流れのままに

流れのままに おのが道をゆけ ひたすらに ひたむきに

二〇一八年葉月

話題となっているNHKBS1スペシャル「悪魔の兵器はこうして誕生した〜原爆 科学者たちの心の闇」が、9月5日(水)午後8時00分から再々放映されることになりました。是非ご覧ください。

BS1スペシャル「“悪魔の兵器”はこうして誕生した〜原爆 科学者たちの心の闇〜」
■番組内容
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広島・長崎で多くの命を一瞬にして奪った“悪魔の兵器”原爆。開発は第2次大戦中のアメリカで、ノーベル賞受賞者ら1200人以上のエリート科学者と空前の予算の兵器プロジェクトだった。科学者たちはなぜ原爆開発に参加し大虐殺に突き進んだのか?発掘した証言テープや資料などから浮かび上がったのは、軍や政治家でなく、科学者自身が原爆開発を提案し、積極的に推進し、投下も主張したこと。科学者の深い心の闇、真相は?
■出演者ほか
【語り】松尾スズキ,【声】宗矢樹頼,糸博,樫井笙人
■チャンネル
初2018年8月12日(日)午後10時00分(110分)
再2018年9月5日(水)午後8時00分(110分)
番組スタッフから
BS1スペシャル「"悪魔の兵器"はこうして誕生した 〜原爆 科学者たちの心の闇〜」by鈴木


 取材のきっかけは、去年制作した戦争番組だった。
 第二次世界大戦中に、日本を徹底的に焼(しょう)い弾(だん)空爆したアメリカの空軍幹部たちが、口をそろえてこう証言していた。「日本に対する原爆投下は、軍事的には全く必要のない作戦だった」。それを聞き、大きな疑問を抱いた。じゃあ、いったい誰が、何のために原爆を製造し、日本への投下を推し進めたのか。調べてみると、原爆開発を取り仕切る最高機関の存在が浮かび上がった。

 重要な政策決定を行うのだから、軍人や政治家が名を連ねているのだろうと思っていたが、5人のメンバーのうち、なんと2人が科学者だった。さらに疑問が膨らんだ。なぜ、科学者がこんな最上部の決定に加わっているのか。そして、この科学者は、いったい何者なんだ??…続きはBS1スペシャル「"悪魔の兵器"はこうして誕生した 〜原爆 科学者たちの心の闇〜」by鈴木


閑話休題(それはさておき)


今年の1月19日から外務事務次官となった秋葉剛男氏(1958年12月生)は、『ニュークリア・シェアリング(核共同保有)』に魅せられた方のようだ。2009(平成21)年11月に「憂慮する科学者連合(UCS:Union of Concerned Scientists)」のグレゴリー・カラキー氏と会った際、合衆国は本当に核で日本を守ってくれるだろうかという日本側の懸念を解消する「唯一の方法は、合衆国が日本に合衆国の核兵器をいつ使うかを決める権限を与え、このような『核共有』の取り決めについて北朝鮮と中国の両方に明確に伝えることだ」と述べたそうだ。
参考:
JAPAN AND AMERICA’S NUCLEAR POSTURE(March 2010)
Japan and America’s Nuclear Posture(November 2013)

