e4e9bbc3.jpg 今日も秋晴れの素晴らしい一日が始まる。
 太陽の耀きが、実にありがたい。

 このごろ益々、自分の言葉と行動の結果(生み出すもの)に責任を感じるようになった。最終的には自分の性格の問題だと思っている。知性の問題ではない。理性的な判断というよりは、倫理観・人生観が優位を占めてきた。

 チャーチルが好きで、彼の著作を暇を見ては掻い摘んでいる。1948年にノルウェーで行った演説で次のように述べた。

 「人間は間違った判断を下す場合もあります。自分は非常に賢明な行動をとっていると思っても、それが大失敗だと分かることもあります。一方、愚かなことをしても、それがよい結果を生む場合もあります。私はこの目でさまざまな出来事が起こるのを見てきましたが、人生が正が邪がという単純な選択肢で迫ってくるという事実に変わりはありません。この法則に従うなら、その方があらゆる可能性を計算するより、結局ははるかに安全だということが分かるでしょう。みなさんにこれだけは申し上げたい。というのも、これは私自身の経験から得たことだからです。しかし私は、自分がいつも正しいということを理解して欲しいと言っているのではありません。そんなことは、恥ずかしくてとても主張できないでしょう。けれども私は、人はその感ずるところ、信ずるところに従って行動しなければならないということだけは感じております」

 1940年のロンドン大空襲のときに爆撃の被害を受けた現場視察では、目に涙を浮かべていたと伝えられる。破壊された自宅の後片付けをしていた女性が彼の視察で元氣付けられ、友人のひとりに言った。

 「見て、彼は本当に氣をかけてくれているのね」

 強い倫理観・人生観のほかに、優しさ、心配り、フェアプレーの精神の持ち主でもあった。

 感謝

(追記)
チャーチルのインド人嫌悪、歴史的飢饉の原因に 印新刊が告発
(AFP 2010年9月11日 14:25 発信地:ニューデリー/インド)
【9月11日 AFP】第2次世界大戦中の英首相ウィンストン・チャーチル(Winston Churchill)が、インド人に対する人種的嫌悪感から、飢饉にあえぐインドへの援助を拒み、数百万人を餓死に追いやったと主張する本が出版された。
 第2次大戦中、日本軍がインドへのコメの主要輸出国だった隣国ビルマを占領した後も、英国人が支配する植民地総督府は、兵士や軍需労働者にしか備蓄食糧を開放しなかった。パニック買いでコメ価格は高騰。また日本軍が侵入した場合に植民地内の輸送船や牛車が敵の手に渡ることを恐れた総督府は、これらを押収したり破壊したりしたため、流通網も破壊された。
 こうして1943年、「人為的」に起きたベンガル飢饉では300万人が餓死し、英植民地インドにおける暗黒の歴史となっている。インド人作家マドゥシュリー・ムカージー(Madhusree Mukerjee)氏(49)は最新刊『Churchill's Secret War』(チャーチルの秘密の戦争)で、この大飢饉の直接的な責任はチャーチルにあることを示す新たな証拠を暴いたと語る。

■度重なる支援要請を拒否
 第2次大戦の英政府の閣議記録や埋もれていた官庁記録、個人的なアーカイブなどを分析した結果、当時、オーストラリアからインド経由で地中海地域へ向かう航路の船は輸出用のコメを満載していた。しかし、チャーチルは緊急食糧支援の要請をことごとく拒否し続けたという。
 ムカージー氏は「チャーチルに対策が無かったわけではない。インドへの援助は何度も話にあがったが、チャートルと側近たちがその都度、阻止していたのだ」と指摘する。「米国とオーストラリアが援助を申し出ても、戦時下の英政府がそのための船を空けたがらなかった。米政府は自国の船で穀物を送るとまで申し出たのに、英政府はそれにも反応しなかった」

■強烈なインド人嫌悪
 チャーチルはインド人を蔑む言葉をよく口にしたという。チャーチル内閣のレオ・アメリー(Leo Amery)インド担当相に対して、「インド人は嫌いだ。野蛮な地域に住む汚らわしい人間たちだ」と述べ、またあるときは、飢饉はインド人自らが引き起こしたもので、「ウサギのように繁殖するからだ」とののしった。
 特にインド独立運動の指導者マハトマ・ガンジー(Mahatma Gandhi)について「半裸の聖者を気取った弁護士」だと愚弄(ぐろう)し、援助を求める総督府の英高官らに対し、「なぜガンジーはまだ死んでいないのか」などと返答したという。
 ナチス・ドイツと戦う指導者として歴史に名が残るチャーチルだが、アメリー担当相はチャーチルのあまりの暴言に、ある時ついに「首相とヒトラーの考え方に大きな違いがあるとは思えない」と直言したこともあった。

