dfe326e6.jpg妥協には2つある。

ひとつは、「半分のパンでも、ないよりはまし」。

もうひとつは、ソロモンの裁きの「半分の赤ん坊は、いないより悪い」との認識に基づくもの。

前者は50%の必要条件を満たす。
パンの効用(目的)は食用であり、半分のパンでも食用となるから。

しかし、半分の赤ん坊では人間としての必要条件を満たさない。
妥協にさえならない。

ドラッカー教授は、何が受け入れられやすいか、何が反対を招くから触れるべきでないかを心配することは無益であるばかりか、時間の無駄だと言う。

なぜなら、心配したことは起こらず、予想しなかった困難や反対が突然に対処しがたい障害となって現れるものだからである。彼は『経営者の条件』に次のように表現した。

「何が受け入れられやすいかからスタートしても得るところはない。それどころか、妥協の過程において大切なことを犠牲にし、正しい答えはもちろん、成果に結びつく可能性のある答を得る望みさえ失う」

「決定においては何が正しいかを考えなければならない。やがては妥協が必要になるからこそ、最初から誰が正しいか、何が受け入れられやすいかという観点からスタートしてはならない」

閑話休題(ソレハサテオキ)。

日本では、近年、歴代首相は貧困撲滅を公の場で発言していない。現代日本には、OECDの報告を待つまでもなく、間違いなく貧困層がいるというのに。

伝統的に、日本共産党のみが貧困問題を指摘し、救済を叫んできたために、

貧困問題=イデオロギー問題

として捉えられてきた。貧困問題を左翼の十八番(おはこ)と位置づけた軽佻浮薄な右派・中道派は、貧困問題を避けつづけてきた。

貧困問題は、近頃話題になった「格差社会」問題の延長線上にはあるが、本質は別物である。

年収1200万円と900万円、600万円と300万円では、所得格差は同じ300万円。

多様な考え方があり、格差は目的達成能力や努力の違いの結果で、この違いが生じるから社会が活性化するという格差是認論もありえる。

しかしながら、年収100万円では暮らしが成り立たない。

彼/女にとっては、最低限度の生活を営むことができないのだから、わたしたちはその存在を是認、黙認、または無視できない。

なぜなら、同じ人間であるから。

わたしたちの不安や悲しみを取り除くことに、お金を使いたい。

「貧困に苦しむ世帯を、4年以内に日本から撲滅します!」

スッキリとこう言い切る政党があってもいいのに…

貧困のどん底にいる人に、それは運命だから受け入れろ、などとは言いたくない。

自助力で登っていくための、梯子(はしご)に手をかけさせる、足をかけさせてやることが、わたしたち日本人の務めなのだ。

理由は、人間であるということだけで十分。

もう一度。

「何が受け入れられやすいかからスタートしても得るところはない。それどころか、妥協の過程において大切なことを犠牲にし、正しい答えはもちろん、成果に結びつく可能性のある答を得る望みさえ失う」


恵みの雨の札幌にて

感謝