この人生には色々なことがある。

時には勇猛果敢に難題に立ち向かう必要がある。
心血を注ぎ、命をかけることもあるに違いない。

でも、それは日常の無事を願えばこそのありかたで、
その願いなくしては、ただの無謀であり、蛮勇でしかない。

中国臨済宗の開祖・臨済義玄(806〜867)の言葉を弟子の慧燃(えねん)が記録した書物に『臨済録』がある。

このなかに「無事是貴人(ぶじこれきじん)」(お元氣ですね)と毎日使う挨拶語が「無事是れ貴人、但(た)だ造作することなかれ、祇(た)だ是(こ)れ平常なり」にでてくる。

「無事」とは、あれこれと思案をめぐらさないこと。消極的に何もしないのではなくて、積極的に「造作(ぞうさ)」をしない。難しく考えてしまい、疑心暗鬼に陥ることは意外と多いものだが、そんなことはしない。

「貴人」とは、外に向かってではなく自分のなかにあるもう一人の自分の真実を求める人のこと。あるがままの本来の姿に徹した人。

喫茶去


閑話休題(ソレハサテオキ)。

中国唐末に、趙州(じょうしゅう)禅師(778〜897)は120歳で昇天なさるが興味深い話が残されている。

ある日、趙州禅師のもとに若い雲水(修行僧)がやって来て、勢いこんで「仏とは何か」と質問をした。趙州禅師の答えは、ただ一言、

「喫茶去(きっさこ)」

であった。

「去」は助字で、前にくる動詞の意味を強めている。よって、「喫茶去」は「いいから先ず、お茶でも飲みなさい」という意味になる。

求道する若い雲水にとって、仏とは何かを追求することは必要なことなのだが、その「仏」ということに囚(とら)われ過ぎるなら、執着の心が起き、見えるものも見えなくなってしまう。

だからこそ禅師はそこで、「喫茶去」と若い雲水の執着の心をさとされた。

この趙州禅師は若い雲水の頃、南泉禅師のところに弟子入りを望んでいた。ある日、彼が道を歩いていると、向こうからその南泉禅師がやって来た。そこで、質問をした。

「如何是道(いかなるか、これみち)」

と。悟りの道へはどのように行ったらいいのですか、と。


「平常心是道(びょうじょうしんこれどう」

と返ってきた。

なんだかんだ言うよりも、「平常心」、自分の心を見てごらんということ。遠く手の届かないところに悟りの真髄はないのですよ。人は望むものは何でも、遠い自分の手の届かない見えないところにあると思うものだが、一番身近な自分の心の中にあるのだよとさとされた。

「平常心」を無風の静かで穏やかに澄んだ湖面のような心境と思いがち。しかし、そうならなくてはいけないと思い、あがいている心も「平常心」。落ち着け・落ち着け、見栄を張らない、素直に謙虚になるぞ、など諸々の「何々しなくては…」と悩む心も「平常心」。日々、生きているからこそ、あれやこれや姿を変える、そのあるがままの心が「平常心」。

今の「自分の心」=「平常心」。

茶飯事(さはんじ)にこだわることなく、
伸び伸びと人生を味わい一所懸命生きたいものだ。

道は四六時中、踏まれても怒らないし、
踏む人も踏んでいることを忘れている。


「平常心是道(びょうじょうしんこれどう」


朝陽を浴びながら。

笑顔のよき土曜日を

感謝