■インド史から消された災厄
 チャーチルの伝記はこれまでに数え切れないほど執筆されているが、ムカージー氏の新刊は新情報を発掘したという意味で画期的な成果だと、著名な歴史ジャーナリストのマックス・ヘイスティングス(Max Hastings)やインドの作家たちが称賛している。
 ムカージー氏は「チャーチルを攻撃しようと思って調査し始めたわけではない。ベンガル飢饉について調べていくうちに徐々に、チャーチルが飢饉で果たした役割が浮かび上がってきた」と言う。
 現在はドイツ人の夫とともに独フランクフルト(Frankfurt)に在住しているインド出身のムカージー氏は、ベンガル飢饉については小学校の教師からも両親からも習ったことはなく、インドの歴史からも消去されてきたと批判する。それは「インド社会の中流に、罪の意識があるからだ。彼らは(総督府下で)仕事に就いていたから、つまり配給を割り当てられていた。けれど田舎の人間はいなくなっても構わないとみなされたのだ」
 7年の歳月をかけて執筆したムカージー氏は、インド奥地の村々に散るベンガル飢饉の生存者から生々しい話を取材で聞くにつれ、チャーチルに対する強烈な批判意識が生じたという。「彼がよく批判されるのは、ドイツ市民に対する爆撃についてだが、ベンガル飢饉でこれだけ多くの犠牲者が出たことついて直接の責任を問われたことはまったくない。しかし、これこそがチャーチル最大の汚点だと思う」(c)AFP/Ben Sheppard
(追記)
映画『ウィンストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男』は10億人の人の歴史を踏みにじる
(by Bedatri Datta Choudhury BuzzFeed Contributor 公開 2018年5月12日)
英国で政治家チャーチルを描いた映画がヒットした。だが英国に植民地として支配された歴史を持つインドから見れば、チャーチルは何百万人ものインド人を餓死させた人種差別主義者とうつるのだ。

 私の実家では、食べ物の好き嫌いを言ってはならない。「この食べ物をつくるために、誰かが時間と労力をかけているのよ」と母に昔から教えられてきた。
 私たちの家では、食べ物を無駄にはできない。自分が食べるものに、他の誰かが費やしてくれた時間と労力をありがたく思うことは、誰もがすること、あるいはすべきことだろう。
 しかし、私の家族がテーブルに乗っている食べ物に感謝する理由は、もっと深いところにある。私の両親は、インドとパキスタンの分割とそれに続く混乱と飢饉を経験し、そのトラウマを抱えながら生き抜いてきた。
 彼らは、飢えた人々が虫けらのように死んでいくのを見てきた。彼らにとって、そして、そのような両親に育てられた私にとって、食べ物とは「権利」ではなく、常に「恩恵」だった。
 私はこう言われて育ってきた。「私たちは最悪の飢えを見て、生き延びた。お前はそういう親を持つ子なんだよ」と。だから、私は決して食べ物を無駄にできないし、これからもしない。
 映画『ウィンストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男』(原題:Darkest Hour、日本公開は2018年3月30日)のはじめの方に、チャーチルが朝食を取るシーンがある(ゲイリー・オールドマンの演技は素晴らしかった)。
 スクランブルエッグ、薄切りのベーコン、シャンペンとスコッチウィスキーが、クリスタル製の塩入れや胡椒入れ、磨きこまれたカトラリーと一緒に、銀のトレーに乗っている。時は1940年。チャーチルが首相になろうとする頃だ。手紙を口述筆記させながらイライラしたチャーチルは、その豪勢な朝食を脇へ押しやり、葉巻を吹かし出す。その朝食にはおそらく二度と手をつけないのだろう。
 この男がその3年後、現在のインド東部からバングラデシュにかけて広がるベンガル地方で300万人が餓死した、ベンガル飢饉を引き起こしたのだ。
 私の家族にとって、そして、ベンガル周辺の多くの家族にとって、食べ物との関係は、ベンガル飢饉にまでさかのぼる。75年たった今の時代に生きる私も、食卓にのぼる米に感謝の気持ちを持つ。
 ベンガルの人々は非常に長い間、自らが栽培した米を、イギリスの軍隊や市民を養うためにすべて取り上げられていた。イギリスによる食料の徴収は、世界の歴史でも最悪の飢饉の1つを起こすほどひどかった。
 飢えの軌跡を辿れば、非常に明確な支配構造が見えてくる。
 私たちは何百万人もの同胞を飢えで亡くしたが、このことが書籍で語られることはほとんどない。一方、パンやジャガイモが配給されていた時代のヨーロッパでの苦労や困難の話は、様々な場面で聞こえてくる。
 私の世代はそれほどの規模の飢饉を見たことがないし、おそらく、そうした飢饉を生き抜いた人のトラウマを表す語彙も表現も持ち合わせていない。しかし、世代を超えて語り継がれてきた当時の話を、誰もが聞いて育ってきた。
 友人の祖母は友人に、飢えた男性が「米を恵んでくれ」と訪ねてきたときのことを語った。祖母は急いで台所に行き、すでにかなり制限されて少なかった配給の貯えの中から、少し分けてやろうとした。しかし戸口に戻ってくると、男性は亡くなっていたという。友人の祖母に会ったことはないが、私の祖母も昔から、食べ物を分けてくれと頼まれたら決して拒んではいけない、と言っていた。

