61e500c8.jpg 太陽が輝いている。風がさわやかな朝である。
八月は涼をとるため窓を開けて寝冷えをしたり、暑さのために疲労が蓄積しやすい月。健康維持につとめよう。幼児、小児の日射病、熱射病にも注意しよう。
 六日と九日は、広島、長崎の原爆記念日。灼熱の閃光が走ったと同時に市街地が焼け野原になり、数十万の人々が命を落とし負傷した。人間として人類として忘れられない日である。
 広島・長崎を原点として推進されてきた原水爆禁止運動は、現在、核廃絶運動として世界各国に浸透した。
 十五日は「終戦記念日」。戦争の悲劇を繰り返さないよう、わたしたちの胸に銘記しよう。

 共同通信社の上記写真と下記の記事を転載させていただきます。
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 9日の長崎原爆の日を前に、長崎市は7月23日、同市松山町の平和公園にある平和祈念像を水洗いした。強い日差しが照り付け、セミが鳴く中、クレーン車に乗った作業員が、ホースで水をかけながら、モップで丹念に祈念像の汚れを落とした。
 平和祈念像は、彫刻家の北村西望(きたむら・せいぼう)氏の作で1955年完成。台座まであわせると高さ13.6メートルの青銅製。天を指す右手が原爆の脅威を、水平に伸ばした左手が平和を表し、軽く閉じた目は戦争犠牲者の冥福を祈っている。
永井隆博士の功績
 永井隆博士は、助教授をつとめる長崎医科大学附属医院で被爆した。自らも重い傷を負ったその直後から、負傷者の救護や原爆障害の研究に献身的に取り組んだ。やがて、彼の思いは医師としての役割から、長崎の町の文化の復興、そして平和の願いへと広がっていった。被爆以前から患っていた白血病が次第に悪化するが、病床についてからも、執筆活動を通してその実践を貫いた。被爆から6年の命だったが彼の足跡からは、平和への切実な祈りが聞こえてくる。

 彼の収入のほとんどは、まずしい子供たちや原爆症に苦しむ人々のために消えた。戦後の混乱と貧困の中、浦上には原爆で孤児になった子や、家がまずしく学校に行くことができず教育が遅れた子が多かった。
 「うちらの本箱」は、そのような子供たちのために永井博士の呼びかけでできた私設図書館である。子供たちはここで自由に読書をしたり、学ぶことができた。”己の如く人を愛せよ”という博士の思想が人々に伝わり、遠くブラジルの日系人からも寄付が寄せられた。

fb8ff4cf.gif 小さな畳二畳の如己堂から発表される作品や言葉は、世界中の人々の胸を打ち、国内外に広く知られるようになり、天皇陛下のお見舞、ヘレン・ケラー女史やローマ法王特使などが訪れた。その他たくさんの友人・知人・遠方からの訪問者・近所の人々など多くの人々が博士の住む如己堂を訪れた。
 昭和26年(1951年)5月1日、二人の子供たちが看取る中、かっての職場である長崎大学付属病院で博士は力強い祈りの声の後、静かに昇天された。43歳であった。5月14日に長崎市公葬が行われた。2万の人が集まり,博士との別れをおしんだ。このとき,長崎市全部の寺院や船,工場の鐘,汽笛,サイレンが鳴らされ,長崎市民は1分間の黙祷をした。

 永井博士が『長崎の鐘』で得た多額の印税は、浦上天主堂の再建費用や桜の苗木の購入資金、原爆ですさんでしまった子供たちの心を少しでも取り戻そうとする「うちらの本箱」に費やされた。

 原爆で妻を失い、自らの死期も近づいている彼が、いずれ孤児となる二人の子供に残した「汝の近きものを己の如く愛すべし」という言葉は、今も多くの人に感動を与えている。

 「ここから見ていると、誠一は瓦のかけらをもっこで担いで捨てに行くところ、カヤノはつるばらの花を有田焼のかけらに盛って独りままごとをしている。この兄妹が大きくなってから、私の考えをどう批判するだろうか?五十年もたてば、今の私よりずっと年長になるのだから、二人寄ってこの書をひらき、お父さんの考えも若かったのう、などと義歯を鳴らして語り合うかもしれないな」 (『この子を残して』終章より)
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