昔、大学で政治学を専攻していたとき、恩師からこう質問された。

『Solidarity(連帯)とUnion(団結)では、どちらが重要ですか』

『 ・・・ 』と無言のわたしへ、

『must be Solidarity.』と笑顔で一言。

「連帯と団結」は「自由と平等」同様、一緒にできない別物。

スピノザは、宗教を概念装置として持ち込まずに、
「悪」を定義した偉人である。

彼は言う、

悪とは、人間の構成関係、連帯を破壊してしまうものだ。

例えると、悪は食中毒のようである。すなわち、
アダムが禁断の実を食べて、不幸になったのは、
神が禁止した実を食べたからではなく、食中毒になったからである。

禁断の実を食べる行為は悪ではなく、
その実が、アダムの体質に合わずに、消化不良(=不連帯)を惹き起こし、
不幸の原因となったのが「悪」である。

人間にとっては、この消化不良=不連帯の原因になるものこそが悪であると。つまり、人間の構成関係(連帯)を分解したり破壊したりするものこそ悪だと言う。

よって、スピノザの解釈では、犯罪行為の本質に悪は存在しない。
どのような行為であっても、連帯(人間の構成関係)を破壊しないかぎり悪ではないのだから。
スピノザ倫理学の本質がここにある。

論語にもこんな話がある。

楚の国王の葉公が孔子に自慢した。
「わたしの領内に正直者の躬という男がいて、自分の親が羊を盗んだのを、
 その息子が進んで役所に訴えましたよ」
孔子はこう言った。
「わたしの国の者は、そうはしません。親子は双方にかばい合います。
 この親と子の思いやりが正直に繋がると私は思います」

(葉公語孔子曰、吾黨有直躬者、其父攘羊、而子證之、孔子曰、吾黨之直者異於是、父爲子隱、子爲父隱、直在其中矣)

昨今の日本の政党政治家諸君の言動を垣間見ると、団結はしていても連帯意識が消えうせているのが見て取れる。日本で暮らすわたしたち市民は、連帯意識でつながっていたい。

笑顔の一日を。

感謝
Image190