評価しています。しかしながら、博士は1940年〜1942年に刊行の『古事記伝(1)〜(4)』(岩波文庫)の解説に、学者としての矜恃(きょうじ)を以て、以下のように記すのでした。
子細に検討すると、不十分・不徹底の点が少なくない。すなわち宣長の文献学研究においては、自己の学問を皇国学として絶対的なものと考え、その結果古代の客観的解明がやがて主観的な主張となって現れて来ているのである。この論理的矛盾は、彼の偏狭なる国粋主義と神秘主義とに煩わされた結果として生じたものであって、そこに彼の弱点があると考えられる。本文批評においても(中略)不十分な点が多く、同時に首肯しがたい故意の作為を敢えてしている箇所も二・三にとどまらない。

このようなことを書いて出版したなら国賊及び非国民として処罰を受けかねない時代(※注2)に、天皇を神とする神国的発想には注意が必要だとする発言に博士の勇氣を感じます。天皇を神にすることで利益を得ていた者たちとは才を異にした学者です。

(※注2)大日本帝国政府は、1940(昭和15)年2月10日に津田左右吉(1873〜1961)の『古事記及び日本書紀の研究』『神代史の研究』『日本上代史研究』『上代日本の社会及思想』の4冊を発売禁止処分に。記紀を否定した書物と誤解されたのです。それは関係者の学力不足によるものだと思います。同年1月に彼は文部省の要求で早稲田大学教授を辞職。津田と出版元の岩波茂雄は同年3月に「皇室の尊厳を冒涜した」として出版法(第26条)違反で起訴され、1942(昭和17)年5月に禁錮3ヶ月、岩波は2ヶ月、ともに執行猶予2年の判決を受けました。(以上)

参照:
『古事記 上巻』(太安万侶著・1870(明治3)年・東京書林 柏悦堂発行)
『古事記 中・下巻」(太安万侶著・1870(明治3)年・東京書林 柏悦堂発行)

流れのままに 「聖母」(2014年06月01日)
流れのままに 「しらす」(2014年08月28日)
流れのままに 「新しい日本の旅」(2015年04月04日)
古事記入門
良書:佐藤寿哉氏の『わかりやすい古事記入門』(日本文芸社・平成2年)
「第三部・『古事記』の全かな表記」(163〜207頁)は、声を出して読む助けとなります。音読の頁を持った日本最初の書だと思います。

(追記)
太安万侶稗田阿礼
伊勢神宮文庫には、約1450年前の物部大連尾輿自身の奉納文や藤原の鎌足・藤原の不比等・源頼朝・源義経等58名の染筆者による99葉の奉納文が保存。奈良時代から江戸時代中期にかけておよそ1000年間に亘り、それぞれの時代のリーダーたちが伊勢神宮へ参拝し、さまざまな思いをこめて奉納したものです。ここには『古事記』を天皇に奏上する4年前に太安麻侶が伊勢神宮に参拝し納めた奉納文(写真)も。神への言葉と時の天皇の表現を二つの古代文字で、そして自分の名前を漢字で記載。興趣が高まるではありませんか。『伊勢神宮の古代文字―ついに現われた幻の奉納文』(丹代貞太郎 小島末喜著・三信孔版・1977年11月刊行)より。

これらの奉納文は、神宮文庫が「かみのみたから」として大切に保管してきたもの。現存のものは明治初年まで伝えられた原本の写しを下敷きにして、久邇宮朝彦親王(1824〜1891)のスタッフが新しい美濃紙に、その輪郭を丁寧に写し取ったものといわれています。しかしながら、書道家・安藤研雪女史の著書『元ひとつ』(絶版)には次の記述があり、『伊勢神宮の古代文字』にあるリーダーたちの奉納文は原本だと思われます。なお、この会食前日の土曜日、三夫人は共に研雪女史にご縁のある書家・川上暢誉(のぶよ)女史の文字の起源やその背後にある深い意味を知るための講演会に参加なさったので、この辺の話しも拝聴したものと思います。暢誉女史は稀に見る人財で、名前の筆跡を修正することで人生が好転することをアドバイスなさっています。
≪第一章 伊勢神宮の古代文字≫
 私は書道家(東京書道院)3代目を継ぎ、普通の文字をお弟子さんと共に 修練していました。
 そんな時、1976年秋天降り日の宮座主...小島末喜氏が歴史学者...坂本弘氏と共に我家に訪れ、大きな巻き紙を広げ、「これは伊勢神宮より出された古代文字である。昭和天皇により、実在人物のお書きになられた奉納文を見せていただける事になりました。そこでお願いがあるのですが、これを至急本に作らなくてはなりませんので虫の喰っているところを直し、美しい文字にし、写真の撮れるようにしていただきたい。」との事。
 私は只、驚くばかりでしたが、私の息子と共にお手伝いをさせていただきました。
 そして1977年11月1日発行となったのが「伊勢神宮の古代文字」だったのであります。
 その時の昭和天皇のメッセージは「この神代文字を表に出したのは、世界の人々に日本の文化の一つとして発表していただきたい。きっと、その実践は世界平和に役立つことであろう。」という事でした。
http://www.kamiyo.org/kamiyo/kensetsu.htmlより引用)