「核共同保有」という北大西洋条約機構(NATO)の核抑止政策で、29ヵ国のうち5ヵ国(ドイツ・イタリア・ベルギー・オランダ・トルコ)だけは自国内に合衆国が所有する核を配備し、自国のパイロットが核攻撃に参加する制度。NATOの核共同保有が核兵器不拡散条約(NPT:Treaty on the Non-Proliferation of Nuclear Weapons)によって受け入れられている理由は、条約が交渉され、発効した当時すでに存在していたから。しかし、日本との共同保有体制は、わが国と合衆国とがNPTに署名した後での新体制となるのだから、核兵器を「直接または間接に受領しない」ことを定めたNPT第2条に抵触する問題となるだろうし、わが国のNPT加盟国としての地位が有名無実化することになるだろう。そもそも、合衆国は日本へ核兵器を対象近くまで運ぶ技術 ないしはシステムである核兵器運搬手段(Nuclear weapons delivery)を持つことを期待しないと思う。政治家にも核共同保有論者はいて、例えば石破茂衆議院議員(1957年2月生・オフィシャルブログ2017年9月 8日)や河野太郎外務大臣(1963年1月生・オフィシャルブログ2010.01.13)がそうだ。彼らがさらに勉強・研究したなら、「ニュークリア・シェアリング(核共同保有)」を支持しないに違いない。
「沖縄に核施設」容認か 秋葉外務次官の発言メモ 米で09年
(東京新聞2018年3月6日 夕刊)
 【ワシントン=後藤孝好】米国の科学者らで組織する「憂慮する科学者同盟」のグレゴリー・カラキ氏は、オバマ前政権時の二〇〇九年、秋葉剛男駐米公使(現外務事務次官)が米連邦議会からの意見聴取の際、沖縄県への核貯蔵施設の建設の可能性について「説得力がある」と発言をしていたと、明らかにした。発言が事実なら、唯一の被爆国として日本政府が掲げる非核三原則に反する内容で、国内外に波紋を広げる可能性がある。
 米連邦議会の諮問委員会は〇九年二月、オバマ前米政権の核戦略指針「核体制の見直し(NPR)」の策定に向けて、在米日本大使館関係者から意見聴取を実施。カラキ氏が入手した当時の発言概要メモによると、米側から「沖縄かグアムへの核貯蔵施設の建設をどう考えるか」と問われた秋葉氏は「そうした提案は説得力があるように思う」と回答していた。
 秋葉氏は、オバマ前政権が日本側と事前協議をしないで核兵器の削減を進める可能性にも懸念を示していたという。

日本の核削減反対 オバマ政権内で懸念
秋葉氏らの核固執は「日本政府の典型的意見」
当時の核政策担当者が証言

(赤旗 2018年8月28日(火))
 在米日本大使館の秋葉剛男公使(現・外務事務次官)ら日本政府関係者が2009年2月、米議会が設置した諮問機関「戦略態勢委員会」の意見聴取に対し、オバマ前米政権の核兵器削減に反対した問題で、当時同政権で核政策担当者だったジョン・ウォルフスタール氏は本紙の取材に対し、米政府内で日本政府の核固執に対する懸念が示され、対応を協議していたと証言しました。
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 ウォルフスタール氏ら核政策の担当者は、水上発射型核巡航ミサイル・トマホーク(TLAM/N)の退役を決定。オバマ氏もこれを了承しました。
 ところが秋葉氏らがこれに強い懸念を示し、政権内で対応を協議。米国務省と国防総省からは政府の決定について、「もう一度日本側に確認し、対話すべきだ」との意見が出たといいます。オバマ氏も日本政府の懸念を認識していたと述べました。
 秋葉氏らの要望を受け、2010年から始まった米国の「核抑止」に関する公式協議(日米拡大抑止協議)の中で、米側は核戦力ではなく「ミサイル防衛」網の強化を提案。しかし、「日本政府にとって重要ではなかった」として、日本側が否定的な見解を示したことも証言しました。
 ウォルフスタール氏は秋葉氏らの姿勢について、「日本政府高官の典型的な意見であり、米政府高官はみな知っている。日本の安全保障担当者はいつも中国や北朝鮮の脅威をあげ、米国の核に頼り切っている」と苦言を呈しました。
 本紙は戦略態勢委員会の資料を独自に入手し、秋葉氏らが核トマホークの退役に懸念を示し、核弾頭の最新鋭化まで促していたことを明らかにしましたが、こうした経緯がいっそう裏付けられました。
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 ジョン・ウォルフスタール氏の経歴 バイデン前米副大統領の核政策アドバイザー(2009〜12年)、オバマ大統領の核政策担当補佐官(14〜17年)を歴任。現在は、核兵器廃絶を掲げる国際運動団体「グローバル・ゼロ」の「核危機グループ」座長を務める。


