2f7ccdf5.jpgおはようございます☆

昨夜の雪が晴れ上がり、清々しい朝を迎えた札幌。
実に、氣持がいい♪

一昨日、愛車をオートバックスに持っていった。
このところ燃費が思わしくなかった。
リッター6キロくらい・・・

エンジンオイルがほとんどない!

オイルを入れ、無事に復活☆

みなさん、愛車のケア、大切ですね!

さて、今朝は菊池寛について、チト、お話させてくださいね♪

28歳から小説を書き始めた菊池寛は、後年「25歳未満の者、小説を書くべからず」というルールを持っていた。『まず生活して自分の人生観を持て。それがないのに書いてもしょうがない』ということの別表現であった。「我に神を頼まざるがごとき、力を与えたまえ!」と作品の中で発しているが、彼らしい生きざまがこの一言に凝縮されている。

では、1923年、彼が35歳のときに書いた『小説家たらんとする青年に与う』をお楽しみください♪

(引用開始)
 僕はまず、「25歳未満の者、小説を書くべからず」という規則をこしらえたい。全く、17、18ないし20歳で、小説を書いたって、しようがないと思う。
 とにかく、小説を書くには、文章だとか、技巧だとか、そんなものよりも、ある程度に、生活を知るという事と、ある程度に、人生に対する考え、いわゆる人生観というべきものを、きちんと持つということが必要である。
 とにかく、どんなものでも、自分自身、独特の哲学といったものを持つことが必要だと思う。20歳前後の青年が、小説を持ってきて、「見てくれ」というものがあっても、実際、挨拶のしようがないのだ。で、とにかく、人生というものに対しての自分自身の考えを持つようになれば、それが小説を書く準備としては第一であって、それより以上、注意することはない。小説を実際に書くなどということは、ずっと末の末だと思う。

 小説を書くということは、決して紙に向って筆を動かすことではない。我々の普段の生活が、それぞれ小説を書いているという事になり、また、その中で、小説を作っているべき筈だ。どうもこの本末を転倒している人が多くて困る。ちょっと1、2年も、文学に親しむと、すぐもう、小説を書きたがる。しかし、それでは駄目だ。だから、小説を書くということは、紙に向って筆を動かすことではなく、日常生活の中に自分を見ることだ。すなわち、日常生活が小説を書く為の修行なのだ。学生なら学校生活、職工ならその労働、会社員は会社の仕事、各々の生活をすればいい。そうして、小説を書く修業をするのが本当だと思う。
 では、ただ生活してさえ行ったら、それでいいかというに、決してそうではない。生活しながら、色々な作家が、どういう風に、人生を見たかを知ることが大切だ。それには、やはり、多く読むことが必要だ。

 小説というものは、或る人生観を持った作家が、世の中の事象に事よせて、自分の人生観を発表したものなのである。
 だから、そういう意味で、小説を書く前に、先ず、自分の人生観をつくり上げることが大切だと思う。
 そこで、まだ世の中を見る眼、それから人生に対する考え、そんなものが、ハッキリと定まっていない、独特のものを持っていない、25歳末満の青少年が、小説を書いても、それは無意味だし、また、しようがないのである。

 僕なんかも、始めて小説というものを書いたのは、28の年だ。それまでは、小説といったものは全く一つも書いたことはない。紙に向って小説を書く練習なんか、少しも要らないのだ。
 とにかく、自分が、書きたいこと、発表したいもの、また発表して価値のあるもの、そういうものが、頭に出来た時には、表現の形は、あたかも、影の形に従うが如く、自然と出て来るものだ。
 そこで、いわゆる小説を書くには、小手先の技巧なんかは、何んにも要らないのだ。短篇なんかをちょっとうまくまとめる技巧、そんなものは、これからは何の役にも立たない。
 これほど、文芸が発達して来て、小説が盛んに読まれている以上、文学の才のある人は、誰でも上手く書くと思う。
 そんなら、何処で勝つかと言えば、技巧の中に匿された人生観、哲学で、自分を見せて行くより、しようがないと思う。

 それから、小説を書くのに、一番大切なのは、生活をしたということである。実際、古語にも「可愛い子には旅をさせろ」というが、それと同じく、小説を書くには、若い特代の苦労が第一なのだ。金のある人などは、真に生活の苦労を知ることは出来ないかも知れないが、とにかく、若い人は、つぶさに人生の辛酸をなめることが大切である。
 作品の背後に、生活というものの苦労があるとないとでは、人生味といったものが、何といっても稀薄だ。だから、その人が、過去において、生活したということは、その作家として立つ第一の要素であると思う。そういう意味からも、本当に作家となる人は、くだらない短篇なんか書かずに、もっぱら生活に没頭して、将来、作家として立つための材料を、収集すぺきである。
 かくの如く、生活して行き、そうして、人間として、生きて行くということ、それが、すなわち、小説を書くための修業として第一だと思う。
(引用終わり)

さあ、今日は大安吉日。みなさんに、良きことが訪れますよ♪
愛車のケアもなさってくださいね☆      笑顔


※参考 

 本名は寛(ひろし)。小説家、劇作家にしてジャーナリスト。
 高松に生まれる26歳の時に第3次『新思潮』が創刊され、学生時代の友人芥川龍之介と参加。1916年(28歳)には芥川らと第4次「新思潮」を発刊し、肉親の情愛の葛藤を描いた戯曲『父帰る』を発表。京大卒業後、時事新報社会部記者を経て小説家となる。卒業後は記者をしながら作品を書き続け、31歳の時に『恩讐の彼方に』『藤十郎の恋』を世に出した。テーマを絞り込んだ簡潔で力強い構成が高く評価され、ヒューマニズムとリアリズムの作家として名声を得た。翌年からは『真珠夫人』など、通俗小説の分野でも広く活躍。テレビドラマ『真珠夫人』は、この作品が原作。原作は長らく絶版となっていたが、2002年、テレビドラマ化に伴い復刊された。35歳の時、ポケットマネーで雑誌『文藝春秋』を創刊したところ大成功を収め、富豪となった。38歳、文芸家協会を設立。1935年(47歳)、文壇の登龍門として芥川賞・直木賞を設定するなど、「文壇の大御所」として雑誌経営や後進の育成にも力を尽くす。晩年は大映社長として文化的事業を行い、作家の地位向上に貢献。これらの成功で得た資産などで、川端康成、横光利一、小林秀雄などの新進の文学者に金銭的な援助をおこなった。
 彼はバイセクシャルとしても知られていた。映画評論家の「小森のおばちゃま」こと小森和子女史は数人いた彼の愛人の一人。しかしながら、彼女は易々と彼に体を許したため、彼から「女性的な慎みがない」と非難されたらしい。また、旧制中学時代から大学時代まで4級下の少年との間に同性愛関係を持ち、この少年に宛てて女言葉で綴った愛の手紙が多数現存する。一高卒業を目前にして、友人佐野文夫の窃盗の罪を着て退学の道を選んだのも、佐野に対する同性愛感情が関係していたと言われる。
 1948年、菊池は一週間続いた腹痛が治まり、友人たちと自宅で全快祝いをしていた。その最中に突然、心臓発作に襲われ、10分ほどで昇天。59歳であった。(以上)