(追記2)
昭和天皇(1901〜1989)は、真珠湾攻撃から一年が経過していた1942(昭和17)年12月に伊勢神宮をご親祭。皇祖天照大神に戦勝を祈願なさいました。戦争終結から3ヵ月を経た1945(昭和20年11月12日)、昭和天皇は再び伊勢神宮をご親祭になり、皇祖天照大神に敗戦を奉告。同年12月15日の神道指令、同月28日の宗教団体法廃止の直前の御幸(みゆき)でした。後年、木下道雄侍従次長に、『戦時後半天候常に我れに幸いせざりしは、非科学的の考え方ながら、伊勢神宮の御援けなかりしが故なりと思う。神宮は軍の神にはあらず平和の神なり。しかるに戦勝祈願をしたり何かしたので御怒りになったのではないか』と語ったといいます。

2016年9月に『昭和天皇実録 第八・第九』(宮内庁編修/東京書籍)の二冊が刊行されました。そこには1945(昭和20)年7月30日に大分県の宇佐神宮、8月2日に福岡県の香椎宮に勅使が派遣されたことが記されています。興味深いのは伊勢神宮ではなく九州に勅使を送り、宣命書(せんみょうがき)により「敵国の撃破と神州の禍患(かかん)の祀除(ばつじょ)を祈念」(『実録 第九』740頁)させたことです。宇佐神宮と香椎宮は神功皇后の三韓征伐に関係のある神社。神功皇后は仲哀天皇の皇后で、応神天皇の母です。聖母(しょうも)とも呼ばれました。仲哀天皇の死後、三韓征伐を指揮し、凱旋後69年間摂政の地位にあったと伝えられています。昭和天皇の母である皇太后(貞明皇后:1884年6月25日〜1951年5月17日)は、1922(大正11)年3月に九州北部を詣で、香椎宮で神功皇后の靈と感応なさったといいます。もしかすると、昭和天皇は戦争末期まで皇太后のご意向を氣にされていたのかもしれません。皇太后が聖武天皇の皇后で民衆救済のため悲田院や施薬院を作ったことで知られる光明皇后の靈と感応なさっていたら、私たちは異なった日本の歴史の中に生きているかもしれません。(参考:原武史著『皇后考』・講談社・2015年; 「『昭和天皇実録』に 秘められた真実」(原武史氏と浅見雅男氏の対談・週刊読書人ウェブ2017年1月6日)(以上)


今、明治150年を回顧して、その歴史的事実について、常に厳しい反省を重ねると同時に将来を展望し、わが日本の進路に、誤りなきを期すことを心に銘じなければなりません。国民の幸福と世界平和の実現という高い理想に向けて、最善の努力を致すべく、ここに決意を新たにしようではありませんか。私たち日本の民衆は、いつでも「つくしのひむかの たちはなのおどの あはぎはら(筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原)」において御禊祓(みそぎはら)いを行い、身も心も清々しくなって、己が愛(=命=神)を知り、一切を愛し、一切を許すことができるのですから。