礼節は消え、信頼は壊れ、約束は無視される。すべて、一握りの米のために。
 チャーチルは1896年、イギリス陸軍軽騎兵第4連隊の少尉としてインドに赴任した。
 彼がインドを、「俗物と退屈なやつだらけの、神のいない土地」と形容したことは有名だ。イギリスの首相となったチャーチルは1943年、ベンガル沿岸の農業地帯のほとんどを空軍基地に変えさせた。日本軍から植民地を守るためだ。
 映画『遠い雷鳴』で、ベンガルの田舎にある黄色と緑の肥沃な田が、ゆっくりと消えていくシーンを見たことを覚えている。まずは、灯油が足りなくなる。そのあと、すべてが壊れていく。礼節は消え、信頼は壊れ、約束は無視される。すべて、一握りの米のために。
 子どものころ、祖父母からいろいろな話を聞いた。当時物騒だったカルカッタ(現コルカタ)で、米を炊いたあとに捨てる余ったゆで汁のでんぷんを食べさせてくれと頼んで回る物乞いのことを。街の路上では、そうした人々が何千人も死にかけていた。チャーチルが、穀類を運ぶオーストラリアの船に、ベンガルを迂回させたからだ。
 ビルマにいた私の大おじと大おばは、飢えと渇きに苦しむこうした地域を通り抜け、故郷の町ノアカリ(現在はバングラデシュ)まで、ほとんどの道のりを歩いて帰ってきた。ようやく故郷にたどり着いたものの、大おじは疲労とトラウマから立ち直ることができなかった。
 別の友人は、皿の上の米は1粒も残さず食べるよう言われて育った。彼女の祖母は飢饉を生き延びたが、「明日、目が覚めたら何も食べるものがないかもしれない」という恐怖を決して拭い去ることができなかったのだ。飢饉が最悪の状態となったのは、彼女の祖母が17歳のとき。友人にその話を語っていたのは、70歳くらいのときだった。

この男は私たちにとってのヒトラーだ。
 カルカッタでは、イギリスがつくった社交クラブが栄え、チョウリンギー通りの中心地には新しいレストランが次々にできた。その一方で、地方の女性たちは売春をするようになった。
 親は娘を売り、生き残った家族は金もなく、死者の魂を弔う気力もなかった。私のおばは、子どもたちを食べさせるために売春をする母親たちの話や、子どもたちを満足に食べさせてやれない申し訳なさに耐え切れず、子どもたちを殺してしまった父親の話をする。
 山と積まれた死体が、キツネや犬に食べられているころ、膨大な餓死者が出ているという知らせがチャーチルに届いた。しかし彼は、飢饉はインド人が「ウサギのように子どもを産むこと」に対する代償だと言ったという。
 チャーチルの答えは、「なぜガンジーはまだ死なない?」だった。
 このときチャーチルは、インドから食料をむしり取りながら、インド人兵士がたくさんいる英国陸軍を統率していた。
 ヒトラーと戦い、反ヒトラーの道徳性を称える一方で、彼自身はベンガルの飢饉につながる政策をとり、その政策を喜んでいた。インドの人口を「気持ちよく」間引けるからだ。
 この男は私たちにとってのヒトラーだ。
 だが、この男への憎悪は、世界のどこに見られるというのだろう?
 その代わりに、チャーチルを描いた映画『ウィンストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男』は2018年1月、アカデミー賞6部門でノミネートされた。
 2017年に公開された『ダンケルク』(こちらはアカデミー賞8部門にノミネートされた)は、「白人ばかりの連合軍」という嘘で虚飾された映画だった。
 同様に、『ウィンストン・チャーチル』の脚本家は、映画の中のあるシーンを勝手に丸ごと、完全に都合よくつくり変えてしまった。
 チャーチルがロンドンの地下鉄に乗るシーンだ。首相が現れたことに驚いて立ち尽くす乗客たちに、チャーチルは、戦争についての意見を求め、彼らが和平交渉という案を拒絶するのを聞く。チャーチルは「古代ローマの歌」の勇壮な詩を暗唱し、その詩を黒人男性が締めくくる。そしてチャーチルは彼とハイタッチするのだ。
 しかし、ジョー・ライト監督が時代設定をあと数年遅くしていたら、おそらくチャーチルには、ベンガルの飢えた人々のための食料供給所で料理をさせたはずだ。  
 