色々なことが開かされていく時代になりました。

大きな笑顔の佳き週末を。








 昭和天皇(1901年4月〜1989年1月)は1945年8月14日午前10時に御前会議の開催に先立って元帥会議を召集し、第二総軍司令官・畑俊六元帥陸軍大将(1879年7月〜1962年5月)、第一総軍司令官・杉山元元帥陸軍大将(1880年1月〜1945年9月)、元軍令部総長・永野修身元帥海軍大将(1880年6月〜1947年1月)の3元帥より意見を聴取し、畑元帥の広島の被害状況報告と「担任正面の防御に就ては敵を撃攘し得るといふ確信は遺憾ながらなし」との現状説明を以て本土決戦が不可能なことを再度知らされた。その後の御前会議を経て、大日本帝国政府は1945年8月14日にポツダム宣言を受託し、翌15日に玉音放送により帝国臣民(現・日本の民衆)はそれを知らされた。
 東京大空襲、そして広島・長崎への原爆投下があっても、発狂なさらず、自ら命を絶つこともなさらなかった。9月2日の敗戦でも、自害なさらなかった。この牢乎(ろうこ)たる精神力は、ご幼少の頃からの教育や側近の方々の不屈の貢献があってこそだが、常人の想像を超えた「帝王(帝王学)」のパラメーターを宿された結果であろうか。しかしながら、広島へ原爆を投下された後に速やかにポツダム宣言を受け入れるという判断ができるほどには彼の思考回路は理路整然と機能していなかったに違いない。(加えて、陸海軍の最高指揮官は大元帥たる天皇ただ一人であり、彼を支える軍事スタッフは数名であったのだから、巨大な組織を適切に統帥して、機動できるメカニズムがあったとは言い難い。)
 先の大戦後は、ワシントンD.C.の戦略家により「人間天皇」「象徴天皇」のパラメーターを宿された。そして、1946(昭和21)年1月1日、「新日本建設ニ関スル詔書」を発せられた。この詔書は、まず1868(明治初)年の「五箇条の御誓文」を掲げ、天皇と国民は、「単ナル神話ト伝説」ではなく、「終始相互ノ信頼ト敬愛」によって結ばれていること、天皇を「現御神(あらひとがみ)」とし、日本国民を「他ノ民族ニ優越セル民族」であると考えるのは「架空ナル観念」であるとした。
 惟(おも)フニ長キニ亘レル戦争ノ敗北ニ終リタル結果、我国民ハ動(やや)モスレバ焦躁ニ流レ、失意ノ淵ニ沈淪セントスルノ傾キアリ。詭激(きげき)ノ風漸ク長ジテ道義ノ念頗(すこぶ)ル衰ヘ、為(ため)ニ思想混乱ノ兆(きざし)アルハ洵(まこと)ニ深憂ニ堪ヘズ。
 然レドモ朕ハ爾等(なんじら)国民ト共ニ在リ、常ニ利害ヲ同ジウシ休戚(きゅうせき)ヲ分タント欲ス。朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯(ちゅうたい)ハ、終止相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神(アキツミカミ)トシ且(かつ)日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延(ひい)テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニモ非ズ。

 天皇はこの詔書を発せられた翌月1946(昭和21)年2月の神奈川県の川崎を皮切りに、1954(昭和29)年までに沖縄を除く日本全国を巡行・行幸なさった。GHQは、天皇のあまりの影響力に、1948(昭和23)年になると全国巡幸を中止。その後復活するも、1950〜1952(昭和25〜27)年には再度中止命令を下した。

