82b5470b.jpg『企業は社会の公器』と言いなさった現パナソニックの創業者・松下幸之助氏は、自分たちの仕事は「世のため人のため」、貧を除き富をつくる人生至高の尊き聖業だと考えた。自然、自己にとらわれた経営、単なる商道としての経営の殻を破った方でもあった。

彼の言葉に耳を傾けてみよう。

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企業は社会の公器である。したがって、企業は社会とともに発展していくのでなければならない。企業自体として、絶えずその業容を伸展させていくことが大切なのはいうまでもないが、それは、ひとりその企業だけが栄えるというのでなく、その活動によって、社会もまた栄えていくということでなくてはならない。また実際に、自分の会社だけが栄えるということは、一時的にはありえても、そういうものは長続きはしない。やはり、ともどもに栄えるというか、いわゆる共存共栄ということでなくては、真の発展、繁栄はありえない。それが自然の理であり、社会の理法なのである。自然も、人間社会も共存共栄が本来の姿なのである。

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古来名将と言われるような人は、合戦に当たっては必ず「この戦いは決して私的な意欲のためにやるのではない。世のため人のため、こういう大きな目的でやるのだ」というような大義名分を明らかにしたと言われる。いかに大軍を擁しても、正義なき戦いは人びとの支持を得られず、長きにわたる成果は得られないからであろう。
これは決して戦の場合だけでない。事業の経営にしても、政治におけるもろもろの施策にしても、何をめざし、何のためにやるのかということをみずからはっきり持って、それを人びとに明らかにしていかなくてはならない。それが指導者としての大切な勤めだと思う。

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松下電器の仕事は、世の中に奉仕するためにあるので、奉仕しないような仕事なら、私どもの存在は許されません。すなわち、われわれは世の中に奉仕するという崇高な義務にもとづいて、仕事をやっているのでありまして、名誉とか成功とかいういわば私的な欲望から発しているものでは断じてないのであります。
今日わが社には、何百という代理店があります。何万という連盟店があります。またその背後には何千万という需要者があります。これらの人たちが、生活を高めるために物がほしいというとき、その物が現実に手に入らなかったならば、結局みんな貧困な生活に甘んじなければならないでありましょう。だから、その要望にただちに応えられるよう万般の用意をしておくということは、各業界、各業種、各職能を通じての大きな義務であり責任であると思います。いいかえますと、これは私どもが、大衆と見えざる契約をしていることになるのであります。

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広い土地広い土地を占有し、多数の人を擁している企業にとっては、地域社会や環境と一体化するというような心がまえをもって、これと調和しつつ、さらにはその発展に貢献していくことが強く求められると思います。いいかえれば、その地域社会から喜ばれるような企業にならなくてはいけないということです。
そのやり方についてはいろいろと考えられますが、基本的に大事なことは、やはりその地域社会にほんとうに溶け込み、一体となって、その発展に尽くしていくという心構えをもつことです。そういう基本の心構えをもちつつ、日々起こってくるいろいろな事柄に誠意をもって処していくならば、真に喜ばれる企業として地域社会と共存共栄しつつ活動していくことができると思います。

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天下の金・人・物を使う企業は、それに見合うだけの社会的プラスが、はじめから予想されていると考えるべきであり、それが十分にできないのならば、いさぎよく人と金を社会にかえして、他にもっと有効に活用してもらうことを考えた方がよろしい。
これは資本の多い大会社ほど厳しく要請されねばならない。かりにある大会社が、その経営規模にふさわしい適正な利潤を着々とあげておれば、国庫にも莫大な収入があることになり、それによって国民に大きな福祉を与えることになる。逆にその大会社が赤字を出したとしたら、政府もいろいろと援助しなければならない。これには多額の費用がかかるが、これはすべて国民の税金から出されるのである。差引き何と大きな国家的国民的損失であろう。
こんなことは、企業の社会的責任、使命からすれば、本当は許されないことだ。赤字を出すということは、企業の国家的国民的な罪悪だといってよろしいかと思う。

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松下幸之助氏には、昭和12(1937)年から昭和28(1953)年まで、良き軍師(※)が側にいらした。

加藤大観師である。師は真言宗醍醐寺で得度修業し、権大僧都になった高僧。
大正15年頃、フト思い立ち、以前から知っていた京都の大観師宅をたずねた。
それからは、迷いがあれば、師に相談し、意見を求めることが多くなった。

ある日、師が「あなたが承知してくれるなら、この庵を閉じて、あなたのために一生をささげたい」と言ったことを縁として、昭和12年12月、師夫妻を京都の松下邸に迎えた。その後1年余りして、師は会社の中に居を移し、以来昭和28年2月、満84歳でなくなるまで、毎朝夕2時間ずつ、幸之助氏の健康と会社の発展を祈って勤行し続けた。

松下幸之助氏は、師の助言通りに事を運ぶことはせず、
それを咀嚼(そしゃく)し、自らの見識を高め、決断を下した。

昭和48(1973)年11月27日、相談役に就任後初めての誕生日に、
大阪ロイヤルホテルで、「相談役様に対する感謝の会」が開かれた。

時はオイルショックの真只中、日本経済は混迷の度を深めていた。
松下氏は、次のように語り、全員に勇氣と決意を求めた。

「事に当たり、自分のことを考えるのは、力弱いことである。
平時ならいざしらず、今は非常時である。
国家社会の大事のためなら自分を無にする、
そういう考えをもってことに当たれば、必ず道は開ける」

(つづく)

感謝


(※注)軍師が昇天なさって数年経つと経営の神様と呼ばれたこの方は、師の教えを忘れたのか、尊敬される経営者にあるまじき行為が目立ってきたそうである。それは歴史家に解明して欲しい仕事の一つであり、証人も証言者も今なら確保できる。(以上)