楽しみいただけましたでしょうか。
大きな笑顔の佳き日々を。  感謝


(追記3)
 心理学者の河合隼雄博士(1928〜2007)は、日本ウソツキクラブ会長を自称し、「うそは常備薬、真実は劇薬」という迷言を残した面白い人物であった。彼の秀逸な著作に『中空構造日本の深層』(中公叢書 1982 / 中公文庫 1999)があります。
 彼の問題意識は、ヨーロッパで心理療法をマスターして帰国し、それを臨床に活かすも、ある程度は効能はあるものの肝心のところが日本人にはあてはまらないというところから始まるのでした。なぜか。日本人の心のありかたが西洋人とは異なっているからではないのだろうか。そこで、日本人全体の心の深層構造を知るべく探究する中、日本神話に出会ったのでした。
 河合博士が注目したのは、『古事記』の冒頭に登場する三神の高皇産靈神(タカミムスビカミ)・天之御中主神(アメノミナカヌシカミ)・神皇産靈神(カミムスビカミ)の天之御中主神と、伊耶那岐命(イザナギ)と伊耶那美命(イザナミ)が生んだ三貴神天照大御神(アマテラス)・月読命(ツクヨミ)・素盞嗚尊(スサノオ)のうちの月読命とが、「無為の中心」としてしか記されていないこと。また、天孫・邇邇芸命(ニニギノミコト)と木花咲耶姫神(コノハナサクヤヒメ)の間に生まれた三神は、海幸彦こと火照命(ホデリノミコト)・火須勢理命(ホスセリノミコト)・山幸彦こと火遠理命(ホオリノミコト)ですが、兄と弟の海幸・山幸のことはよく知られているにもかかわらず、真ん中の火須勢理命のストーリーは見られない。互いに対立する神々の中間に何の活動もしない「無為の中心」とでも呼ぶべき神が存在すると分析。そして彼は日本神話は「中空構造」をもって成立しているのではないかと推理して、『古事記』の叙述にひそむ神話的中空構造こそが日本人の心そして日本の社会構造や文化構造を理解するためのプロトタイプ的カテゴリーであると考えたのです。
 「中空構造日本の危機」では、中空の空性がエネルギーの充満したものとして存在する(無であって有である状態の)時には有効だが、中空が文字通りの無となる時は「誰しも強力な中心を望む」のであり「何ものかによる中心への侵入を受けやすい構造」と指摘。校内暴力や家庭内暴力の原因として父性の弱さを持ちだし、解決策として「父権復興」を叫ぶことの問題の本質をクリスタライズしてくれました。
 
今どきの弱い、あるいは身勝手な若者を徴兵によって「鍛えてもらおう」などと考えている人は、自らの父親の強さを持つことを放棄し、それを集団にまかせようとする、極めて母性的な発想を抱いているのである。このことは、われわれ臨床家が常に経験するところであり、自分の子供を「厳しく鍛え直す」ことを主張する多くの親は、それを自らがやる意志はなく、他人にゆだねようとする姿勢を示し、その弱さゆえにこそ子供の強烈な反発を引き起こしているのに気づかないのである。このようなことに気づかずに、父権復興のかけ声にのせられ−かけ声に乗ることがそもそも父性の弱さを意味するのだが−あわてて徴兵制復活などをするならば、日本の誇る中空性の中央に、低劣な父性、あるいは母性に奉仕する父性の進入を許すことになり、戦争中の愚を繰り返すことになるのみであろう。(文庫版66〜67頁)

 本書を紐解くことをお勧めします。(以上)

(おまけ1)

古事記の宇宙
(おまけ2)

(おまけ3)

(おまけ4)
NPO(特定非営利活動)法人 地球ことば村・世界言語博物館のサイト内に世界の文字についての考察があり、古代から現代までのさまざまな言語と文字を知ることができる。次の三文字の考察は特に面白かったので、ピックアップしました。クリックしてお楽しみください。
→ 神代文字
→ エジプト神官文字 Egyptian Hieratic
→ これは文字ではない ― 「手宮の古代文字」

昨日27日の深夜零時15分からNHK BS プレミアムで『二十四時間の情事』を27年ぶりに観た。アラン・レネ監督、マルグリット・デュラス脚本による日本・フランス合作映画。合衆国軍の原爆投下によって家族を全て失った日本人男性役は岡田英次(1920年6月13日〜1995年9月14日)。そして故郷ヌヴェールでナチスの将校と恋仲だったが、戦後に周囲から糾弾や迫害を受けた過去を持っていたフランス人女性をエマニュエル・リヴァ(1927年2月24日〜2017年1月27日)が好演している。奇しくも、昨日は彼女の命日。

この作品では、フランス人女性は、少しずつゆっくりと、十数年の歳月をかけて、己が命(=愛=Mon Amore)が花開くのを待っている。その時をひたすら待っている。さっぱりと、わだかまりなく、平静にありのままを素直に受け入れることができるようになるまで待ったのであった。自分を乗り越えることに焦る必要はない、と教てくれる。