 最近開かされた元侍従の日記により、昭和天皇ご自身が「辛苦の戦争責任」を吐露なさっていたことがことが分かった。
「長く生きても…戦争責任いわれる」 昭和天皇85歳 大戦苦悩
(東京新聞 2018年8月23日 朝刊)
 昭和天皇が八十五歳だった一九八七(昭和六十二)年四月に、戦争責任を巡る苦悩を漏らしたと元侍従の故小林忍氏の日記に記されていることが分かった。共同通信が二十二日までに日記を入手した。昭和天皇の発言として「仕事を楽にして細く長く生きても仕方がない。辛(つら)いことをみたりきいたりすることが多くなるばかり。兄弟など近親者の不幸にあい、戦争責任のことをいわれる」と記述している。 
 日中戦争や太平洋戦争を経験した昭和天皇が晩年まで戦争責任について気に掛けていた心情が改めて浮き彫りになった。小林氏は昭和天皇の側近として長く務め、日記は昭和後半の重要史料といえる。
 八七年四月七日の欄に「昨夕のこと」と記されており、昭和天皇がこの前日、住まいの皇居・吹上御所で、当直だった小林氏に直接語った場面とみられる。当時、宮内庁は昭和天皇の負担軽減策を検討していた。この年の二月には弟の高松宮に先立たれた。
 小林氏はその場で「戦争責任はごく一部の者がいうだけで国民の大多数はそうではない。戦後の復興から今日の発展をみれば、もう過去の歴史の一こまにすぎない。お気になさることはない」と励ました。
 既に公表されている先輩侍従の故卜部(うらべ)亮吾氏の日記にも、同じ四月七日に「長生きするとろくなことはないとか 小林侍従がおとりなしした」とつづられており、小林氏の記述と符合する。
 日記には昭和天皇がこの時期、具体的にいつ、誰から戦争責任を指摘されたのかについての記述はない。直近では、八六年三月の衆院予算委員会で共産党の衆院議員だった故正森成二氏が「無謀な戦争を始めて日本を転覆寸前まで行かしたのは誰か」と天皇の責任を追及、これを否定する中曽根康弘首相と激しい論争が交わされた。八八年十二月には長崎市長だった故本島等氏が「天皇の戦争責任はあると思う」と発言し、波紋を広げるなど晩年まで度々論争の的になった。
 昭和天皇は、八七年四月二十九日に皇居・宮殿で行われた天皇誕生日の宴会で嘔吐(おうと)し退席。この年の九月に手術をし、一時復調したが八八年九月に吐血して再び倒れ、八九年一月七日に亡くなった。
 小林氏は人事院出身。昭和天皇の侍従になった七四年四月から、側近として務めた香淳皇后が亡くなる二〇〇〇年六月までの二十六年間、ほぼ毎日日記をつづった。共同通信が遺族から日記を預かり、昭和史に詳しい作家の半藤一利氏とノンフィクション作家の保阪正康氏と共に分析した。
<お断り> 「小林忍侍従日記」からの引用、記述部分の表記は、基本的に原文のままとしました。

◆心奥触れる「昭和後半史」
<解説> 昭和天皇の侍従だった故小林忍氏の日記には、晩年まで戦争の影を引きずる天皇の苦悩が克明につづられている。アジアの国を侵略した大日本帝国を率い、太平洋戦争の開戦と敗戦に臨んだ天皇の脳裏に刻まれた記憶が、最期まで頭から離れなかったことが改めて確認できる。貴重な「昭和後半史」だ。
 昭和天皇は「戦前も平和を念願しての外交だった」(一九七五年五月十三日)と吐露したり、「細く長く生きても仕方がない」「戦争責任のことをいわれる」(八七年四月七日)と弱音を漏らしたりしていた。戦時中、学徒動員された二十二歳年下で一侍従の小林氏に信頼を寄せ、胸中を直接、明かした。戦争責任を問う世評に神経をとがらせる内情がにじむ記述だ。
 アジアの国にも配慮を見せている。八〇年五月二十七日の記述には、国賓として来日した中国の華国鋒(かこくほう)首相に「陛下は日中戦争は遺憾であった旨先方におっしゃりたいが、長官、式部官長は今更ということで反対の意向とか」とある。小林氏は昭和天皇の考えに賛意を示すが、幹部が、中国侵略を正当化する右翼の反発を懸念し、封印してしまう。
 戦前の青年将校によるクーデター未遂で閣僚らが犠牲になった「二・二六事件」(三六年)があった二月二十六日は毎年、「慎みの日」としていた記述も多数ある。既に公になっているエピソードだ。「臣下」を失った悲しみは、癒えることはなかった。
 敗戦から七十三年。戦争の記憶が遠くなる中、昭和天皇が晩年、どういう思いで「大戦」に向き合ったのか、心奥に触れる価値ある日記だ。 (共同・三井潔)


