04b606b3.JPGみなさん、おはようございます。
恵みの雨の札幌です。

昨日は、午後からの出張がキャンセルになったので、ワイフを誘って円山西町のグリュスゴット(Gruess Gott)で、ハンバーグ・ランチを楽しんだ。

オーストリアや南ドイツなどBairisch(バイエルン語)の地方では、「Gruess Gott」とあいさつをする。発音は「グリュースゴット」・「グリュスゴット」で、「おはようGuten Morgen・こんにちはGuten Tag・こんばんはGuten Abend」の意味で使う。ここの店主は南ドイツにご縁があるのかもしれない。

食事中、藤田嗣治画伯の話題になり、道立近代美術館で開催中の「レオナール・フジタ展」へと足を運んだ。

会場に一歩踏み込んで、帰りたい衝動に駆られた。イモを洗うように人がごった返している。室温が上昇して絵に影響を与えるのでないか、と余計な心配までしてしまった。

1部「裸婦像時代」;2部「構図・闘争のころ」;3部「フランス国籍取得後」;4部「礼拝堂と晩年」で構成されている。特に、3部では、手先が器用で、彼自身や妻のシャツなどを自ら縫っていたことが分かる。木箱で作った専用の裁縫箱があり、その箱に絵を描いている。家庭内の食器類もこだわりをもって創っていた。酒が一滴も飲めなかった彼は、まじめに、身の回りの環境を整えることに精を出した方であった。

先の大戦後、日本の美術界では戦争責任論争が起こった。朝日新聞で戦争責任者として彼を批判する論争が起こされた。「美術家全体の面汚しだ」と批判された。さらに朝日新聞は、「軍国主義的な風潮の助長を指揮したボス的存在は徹底的に糾弾されねばならぬ」と論調を強め、藤田画伯を軍に協力した戦犯リスト候補にした。

不幸にも、美術界も彼に画家としてただひとり戦争責任有りの烙印を押し付け、擁護しようとはしなかった。こうして彼は日本を去る決意をし、合衆国経由でフランスに赴いた。1955年フランスに帰化した後は、祖国・日本へ帰ることはしなかった。

彼が日本を去るときの新聞記者との問答が知られている。

記)「…日本画壇にいい残すことはありませんか?」

藤)「仲間喧嘩をしないでもらいたい。
   これは、国際画壇に対しても、なんとも恥ずかしいことだからね。
   それにもう一つ、日本画壇も早く大人になってもらいたいことだ。
   一日も早く、手法の上でも、意識の上でも、経済的にも、
   国際的な水準にならないと、世界の画壇からとり残されてしまうからね」

今日の日本のビジネス・研究開発・商品開発の状況を見ると、
この画伯のコメントは未だ示唆に富んでいる。

今日は大安吉日の金曜日。
元氣に笑顔で、参りましょう。

感謝


【参考】藤田嗣治(つぐはる)

代表作品作
 「カフェにて」1949-63
 「生誕 於巴里」1918
 「裸婦」1923
 「エレーヌ・フランクの肖像」1924
 「狐売りの男」1933
 「猫(争闘)」1940
 「アッツ島玉砕」1943
 「動物宴」1949-60
 「アージュ・メカニック(機械の時代)」1958-59
 「フランスの宝」1960-61
 「キリスト降誕」1960
  
レオナール・フジタ略歴
 1886年 東京市牛込区新小川町に生まれる。
 1900年 パリ万国博覧会に水彩画が中学生の代表作として出展される。
 1910年 東京美術学校西洋画科卒業。
 1913年 パリに渡り、モディリアニ、スーチンらと友好。
 1914年 第1次世界大戦開始。大戦中、何度か個展開く。
 1918年 第1次世界大戦終了。
 1919年 サロン・ドートンヌ入選、会員に推挙される。
 1929年 17年ぶりに帰国。
 1930年 パリに戻る。
 1931年 南米各国をまわり、1933年帰国。
 1934年 日動画廊で個展。二科会会員に推挙される。
 1939年 渡米後、パリに着く。
 1940年 第2次世界大戦開始。パリを脱出し、帰国。
 1940年 パリから帰国。
 1943年 朝日文化賞受賞。
 1945年 第2次世界大戦終了。
 1948年 近代日本美術総合展に出品。
 1949年 渡米の後、パリに戻る。
 1955年 フランス国籍を取得。日本芸術院会員を辞任。
 1957年 フランス国家から2度目のレジオン・ドヌール勲章を受勲。
       ベルギー王立アカデミー会員になる。
 1959年 君代夫人とカトリックの洗礼。洗礼名「レオナール」
 1966年 ランスのノートルダム・ド・ラ・ペ・フジタ礼拝堂を自ら建設。
 1968年 81歳昇天。日本政府より勲一等瑞宝章を追贈される。

ファミリー
彼には、父をはじめ親族に多数の軍医関係者がいて、兄の妻は、陸軍大将児玉源太郎の娘。そして、従兄には新劇界の先駆者・小山内薫。その妹は、女流劇作家のパイオニア岡田八千代、その夫は洋画家岡田三郎助。甥には著名な音楽・舞踊評論家蘆原英了や銀座ソニービル(1966年)の建築家・芦原義信がいる。

戦争画
 現在、東京国立近代美術館の戦争記録画コレクションは150点。先の大戦後、合衆国軍に接収され、「永久貸与」の形で返還されたもの。藤田画伯の作品は、14点あり最多数。彼は、合衆国占領軍(GHQ)の委託を受け戦争画収集に協力した。

 1943(昭和18)年5月30日、大本営はアリューシャン列島アッツ島守備隊の全滅を「玉砕」と発表。戦死者2,638名。大日本帝国は、山崎部隊長を「軍神」と称え、敗北をデフォルメし、悲劇的英雄を生み出した。この3ヶ月後に「国民総力決戦美術展」が開かれた。
 彼は、敵も味方も定かではない、ただ凄惨な殺し合いがあるだけの残酷な絵画『アッツ島玉砕』を出品した。戦意高揚のプロパガンダ絵画からは程遠いものであった。

 会場の『アッツ島玉砕』の前には賽銭箱(さいせんばこ)が置かれた。そして画伯自らがその横に立ち、賽銭が投じられるたびに頭を深く下げた。

 それは、美術展を借りての鎮魂。彼は、自分の絵画に対してではなく、絵画を通して戦死者への敬意が、会場へ足を運んだ人々によって、払われていることを知っていた。

 にもかかわらず、先の大戦後、藤田画伯は戦中に軍部の意向に沿って活躍した画家として誤解を受けた。

寄贈
1951(昭和26)年、65歳の時に、それまで手元から離さず大切にしてきた代表作『私の部屋、目覚まし時計のある静物』などをフランス国立美術館に寄贈した。これらの作品は、日本出国前に帝室美術館に寄贈しようとして断られたもの。スペインは、ピカソの『ゲルニカ』をニューヨーク近代美術館から取り戻したが、わが日本にはこのような氣概がない。

言葉
「自分は偽りのない人間のアダムになりたい。イヴを恋人にし、人間のいない動物植物だけの自然の楽園に、政治もなく、戦争もなく、機械文明もなく、ただのんびり暮らしたい」

 晩年、彼はこの環境を創り出していた。