参照:流れのままに『二十四時間の情事』 Hiroshima Mon Amore(2004年10月24日)
Hiroshima mon amour

21日(日曜日)の午後8時ころに江戸っ子のUちゃんから「西部さん、どうしちゃったんですかね?」とショートメールがあった。「西部邁さんですか。今、見かけませんが。変な感じでしたか?」と返信。しばらくして以下のニュースが眼に入ってきた。1983年1月3日に合衆国政府よりペルソナ・ノン・グラータを受けた中川一郎(1925年3月9日〜1983年1月9日)⇒2009年10月16日の「哀惜の会」(帯広市・北海道ホテル)で麻生太郎氏から『我々は、中川先生の遺志を継ぐ義務と責任がある。「死せる中川生ける保守を走らす」。これが貴方が最も望んでいることだろう。残された我々は、歯を食いしばって頑張る。 』と情緒ある言葉を贈られた中川昭一(1953年7月19日〜2009年10月3日)⇒西部邁(1939年3月15日〜2018年1月21日)と北海道に縁ある愛国者たちは変死の系譜をたどる。
西部邁さん死去 多摩川で入水自殺か 78歳、遺書残し
(毎日新聞2018年1月21日 19時45分(最終更新 1月22日 00時08分))
 21日午前7時ごろ、東京都大田区田園調布5の多摩川で、世田谷区の評論家、西部邁(にしべ・すすむ)さん(78)が倒れて浮かんでいるのを、「父が河原から飛び込んだ」との110番で駆け付けた警視庁田園調布署員が発見した。西部さんは意識がなく、搬送先の病院で死亡が確認された。
 同署によると、通報者は西部さんの長男(48)で、西部さんが自宅からいなくなったため、同日未明に警視庁に捜索願を出すとともに、行方を捜していたという。身元は長男が確認した。
 西部さんに目立った外傷はなく、現場付近には遺書とみられるメモが残されていたことなどから、自殺とみて調べている。
    ◇
 保守派の論客として知られた社会経済学者の西部さんは北海道長万部町生まれ。東大大学院修了。1960年日米安保反対闘争の先頭に立つが、最終的に左翼と決別した。
 米英に留学し、横浜国大助教授などを経て東大教授。大衆社会批判、対米追従批判を軸に、幅広い評論活動を開始する。英国の思想家エドマンド・バーク流の保守主義者として不完全な人間の現実を見つめ、歴史的な慣習とそこから導かれる伝統の意義を説いた。
 88年、人事をめぐる対立を機に東大を辞職。秀明大学頭などを務める傍ら、94年から「真正保守」をうたう月刊誌「発言者」(後に「表現者」)の主幹として、雑誌名を冠した私塾を開く。討論番組「朝まで生テレビ!」などに出演。サントリー学芸賞の選考委員も務め、2010〜13年には毎日新聞「異論反論」欄を他の執筆者と共に担当した。
 「経済倫理学序説」(吉野作造賞)、「生まじめな戯れ」(サントリー学芸賞)、「サンチョ・キホーテの旅」(芸術選奨文部科学大臣賞)のほか「大衆への反逆」「六〇年安保 センチメンタル・ジャーニー」「妻と僕」など著書多数。【稲垣衆史、鈴木英生】

これから先も仕事があったというのに・・・。彼の絶望は、妻を亡くした時から始まったのだろうか。不偏不党で一人法師(ひとりぼっち)いられるほど、六〇年安保世代は強くはなかったのか。新たなパートナーと夫婦の結びつきを再生できたなら、彼は絶望の淵に追い込まれなかったと思う。自分の人生の目的を持つと同時に、死んだら行くところを考えることができたなら、暗闇(darkness)に自らを葬る必要はなかったに違いない・・・。
西部邁ゼミナールnishibe_title_201604


安倍首相は「真の保守」ではない!西部邁氏が迷走政治を一刀両断
(2017.10.3 ダイヤモンド・オンライン編集部)
長らく一強と言われながらも、ここに来て迷走気味の安倍政権。自他共に認める「保守」のリーダーシップは揺らいでいるように思える。一方で、今の政治には保守に対する明確な対立軸もない。にわか新党ブームの中で行われる大義なき解散総選挙を経ても、理想的な政治秩序が生まれるとは考えにくい。内憂外患の日本はいったいどこへ向かっているのか。保守派の論客として名高い西部邁氏が、今の政治や本来の保守の在り方について、想いを語った。自身の集大成となる新著『ファシスタたらんとした者』(中央公論新社)を上梓した西部氏が、保守の意味を取り違えた人々に送る最後の警鐘である。(聞き手/ダイヤモンド・オンライン 小尾拓也、まとめ/ライター 大西洋平)
日本において「保守」の意味が
ここまで誤解されている嘆かわしさ

