8e967494.jpg 札幌は久々の快晴で実にサワヤカ。
 風が氣持ちよい。
 今日から6月。
 
 昭和25年(1950)の大映作品に『われ幻の魚を見たり』(106分・白黒)がある。伊藤大輔監督が原作・脚本を手がけたものだが、これによって日本最北の不凍カルデラ湖・支笏湖(しこつこ)は全国的に知られるようになった。水面標高258mで湖底は海水面より低い。日本のカルデラ湖面積ランキング第二位。道道16号線には湖畔を走る「支笏湖(しこつこ)スカイロード」があり絶好のドライブコースとなっている。
 この作品で大河内伝次郎は、支笏湖のヒメマス(チップ/カバチェッポ)を十和田湖に孵化・放流した和井内貞行を演じている。艱難辛苦の末、十和田湖での養殖に成功し、岸におし寄せてくるヒメマスの群を見つめる男姿に感涙せずにはいられない。

 その昔、十和田湖は魚が生息しない湖と信じられていた。安政2年(1855)に角久平(上北郡十和田町)らがイワナを放流し始めた。この3年後の安政9年(1858)に和井内貞行は鹿角市毛馬内に生まれた。9歳にして漢学を学び、17歳の時で毛馬内小学校の教壇に立っている。彼は明治14年(1881)、工武省小坂鉱山寮史員十輪田鉱山(現十和田鉱山)詰めとなり十和田湖畔に住むようになった。明治17年(1884)からコイ・フナ・イワナ・日光マスの放流を始めた。角久平から数えて6人目、28年の歳月が流れていた。17年に鉱山長の飯岡政徳の許しを得て、初めてコイ600尾を放したのを皮切りに、翌18年、十和田小学校が開校されるに当たり前途を激励するため1,000尾のコイを放流した。この4年後、宇樽部付近で尺余のコイが確認された。これにより養魚熱が上がり、明治26年、青森県・秋田県の連署で満8ヶ年の期限付き湖水使用権を取得した。ここにきて鉱山が休山に追い込まれ、翌27年には小坂鉱山へ転勤せねばならなかった。湖を離れて早2年、明治29年、一生の仕事を養魚に専心する決意を持って鉱山を辞職した。東京・関西圏に足を運び、繁殖法と缶詰製造法を学んだ。コイやフナは十和田湖には適さなかった。水温や水質が合わなかったのだ。イワナや日光マスは、産卵のために湖から流れる奥入瀬(おいらせ)川を下ったが、その稚魚は落差の大きい銚子大滝にはばまれた。このため十和田湖へは帰れなかった。失敗の連続により財産を無くしてしまう。にもかかわらず、明治32年(1899)に初めて養殖設備を持つ。明治32年、マスの養殖施設を持ち、翌33年、日光養魚場から日光マスの卵を移して孵化し、34年(1901)には孵化した稚魚35,000匹を放流した。35年(1902)、青森県水産試験場は支笏湖からヒメマスの卵20万粒を買い求め、そのうち50,000粒を彼に与えている。翌36年稚魚にかえったヒメマスを初めて湖水に放流した。2年後の明治38年(1905)秋、和井内貞行は魚の群れが岸におし寄せてくるのを見つけた。彼は48歳になっていた。映画の中の大河内伝次郎は52歳であった。以後毎日1,000尾以上も捕獲できるほど、ヒメマスがおし寄せた。明治40年、東京勧業博覧会にマスの養殖標本と養殖法の解説を出し一等賞となった。現在もヒメマスの孵化・放流は続けられ、ヒメマスは十和田湖の特産品となっている。

 また、彼は孵化場近くに旅館「観湖楼」を建て、小坂駅前に案内所を設け、観光客を誘致した。大正10年(1921)には十和田湖の国立公園編入運動を進めた。和井内貞夫は一生を十和田湖の開発にささげ、大正11年(1922)に昇天した。十和田湖が国立公園に指定されたのは昭和11年(1936)2月1日であった。彼とカツ子夫人の二人は、十和田湖畔の大川岱にある和井内神社に祀られている。春の祭日は、カツ子夫人の命日5月3日。秋の祭日は、夫貞行合祀の9月21日。

 父と母の新婚旅行先は十和田湖であった。そのせいか、子供のころから十和田湖に興味を持ち続けている。

 感謝
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