閑話休題(それはさておき)

 1975年9月29日号の英語版ニューズウィークに掲載された昭和天皇の単独インタビューは、天皇の訪米直前に皇居で32分間行われた。インタヴュアーは、バーナード・クリッシャー氏(ニューズウィーク東京支局長)。
――陛下はなぜ、アメリカ訪問を希望されるのか。アメリカやアメリカ人に対して、何か特別な感情をもっておられるのか。
 私は(ジェラルド・フォード)大統領閣下の温かいご招待によりアメリカを訪問することになりました。大統領閣下と再び会えるのを楽しみにしていますし、私の訪問で、両国の友好関係が深まるよう希望します。
 アメリカ人は、はっきりした主張をしますが、常に具体的にものを考えていてさっぱりした人たちのように思います。非常に親しみやすい国民だと考えています。


――皇室の伝統が2000年にわたって存続したのは、とくに何が要因だと感じられるか。
 日本の歴史を通じて、皇室が常に国民の安寧を第一に考えてきたからです。

――現代の日本に天皇制は不必要だと考える国民について、どのようにお考えか。
 この国にはさまざまな人がいます。しかし一般的に言えば、国民は皇室に敬意をいだいていると思います。

――陛下の戦前と戦後の役割を比べていただきたい。
 基本的には、戦前も戦後も役割は変わっていないように思います。私は常に憲法にのっとって行動してきただけだと思います。

――戦前、戦中を通じて、陛下は日本の政治指導者と頻繁に会い、当時はかなりの影響力をもっていたといわれる。今も閣僚や政府高官にしばしば会っているが、彼らに対してある程度の影響力をもっているとお考えか。
 戦前も戦後も同じなのですが、私はそういった人たちに会って日本の事情を知ることに努めただけです。影響力があったのか、なかったのかは、第三者の判断にゆだねなければなりません。

――戦争終結にあたって、陛下が重要な役割を果たされたことは広く知られている。日本を戦争に突入させるきっかけとなった政策決定に陛下が関与していたとする意見には、どう答えられるか。
 戦争終結は、私自身が決断しました。首相が閣内の合意を取りつけられず、私の意見を求めたからです。そこで私は、自分の意見を述べただけです。
 開戦のとき、そしてそれ以前も、さまざまな決定は閣議でなされており、私にはその決定を覆すことはできませんでした。これは日本の憲法の規定にのっとったことであると思います。


――人生において、誰から大きな影響を受けられたか。
 いうまでもなく、私は多くの人々に会い、そうした人々から影響を受けてきました。しかし、誰から最も影響を受けたかを指摘するのはとてもむずかしい。歴史上の人物から選べといわれても、その人の子孫に影響があるかもしれませんから、ためらいます。
 しかし、皇族のなかから選ぶとすれば、祖父である明治天皇をあげます。私は祖父の行動を常に心にとめてきました。


――科学者として海洋生物学者として、環境問題の現状、日本や世界に広まっている公害についてどんな意見をおもちか。
 公害にはさまざまな種類があります。とくに取り上げることができるのは石油による汚染です。世界の国々が協力して防止すべきです。人々が注意深く自然に対処すれば、環境を保護し、生命と自然を守ることは可能だと思います。

――これまで最もうれしかったこと、心が痛んだことは?
 最もうれしい思い出は、50年前の欧州視察と、数年前に皇后と再び欧州を訪れたことです。そして今は、アメリカ訪問を楽しみにしています。
 最も悲しかったのは、なんといっても戦争です。


――戦後の日本社会における価値観の変化をどう思われるか。また陛下は、現在の道徳的な価値観について納得しておられるのか。
 昔のほうがよかったかどうかは、むずかしい問題です。昔にも悪いところはあり、現在にもいいところはありますから、すぐには比較できないと思います。いつになっても、理想の時代というのはありえないものです。

――次代の天皇となられる皇太子明仁親王には、天皇の責務に関してどのような助言をされるか。
 皇太子には皇太子なりの意見があるかもしれません。しかし国民の安寧のために行動することが皇室の伝統です。皇太子にもそのような態度を希望します。