西部邁――安倍政権は国民から保守志向が強い政権と思われており、安倍首相自身も保守を自認しています。ここに来て、「一強」と言われた支持率は以前より低下。外交では米中韓との駆け引きに振り回される上、足もとでは北朝鮮の脅威も増大、国内では森友・加計学園問題が噴出するなど、まさに内憂外患の状態です。最近では、「そもそも安倍首相を真の保守と言えるのか」という疑問の声も聞こえます。保守の論客として、西部さんは今の安倍政権をどう評価していますか。
 口にするのも辟易してしまうような論点ですね。残念ながら、日本は保守という言葉の意味をきちんと理解しようとしない人ばかりのように思える。私はそうした人々に憤りを込めて、あえて「ジャップ」と呼んでいます。保守は一般に思われているように、「現状を維持する」という意味では決してありません。
 本来の保守とは、その国のトラディション(伝統)を守ることです。近代保守思想の始祖とされるエドマンド・バークは、「保守するために改革(Reform)せよ」と説いています。現状が伝統から大きく逸脱していれば、改革を断行するのが保守なのです。
 そして伝統とは、その国の歴史が残してきた慣習そのものではなく、その中に内包されている平衡感覚のことを意味している。とかく人間の意見は左右に散らばって対立するものであり、そういった分裂を危機と呼ぶなら、時代は常に危機に晒されていると言えるでしょう。
 そうした状況下において、いかに平衡を保つかが問われているのです。ドイツの実存主義者であるカール・ヤスパース曰く、「人間は屋根の上に立つ存在」で、油断すればすぐに足を滑らせて転落しかねません。
 もっと極端に言えば、綱渡りのようなもの。1本の綱の上を歩くという危機に満ちた作業こそ、人間が生きていくということです。こうした平衡術は、凡庸な学者が考えた理屈から生み出されるものではありません。歴史という紆余曲折の経験の中から、曲芸師的に対処するための知恵のような感覚、あるいは言葉遣いや振る舞いを習得していくのです。
 常に状況は新しいわけだから、それは処方箋ではあり得ません。対処法を示唆してくれる存在として、伝統というものがある。だから、悪習と良習を区別しながらも、伝統を壊してはならないと考えるのが保守主義です。

安倍首相は保守ではなかった
社会の方向性が見えていない

 こうした定義に照らし合わせると、安倍首相は最初から保守ではなかったわけです。実は第一次安倍政権が退陣した後、世間から総バッシングを受ける中で、僕だけは彼に手を差し伸べた。1年間にわたって毎月1回のペースで「保守とは何か?」というテーマの勉強会を開催して励ましたのです。
 ただ、第二次安倍政権が発足してからは一度だけ食事をともにしただけで、意識的に距離を置くようにしています。
だって、政治になんて関わりたくないし、もともと安倍さんには特に悪意を抱いていない一方で、特別に期待もしていないから。
 ただ、アベノミクスにおいて、安倍政権が国土強靱化をはじめとするインフラ投資に躍起になっていることは嘆かわしい。あまりにも近視眼的で、ただ橋を何本つくり替えるとかいった施策を進めているだけに過ぎないからです。国のインフラ(下部構造)を整備するに当たっては、まずはスープラ(上部構造=日本社会の今後の方向性)についてしっかりと議論することが大前提。しかし、それがまったく欠如しているのが実情です。

 これで保守と言えるのでしょうか。


米国の実像は左翼国家
実はロシアと二卵性双生児

――確かに、安倍政権がどうのという前に、ほとんどの日本人は保守という言葉をそのように受けとめていませんね。では、ほとんどの国民が捉え違いをしているとしたら、その中で安倍政権はどんな方向へ進もうとしているのでしょうか?
西部邁2 今の安倍さんがやっていることは、まさに「米国べったり」。どうして保守がそのような振る舞いができるのかは甚だ疑問だし、大問題であると僕は考えています。僕は何十年も前から指摘し続けてきたけれど、結論から言うと米国は「左翼国家」なのです。
 そもそも左翼とは、フランス革命期に急進的なジャコバン派が国民公会で左側に座って「自由、平等、博愛」と唱えたことがその由来となっている。彼らは「理性を宗教とせよ」とも訴えており、いわゆる合理を意味します。そして、これらを実践するために、旧体制を急速に破壊せよと扇動したわけです。
 その直前には米国の独立戦争も勃発しており、これに勝利した同国が制定した憲法も「自由、平等、博愛、合理」を掲げ、ジャコバン派の思想とほとんど変わらない。古いものは悪いもので、新しいものは良いものだというジャコバン派の考えに近いのです。
 それでも建国当初の米国には、欧州出身の上流階級による保守主義が存在していました。しかし、19世紀前半にジャクソン大統領によるジャクソニアンデモクラシー(自立と平等を理念とする草の根民主主義)が台頭し、米国は自らを欧州から完全に切り離してしまった。こうして歴史が寸断されたわけなので、平衡術を学びようがありません。
 にもかかわらず、戦後のジャップが犯した大きな間違いは、「米国側につくのが保守でソ連側につくのが革新だ」という政治の構図で物事を捉えるようになったことです。米国はそんな状況だし、一方のロシアには歴史があったものの、大革命によって徹底的な破壊が加えられたため、こちらも歴史が寸断されてしまった。
 どちらも歴史から学べない左翼であるという意味で、米国とロシアは二卵性双生児なのです。そのような両国が対立したのは、米国が個人主義的な方向で変化を起こそうとしたのに対し、ソ連は共産党の集団主義的な指導のもとでそれを推進しようとしたからです。
 要するに、「どちらが中核で革マルなのか」といった程度の違いにすぎず、米国もロシアも言わば左翼同士の内ゲバ、もしくは内紛を繰り広げてきただけの話。こうした背景を知らないまま、ジャップは長く保守と革新の意味を捉え違えてきました。
 繰り返しになるけれど、今の安倍政権なんて、保守とはまったく何の関係もない。それなのに安倍首相は日米が100%の軍事同盟関係にあると悦に入る始末で、戦後の日本人の愚かさ加減がにじみ出ていると言えるでしょう。


