bba8312e.jpg 今朝の旭ヶ丘はうっすらと雪化粧して朝陽を浴びている。今日は啓蒙主義を代表するフランスの哲学者兼作家、ヴォルテール(Voltaire, 1694年11月21日 - 1778年5月30日)の誕生日。パリの公証人の子としてこの世に生を受けた彼は実に多才であった。フランソワ・マリー・アルエ (François-Marie Arouet)が本名で、Arouetのアナグラムがヴォルテールという名である。反ローマ・カトリック、反権力の精力的な執筆活動や発言により、彼は18世紀的自由主義のシンボルとなる。没後、パリの教会が埋葬を拒否したためスイス国境近くに葬られたが、フランス革命中の1791年、立憲議会の決議によって、ルソーとともにパリのパンテオンに移された。

 彼は国が発行する宝くじを全部買うと100万ルーブル儲かってしまうことを発見する。親しい数学者と組んで、国が発行する宝くじの当選確率の計算をしていた時のこと。ヴォルテールは、仲間と組み借金をし資金を集め、宝くじを買い占めた。自然、宝くじの売れ行きは好調となった。しかしながら、大蔵大臣が売れ行きが良ければ良いほど損をしてしまうという真実を知ったことで、賞金の支払い停止が命じられた。さらに、ヴォルテールのグループを詐欺罪で告訴した。しかし、国側はこの争いに敗れた。専制時代とはいってもフェアな精神があった。ミスはミスであると潔く認めている。これにより、彼らは50万ルーブルを手にした。現在の貨幣価値にすると約5億円になる。

 さあ、彼の人生をスケッチしてみよう。1718年に悲劇「エディプス」を発表し、摂政オルレアン公を諷刺したとしてバスティーユに投獄される。1726年から1728年までイギリスに亡命し、アイザック・ニュートン、ジョン・ロックなどの思想を直に知り哲学に目覚める。帰国後、『哲学書簡(イギリス通信)』(1734年)を著す。『哲学書簡』"LETTRES PHILOSOPHIQUES"の別名『イギリス通信』"LETTRES CONCERNING THE ENGLISH NATION"は、啓蒙思想の狼煙(のろし)をあげた記念碑的な著作と言われ、フランスで刊行される前年に出た英訳版の題名。革命前のアンシャン・レジーム下のフランスと、市民革命を成し遂げ議会政治と産業革命の胎動を始めていたイギリスの状況が目に浮かぶ。彼の巧みな筆使いも楽しい。歴史に名を残しSunSunと輝く智慧の人の開明的・啓蒙的姿勢は実にさわやかだ。イギリスで見聞した、宗教、政治、哲学、科学、文芸が紹介されるのだが、イギリスを引き合いに、自国フランスが陥った病膏肓を語っている。
 その後、文学、哲学、歴史学などの分野の第一線で多用な活躍をする。1750年には、プロイセンのフリードリヒ大王を訪問し帰国後『百科全書』にも寄稿するが、直後に『百科全書』は出版許可が取り消されている。この頃からルソーとの対立も顕著になる。それまでの彼の活動を寓話的に総括し、合わせてライプニッツの『弁神論』に代表される予定調和的・楽観的な世界観を批判したのが哲学コント集『カンディードもしくは最善説』
"CANDIDE,OU L'OPTIMISME"(1759年)。ここでヒューマニズム(ユマニスム)の欠如した迷妄、最善説に反旗を掲げる。理性の世紀と呼ばれた18世紀に多大な影響力を持ったライプニッツの予定調和説は、「自然の悪と道徳上の悪」を必要不可欠なものと容認する最善説のフレームを与えた。この理神論は理性と信仰の両面を満たす思想であるが、ヴォルテールは不条理な悪に対しこの日和見主義は無力であることを喝破している。コント集前半では不幸の連続に対し最善説の適用を試みているが微笑まずにはいられない。後半は散り散りになった面々が数奇な運命を辿り再会する展開で、パングロスの楽観主義、マルティンの悲観主義とカンディードのヒューマニズムが揚棄され結論へと導かれる。世界や人生は一言では語りつくせませんゾ!と教えてくれる。
 1760年にスイス国境のフェルネーに居を定めてからは、カラス事件等をきっかけに、自由主義的な政治的発言を活発に行う。『寛容論』(1763年)、『哲学辞典』(1764年)などがこの時期の代表作。

 「私はあなたの意見に何一つ賛成できないが、
  あなたがそれを言う権利は命がけで守るつもりだ」

という彼の言葉は、民主主義の原則をシンボライズした名句として知られる。
1778年4月7日、ベンジャミン・フランクリンによりパリでフリーメイソンに入会し、翌月に昇天する。こうして求道を卒業し、唯ひとつの存在となった。

 感謝

※写真は桜田門