――将来は、もっと国民に近い、開かれた皇室になるとお考えか。
 私はそれを常に望んでいます。しかし時勢によって、必ずしもそれは容易ではありません。

――陛下は一日だけ一人の一般人となって、誰にも気づかれずに皇居を抜け出し、好きなことをしたいと考えられたことはあるか。もしそうなら、何をしてみたいか。
 心の底では、それを望んできました。マーク・トウェインの『王子と乞食』のようなものでしょうか。しかし、もしそれが実現したとしても、結末はおそらく物語と同じようなことになるのかもしれません。

――(日本で人気のあった)アメリカのドラマ『刑事コロンボ』を陛下も見るそうだが、どんなところを楽しんでおられるのか。
 時間の都合がつかず、私自身はその番組を見ることはできませんでしたが、一般の国民が非常に楽しんで見たと聞いています。 
https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2016/03/1975.phpより引用

 このインタヴュアーは敗戦の原因を聴くことはなかったが、「昭和天皇実録」(宮内庁刊)によると次の4つを敗因とお考えになっていたことが分かる。立憲君主の天皇には敗戦の原因が無いということを明言なさっている。しかし、天皇が実質的に絶対君主であった場合には責任転嫁と捉えることもできるのだが、学問的に検証される日が来ていると思う。
敗戦の原因は四つあると思ふ。
第一、兵法の研究が不十分であつた事、即孫子の、敵を知り、己をしらねば百戦危うからずといふ根本原理を体得してゐなかったこと。
第二、余りに精神に重きを置き過ぎて科学の力を軽視した事。
第三、陸海軍の不一致。
第四、常識ある首脳者の存在しなかつた事。往年の山県(有朋)、大山(巌)、山本権兵衛、といふ様な大人物に缺け、政戦両略の不十分の点が多く、且軍の首脳者の多くは専門家であって部下統率の力量に缺け、所謂下剋上の状態を招いた事。


 昭和天皇は深く戦争責任を感じていらしたし、今上陛下もそれを感じられている。だからこそ、激戦地を訪れるという慰霊の旅をなさってこられた。このように責任をとられ続けるのが、日本の天皇の姿なのではありませんか。昭和天皇の御辞世は、以下のようなものでした。

  やすらけき 世を祈りしも いまだならず 
  くやしくもあるか きざしみゆれど


この御製は、1988(昭和63)年8月15日に昭和天皇が全国戦没者遺族に御下賜なさったもの。彼は、安らかにならない世の中を「くやしくもある」と嘆かずにはいられなかった。
昭和天皇_

今日は、おおらかな優しい氣持ちで参りましょう。

感謝


(追記)
昭和天皇@軍服

日本共産党委員長の志位和夫氏(1954年7月生:衆議院9期)は以下のようにツイートし、彼の見識を述べた。日本の政党の党首の胆識(勇氣)ある発言だ。当然この発言の陰には彼の歴史学徒としての研鑽とエビデンス(歴史的資料)があると思う。山田朗(1956年12月生)著「昭和天皇の戦争―「昭和天皇実録」に残されたこと・消されたこと」(岩波書店・2017/1/28)、豊下楢彦(1945年生)著「安保条約の成立―吉田外交と天皇外交」(岩波新書・1996/12/20)、吉田裕(1954年11月生)著「昭和天皇の終戦史」(岩波新書・1992/12/21)などを紐解く良い機会である。 それにしても彼のツイートに応える政治家・政治学者・歴史学者・ジャーナリストなどが皆無に等しいのは、日本の知識層が育っていない証左でしょうか。
「『戦争責任言われつらい』晩年の昭和天皇吐露」
昭和天皇は、中国侵略でも対米英開戦決定でも、軍の最高責任者として侵略戦争拡大の方向で積極的に関与した。個々の軍事作戦に指導と命令を与え、戦争末期の45年に入っても戦争継続に固執して惨害を広げた。歴史の事実だ。