世間はポピュリズムと
ポピュラリズムを混同している

――米国べったりと言えば、日米軍事同盟やわが国の安全保障の在り方については、北朝鮮情勢の緊迫化などを機に、改めてスポットが当てられていますね。
 そもそも、治外法権となっている外国の軍隊の基地が国内にあり、憲法さえ他国からあてがわれた日本が、独立国であるはずがない。カーター政権下で安全保障問題を担当したブレジンスキー大統領補佐官(当時)が断言したように、日本は米国の保護領であるのが実態。自治領で大統領選挙の投票権は持たないプエルトリコと変わらない立場にすぎないでしょう。
 集団的自衛権にしても、本当に日本を米国に守らせたいなら、相応の対処が求められます。米国は自国に実害が及びそうなら守ってくれるけれど、そうでなければ動いてはくれません。
 まずは、日本が個別的自衛でもって、ギリギリのところまでは自力で頑張るという姿勢を示す必要がある。すなわち、「日本も核武装を行うべきかどうか」が議論になっても当然にもかかわらず、ずっとタブー視され続けてきました。
 日米安保には双務性があると言われるが、相手側にそれを果たしてもらうためには、自分自身にも実力がなければならない。それは自衛力のみならず、外交力や政治力も含めてです。


―― 一方で世界に目を転じると、米国で保守色が強いトランプ大統領が誕生し、欧州でも極右政党が躍進台頭するといった動きは、第二次世界大戦前夜のポピュリズム台頭を彷彿させるとの見解もよく耳にします。こうした言説をどう見ますか。
 愚かなジャップは、ポピュリズムの本来の意味さえ誤解しているようですね。ポピュリズムのルーツを遡ると、1891年に米国のシカゴで農民たちによって結成された政党「人民党」(Populist Party)に辿り着きます。
 ニューヨークの金融市場に牛耳られるようになって農産物の価格が下がり、不満を抱えた農民たちが立ち上がったのです。ポピュリズムはグレンジャー(農民)運動とも呼ばれ、本来は真っ当な抵抗運動だった。ところが、いつの間にか世間では、「ポピュリズム=大衆迎合主義」などいった解釈がなされるようになっています。
 そこで、僕は何十年も前から、「大衆迎合主義のことをポピュリズムと呼ぶな! 要は人気主義なのだから、ポピュラリズムと呼べ!」と訴え続けてきたわけです。
 この「ポピュラリズム」か否かということで言えば、トランプはもちろん、日本はずっと前からその典型例であると言えるでしょう。今の政治活動に日本人の生活欲求が反映されているとはとても思えない状況で、ほとんどの大衆は折々のムードに流されて付和雷同的にワーキャーと騒ぎ立てているだけなので。
 太平洋戦争にしても、実はそれを引き起こしたのは日本の人民。軍部、特に海軍はうかつに開戦するとヤバイということを承知していたけれど、朝日新聞や日本放送協会(NHK)にも扇動されて、人民たちが一丸となって囃し立てた結果、あんなことになった。あれこそ、まさしくポピュラリズムでしょう。