イギリスは、自分に嘘をつこうとする中で、10億の人々の歴史をないがしろにする物語をつくっている。
 チャーチルは、有名な人種差別主義者だった。
 彼の頭の中にある進化論的な人種のピラミッドでは、白人のプロテスタントが最上部を占め、最下層はアフリカ人。ユダヤ人とインド人はその上だったという。このことは、多くの歴史家や知識人たちが書いてきたことで、ごく最近では、国連事務次長を務めたこともある作家のシャシ・タルールが、『Inglorious Empire :What the British Did to India(不名誉な帝国:英国はインドに何をしたのか?)』に著している。
 私はもちろん、チャーチルを英雄化し、ベンガル飢饉については何も触れずにいるこの映画(『ウィンストン・チャーチル』)には不満がある。
 しかし、もっと怒りを感じるのは、この映画がでっち上げようと決めたこのエピソードについてだ。
 チャーチルが黒人男性とハイタッチし、「古代ローマの歌」を暗唱して絆を深めるシーンによって、ただの戦争屋を人間味あふれる人物にしてしまうことは、単に歴史を歪曲しているだけでなく、素知らぬ顔で嘘をつくことにもなる。
 私は、ベンガルから何千マイルも離れたニューヨーク市内の映画館でこの映画を見ながら、自分の国の歴史について、その中でこの男が果たした役割について、私が知っていることすべてが揺らぐのを感じた。間違った認識を刷り込まされ、狂わされている感じだった。
 祖母の記憶、私たちが聞きながら育った話、子どものころから食べ物に対して感謝を持ってきたこと、そうしたことすべてが捻じ曲げられていたのだ。
 映画と文学を学ぶ人間として、歴史フィクションというジャンルのことは理解しているし、その限界もわかっている。私たちは何十年もかけて、ポストコロニアル理論(植民地主義や帝国主義に関わる文化・歴史を広範囲に取り扱うもの)を読み、何も語られていない歴史の境界から、物語を掘り起こそうと努めてきた。
 それなのに、私たちから搾れるだけ搾り取って去っていった70年後に、また別の白人男性が、映画館に座る私たちに向かって、イギリス人は君たちにとって実にいい人たちだったと語りかける。イギリス人には英雄しかいない、と語りかけるのだ。
 イギリスにとっては、チャーチルのような独裁者を英雄化し、輝ける過去の物語をつくり上げることが実際に必要だということはわかる。EU離脱問題に揺れる今の時代ではなおさらのことだ。恥ずべき暴力の上につくられた国には、称えるべき歴史が必要だ──実際には、称えるようなことをたいしてしてこなくても。だから嘘をつく。
 しかし、重大な国民的アイデンティティの危機に直面しているときに、戦争屋で人殺しでもある人物を、人間味あふれる人物に仕立てて、国民的英雄にしようとすることと、2世紀の間苦しめられてきた植民地の辛い歴史の真実を覆い隠してしまうほどの大きな嘘を、不道徳にもでっち上げることは、次元の違う話だ。
 イギリスは、自分に嘘をつこうとする中で、10億の人々の歴史をないがしろにする物語をつくっているのだ。
 もちろんそれは、今に始まったことではないのだが。

この記事は英語から翻訳されました。翻訳:浅野美抄子/ガリレオ、編集:BuzzFeed Japan

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