A: 日本は独立国ですか。
B: はい。しかし、そうとも言えない側面があります。
A: 独立国なのに外国の軍隊が駐留していることですか。例えば、ソビエト帝国の崩壊後、ウズベキスタンからロシア軍は全面撤退しています。
B: はい。同じ敗戦国のドイツとイタリアにも合衆国軍はいますが、彼らと合衆国軍との地位協定では受入国としてのドイツ・イタリアの国内法が適用されています。加えて、地位協定を幾度も改定し、彼らの主権を協定に入れることに成功しています。
A: 日本政府が、在日合衆国軍の法的地位を定めた日米地位協定の改定または変更を今日までしようとしないのは、最優先事項ではないからですか。
B: 外務省は、『一般国際法上、駐留軍には特別の取決めがない限り受入国の法令は適用されない』との立場を取って私たちに説明してきました。結果、わが日本の国内法を日本の合衆国軍に適用しないことが慣習化して、天然所与の如く受け入れてしまい、誰も口をはさまなくなってしまいました。
A: それは日本の人々が占領体制を望んでいるということでしょうか。
B: 積極的に望んでいる訳ではありません。占領下にあるのだという意識もありません。日本の教育・政治・経済・ジャーナリズムの指導層の怠惰とワシントンD.C.と共に占領政策に対峙するポテンシャルある人財の欠如が原因だと思います。
A: 全国知事会が7月下旬に、日米地位協定の改定を国に求める提言を初めて採択したのは、グッドニュースでしたね。
B: それは、今月の8日に昇天なさった沖縄県の翁長知事が「日本の安全保障は全国的な課題で、国民全体で考えていく必要がある」と発言したのを契機に、全国知事会米軍基地負担に関する研究会が発足し、研究結果をまとめたものでした。次の5つの現状や改善すべき課題を提言しています。
日米安全保障体制は、国民の生命・財産や領土・領海等を守るために重要であるが、米軍基地の存在が、航空機騒音、米軍人等による事件・事故、環境問題等により、基地周辺住民の安全安心を脅かし、基地所在自治体に過大な負担を強いている側面がある。
基地周辺以外においても艦載機やヘリコプターによる飛行訓練等が実施されており、騒音被害や事故に対する住民の不安もあり、訓練ルートや訓練が行われる時期・内容などについて、関係の自治体への事前説明・通告が求められている。
全国的に米軍基地の整理・縮小・返還が進んでいるものの、沖縄県における米軍専用施設の基地面積割合は全国の7割を占め、依然として極めて高い。
日米地位協定は、締結以来一度も改定されておらず、補足協定等により運用改善が図られているものの、国内法の適用や自治体の基地立入権がないなど、我が国にとって、依然として十分とは言えない現況である。
沖縄県の例では、県経済に占める基地関連収入は復帰時に比べ大幅に低下し、返還後の跡地利用に伴う経済効果は基地経済を大きく上回るものとなっており、経済効果の面からも、更なる基地の返還等が求められ
ている。

そして、国に対して、国民の生命・財産や領土・領海等を守る立場から、以下4点について提言しています。
米軍機による低空飛行訓練等については、国の責任で騒音測定器を増やすなど必要な実態調査を行うとともに、訓練ルートや訓練が行われる時期について速やかな事前情報提供を必ず行い、関係自治体や地域住民の不安を払拭した上で実施されるよう、十分な配慮を行うこと
日米地位協定を抜本的に見直し、航空法や環境法令などの国内法を原則として米軍にも適用させることや、事件・事故時の自治体職員の迅速かつ円滑な立入の保障などを明記すること
米軍人等による事件・事故に対し、具体的かつ実効的な防止策を提示し、継続的に取組みを進めること
また、飛行場周辺における航空機騒音規制措置については、周辺住民の実質的な負担軽減が図られるための運用を行うとともに、同措置の実施に伴う効果について検証を行うこと
施設ごとに必要性や使用状況等を点検した上で、基地の整理・縮小・返還を積極的に促進すること
http://livedoor.blogcms.jp/blog/way6/article/edit より引用)