変革で失うものは確実、
得るものは不確実

――では、保守の対極に位置する左翼(革新派)について、西部さんはどのように捉えてきたのでしょうか。
 左翼が掲げる「革新主義」(Progressivism)とは、変化を起こせば何かよきものが生まれる、との考えに基づいています。これに対して英国の政治哲学者であるマイケル・オークショットは、「変化によって得るものは不確実だが、変化によって失うものは確実」と指摘しました。
西部邁3 たとえば、離婚すれば妻を失いますが、新たな妻をめとることができるか、めとったとしても離婚した妻よりましなのかは定かではない。失うのは確実ですが、新しく得るものは不確実であるだけに、「変化に対しては常に注意深くあれ」とオークショットは説きました。変化を拒めという意味合いではなく、変化したからといって確実によくなるとは限らないのだから、いたずらに舞い上がるな、と諫めたわけです。ロシア革命や毛沢東の所業も然りで、多くの歴史がそのことを裏付けている。
 結局、「人間は素晴らしい」というヒューマニズムが革新主義の原点にありそうです。大多数が求めている方向に変化を起こせば、人間は本来の素晴らしき姿に近づいていくという発想で、要はフランス革命期に唱えられたペルフェクティビリティ(完成可能性)。「人間は欲することに沿って変化を続けていけばやがて完成に至る」というのです。


戦後の日本には
革新派しか存在してこなかった

 しかしながら、僕は人間が素晴らしいとはこれっぽっちも思っていない。人間なんてロクなものではないと自覚する力を備えていることがせめてもの救いであって、性善であるのはせいぜいその分だけです。
 ましてや、ペルフェクティビリティ(完成可能性)なんておこがましい話です。完成してしまうと、人間は神と化すわけだから。ニーチェは「神は死んだ。人間が神を殺したのだ」と記しているけれども……。ともかく、己の顔を鏡に映せば、とても完成可能性があるとは思えないはず。保守派の見解のほうが正しいのです。
 ところが、戦後の日本には革新派しか存在してこなかったのが現実だった。左翼のみならず、自民党さえも革新という言葉を口にしてきたのです。おそらく日本では、変化によって一新させることがよきものだと思い込まれてきたのでしょう。
 みなさんがたは、「リボルーション」(Revolution)の真意をご存じですか? 「革命」と訳されているが、「再び(Re)」と「巡り来る(volute)」が組み合わさった言葉で、「古くよき知恵を再び巡らせて現代に有効活用する」というのが本来の意味です。愚かなことに現代人は、いまだかつてない新しいことをやるのがリボルーションだと解釈してしまった。
 維新という言葉にしても、孔子がまとめた「詩経」の一節「周雖旧邦 其命維新(周は古い国だが、その命〈治世〉は再び新たに生かせる)」を引用したもの。改革(Reform)も然りで、本来の形式を取り戻すというのが真意なのです。


自分の中にはずっと
ファシスモが蠢いていた 

――最近上梓された著書『ファシスタたらんとした者』によると、ファシスタ(ファシスト)については必ずしも政治的な意味合いではなく、西部さんの経験や理念を束ねていくという意味合いで用いられていますね。西部さんにとって「ファシスタ」とはどんな概念ですか。
 そもそも「ファッショ」という言葉には、束ねる、団結するという意味がある。この世に生まれ、他者と気心を通じたいと考える僕は、自然とファシスタになろうとしていたわけです。その願いが実現されたことは一度もなかったけれど、自分の中には絶えずファシスモめいたものが蠢いていることを自覚していた。単に「保守派に属する者」という位置づけではなく、もっと広い意味でのファッショが、これまでの自分の活動の根底にあった、ということです。
 誤解されたくなかったし、関心もなかったから、あの本の中では政治的なことにはほとんど触れていません。ただ僕は、1920〜1930年代にあれだけ資本主義が暴走してアングロサクソンたちがやりたい放題をやった挙げ句、どうなったのかということについて振り返ってみたかった。
 暴走の最たる例は、第一次世界大戦の戦勝国が、ドイツに対して当時の同国のGNP(国民総生産)の20倍に及ぶ賠償金を要求したこと。その結果としてドイツがハイパーインフレに陥れば、アドルフ・ヒトラーのような人間が出てくるのは当たり前です。
 米国にしても、フランクリン・ルーズベルト大統領のニューディール政策が「公共投資でしか消費は生み出せない」と唱えているように、社会主義への傾倒ぶりが顕著だった。当時の知的水準では、自由主義、資本主義が限界に到達すれば、社会主義に進んでいくのはごく自然のことだったわけです。
 その一方で、イタリアにおいては「束ねる(団結する)」を語源とするファシズムが活発化しました。ヒトラーが先導したナチズムは合理的に国家を設計するという社会主義的な色彩が濃かったのに対し、ファッショはもっとロマンチックに「ローマの栄光を取り戻そう」という思想に基づいたものです。
 もちろん、実際のファシスタにはゴロツキと呼ばれる手合いも少なからず加わっていたし、よく考えもせずに酷いことをしでかしたのも事実。しかしながら、当時の資本主義の滅茶苦茶ぶりからすれば起こるべくして起こったことで、デモクラシーの中から生まれたものでもあります。