A: この提言を反故にするかのようなニュースが昨日ありました。
オスプレイ着陸料100億円 国、佐賀に支払い合意
(東京新聞 2018年8月24日 夕刊)
 小野寺五典防衛相は二十四日、陸上自衛隊の輸送機オスプレイの佐賀空港(佐賀市)への配備に向け、佐賀県庁で山口祥義知事と会談し、空港使用条件に関し、国が二十年間に計百億円の着陸料を支払うことなどで合意した。配備計画に反対する地元漁協の懸念を念頭に、県は着陸料を元に漁業振興基金などを創設。今後は漁協の対応が焦点となる。
 小野寺氏は七月に続く佐賀訪問で、配備に理解を得る狙いがある。
 知事との会談に先立ち、小野寺氏は佐賀市内で佐賀県有明海漁協の徳永重昭組合長と会い「漁業者の懸念払拭(ふっしょく)のために最大限取り得る対応について、県と協議を積み重ねてきた」と配備計画に理解を求めた上で、オスプレイの音が水中の魚に与える影響について追加調査を実施する考えも示した。
 小野寺氏は前回訪問時も山口氏や漁協幹部らと会い、オスプレイの安全性や安全対策について説明。二月に陸自の戦闘ヘリコプターが同県神埼市の住宅に墜落して中断していた配備計画を巡る協議を再開した。
 山口氏は今月、防衛省側が示した機体の安全性などについて「不合理な点はない」と表明した。
 防衛省は二〇一八〜二一年度にオスプレイ十七機を佐賀空港に配備する方針で、今秋以降に最初の五機が米国から納入予定。同空港の整備が間に合わないため、千葉県の陸自木更津駐屯地への暫定配備を検討している。
◆合意のポイント◆
▽国は20年間に計100億円の着陸料を支払う
▽県は着陸料を元に漁業振興基金などを創設する。支払い終了後の着陸料は改めて協議する
▽防衛省、県、漁協などの関係機関が参加し、環境保全と補償を検討する協議会を設置する
▽防衛省と県の間で事故などの重大事案に対処するホットラインを設置する

B: 年に5億円の着陸料というのは、Fiscal laxity(ばらまき)ですよ。加えて、今年11月29日告示、12月16日投開票となる佐賀県知事選へ向けた山口祥義現知事(1965年7月生)の深謀遠慮が垣間見えます。彼は平成27(2015)年1月11日の佐賀県知事選挙に、佐賀県農業協同組合(JAさが)や自由民主党所属の今村雅弘衆議院議員(1947年1月生)と地方議員の約半数、秀島敏行佐賀市長(1942年7月生)、横尾俊彦多久市長(1956年5月生)ら保守層に、連合佐賀や民主党、社民党の県連などの支援を受けて無所属で出馬しました。自由民主党本部・公明党が推薦する樋渡啓祐前武雄市長(1969年11月)を約4万票差で破り、初当選となりました。1月14日に当確を得て、同日佐賀県庁に初登庁して正式に佐賀県知事に就任した後の記者会見で、彼は自由民主党が多数を占める佐賀県議会が受け入れ決議をし古川康前知事が容認していた陸上自衛隊の輸送機オスプレイの佐賀空港への配備について、前知事の方針を継承せず白紙に戻した上で、佐賀空港への配備計画の内容や住民への影響を再検証して判断すると表明していました。無所属の看板を掲げながらも、実質的に自民党の軍門に入り、自己の再選のために民衆が望む現実から顔を背けたようです。
A: ラテン語のineptus(低能・無能・決断力の欠如)を語源に持つ「イネプトクラシー(Ineptocracy)」という政治体制を思い浮かべました。
B: そうそう、IdiotとDemocracyを合成した造語『Idiocracy』(2006年)をタイトルにした、アメリカン・コメディがありましたね。「愚衆化の時代」ということですが、日本語のタイトルは『26世紀青年』となりました。この邦題自体がIdiotの証のなのですが、コメディたる由縁でしょうか。
idiocrcy
A: このような時代を一新したいと思いますが・・・。
B: 明治150年を経て、ご一新は始まりますよ。

参考:
kyoto-seikei「田中角栄(1)・ロッキード事件で逮捕:政争の具に!」(2017年1月1日)

『Idiocracy』については→ https://www.thecinema.jp/article/70


大きな笑顔の佳き週末を。

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