西部 邁(にしべ・すすむ)/評論家、雑誌『表現者』顧問。1939年生まれ。北海道出身。東大経済学部卒。専攻は社会経済学。元経済学者、元東京大学教養学部教授、雑誌『北の発言』元編集長。保守派の論客として知られる。『経済倫理学序説』で吉野作造賞、『生まじめな戯れ』でサントリー学芸賞。著書に『六〇年安保―センチメンタル・ジャーニー―』『妻と僕―寓話と化す我らの死―』『ファシスタたらんとした者』など

参考: 流れのままに 「事故死と変死の違い」(2010年08月03日)


無事の昇天を願って止みません。
中川一郎_Nakagawa_,19820623_cropped中川昭一Shoichi_Nakagawa

(追記)
評論家 西部邁さん 自殺手助けの疑い 出演番組担当者ら逮捕
(NHK 4月5日 23時42分)
 評論家の西部邁さんが、ことし1月、東京の多摩川で自殺した際に手助けをしたとして、警視庁は西部さんが出演していたテレビ番組を担当していたディレクターら2人を、自殺ほう助の疑いで逮捕しました。
 ことし1月東京 大田区の多摩川で評論家の西部邁さんが、意識不明の状態で見つかりその後死亡しました。現場に遺書が残されていたことなどから警視庁は自殺とみています。
 その後の調べで、西部さんは手が不自由だったにもかかわらず体と近くの木がロープで結ばれているなどの不審な点があったことから、警視庁は何者かが自殺を手助けをした疑いがあるとして捜査していました。
 その結果、西部さんが出演していた東京メトロポリタンテレビジョン=TOKYO MXの番組を担当していた子会社のディレクターの窪田哲学容疑者(45)と、西部さんの知人で会社員の青山忠司容疑者(54)が手助けしたとして自殺ほう助の疑いで逮捕しました。
 警視庁によりますといずれも容疑を認め、窪田容疑者は「西部先生の死生観を尊重して力になりたいと思った」などと供述しているということです。
 警視庁は今後、当時の詳しいいきさつなどを調べることにしています。

著書で「死」の記述
 西部さんは、晩年に出版した著書の中で死に対する持論を繰り返し展開していました。去年刊行した著書では4年前に妻を亡くし、みずからの死を強く意識するようになったとしたうえで、「おのれの生の最期を他人に命令されたり弄り回されたくない」と自分の死に対する考え方を記していました。
 死後となることし2月に刊行された「保守の遺言」という著書では、これまで自殺の準備に3度、取り組み頓挫したことなどを明らかにし、あとがきで家族などに対して「僕流の『生き方としての死に方』に同意はおろか理解もしてもらえないとわきまえつつも、このあとがきの場を借りてグッドバイそしてグッドラックといわせていただきたい」と締めくくっていました。

西部邁自殺 警視庁が事件性の疑いで再捜査
(2018年3月14日 16時0分 文春オンライン)
 今年1月21日に多摩川で入水自殺を遂げた評論家の西部邁氏(享年78)。西部氏の死をめぐって、警視庁捜査一課が再捜査に動き始めたことが「週刊文春」の取材で分かった。
 
「事件当初、警視庁田園調布署は、現場に遺書が残されていたことから自殺と判断しました。しかし、その後、いくつもの不可解な点が見つかった。自殺を手助けした人物がいる可能性が高いと見て、捜査一課の捜査が続いています」(捜査関係者)

 遺体発見の前夜、西部氏は新宿の行きつけのバーでウォッカを痛飲。深夜11時過ぎ、長女をタクシーで帰した西部氏は7時間後、帰らぬ人となって発見された。
 最大の謎が西部氏の遺体の状況だ。多摩川から引き上げられた遺体は、工事現場用のハーネスで固定され、白いロープが結び付けられていたという。
 西部氏の親族が語る。

「邁さんは手が不自由で、食事をするときは箸ではなくスプーンです。それにシャツのボタンを留められず、長女が手伝っていました。ロープの片側は木に巻きつけられていたといいますが、彼1人でロープを結べるとは思えません」

 捜査一課は“空白の7時間”の解明を進めている。
 3月15日(木)発売の「週刊文春」では、西部氏の遺体や遺書に残された3つの謎、捜査一課の捜査状況などについて詳報している。(「週刊文春」編集部)

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