合衆国海兵隊が「環境への重大な影響はない」と結論付けた知識は、私たち民衆が日々の生活から得ている判断とかけ離れている。この場合の誠実な対応は、『私たちの知識は、環境への重大な影響があると結論づけました』と明快に知らせ、彼らに学びの機会を与えることだ。もし、彼らからの知識のみを無防備に受け入れることが誠実な姿だと思うなら、誤っている。それは隷従である。

オスプレイ:ハワイの訓練を中止 環境への影響を考慮
(毎日新聞 2012年08月23日02時33分(最終更新08月23日08時38分)
 米政府がハワイ州の2空港で予定していた垂直離着陸輸送機MV22オスプレイの着陸訓練計画を取り下げていたことが22日までに分かった。空港周辺の歴史的遺産に与える影響や騒音に関する住民意見などを考慮したため。米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)への配備のために実施した環境審査では地元や住民の意見を聞く機会はなく、米国内への配備手続きとの違いが浮き彫りになった。 
 日米関係筋などによると、米海兵隊は18年までに、ハワイのカネオヘ基地にオスプレイ24機を配備する計画。これに先立ち、米海軍省は10年8月から国家環境政策法などに基づき、環境影響評価(アセスメント)を実施した。
 海軍省はアセス草案でモロカイ島のカラウパパ空港、ハワイ島のウポル空港での着陸訓練計画を提示した。住民や他省庁からは、カラウパパ空港周辺の米国立公園局指定の歴史的遺跡に対する影響やウポル空港周辺の騒音被害を懸念する意見が相次いだ。
 これを受け、海軍省はアセス最終評価で、両空港での着陸訓練計画を取り下げる意向を表明した。今月に策定したアセス決定書でも「MV22の下降気流がカラウパパ空港に隣接する考古学的資源に与える潜在的影響を考慮」するとして、訓練から同空港を除外することを決めた。ウポル空港についても、海兵隊とハワイ州側の計画合意書で、緊急着陸などの使用に限定することが明記された。
 米国では今年6月、ニューメキシコ州のキャノン空軍基地に所属するCV22オスプレイの低空飛行訓練も、環境アセスに対する住民意見を受けて延期されている。
 米海兵隊は普天間へのオスプレイ配備に向け、今年6月、大統領令などに基づく環境審査結果を公表。カラウパパ、ウポル両空港で取り下げられたのと同種の着陸訓練を伊江島補助飛行場(沖縄県伊江村)などで計画していることを明記し、「環境への重大な影響はない」と結論付けた。同環境審査には、住民意見を募る手続きはない。【朝日弘行】
オスプレイの訓練計画を中止したハワイの2空港
http://mainichi.jp/select/news/20120823k0000m010106000c.htmlより転載

私たち民衆の生活を守ることを最優先にすべく、合衆国の軍隊の知識を更新したいものだ。知識を提供し、彼らを教育する見識と胆識(勇氣)がわが国の独立不羈を約束する。最も、オスプレイの沖縄配備に日本国として断固、反対し続けていれば、伊江島補助飛行場での着陸訓練は計画されなかったのだが・・・。


閑話休題(それはさておき)


67年前の昨日、1945年8月23日、 内務省は「進駐軍を迎える国民の心得」を諭告している。女性に対し、新聞等を通じて、「日本女性の心構えとして、日本の女子は日本婦人の自覚をもち外国軍に隙を見せてはいけない、ふしだらな服装は禁物である」、「駐屯地付近の婦女子は夜はもちろんのこと、昼間でも人通りの少ない場所の一人歩きをしないよう」等の指示・警告がなされた。一方で、数日前まで民間人に辱めを受けるよりは自決を強要していた国家権力が、連合軍を鬼畜米英と呼んで戦意を煽ってた国家権力が、合衆国兵に対し国営売春施設を設けるという政策を日本の婦女子を守るという名のもとで実施した。ヨーロッパの戦場で、合衆国軍のレイプにあった女性たちの実態が伝わっていたのかもしれない。被害者は14,000人、内ドイツ人女性 11,040人という記録がある。(Taken by Force: Rape and American GIs in Europe during World War II・ J Robert Lilly 著・12頁

敗戦(戦争停止発令)から3日後の18日、警視総監・坂信弥が中心になり、都内の芸子置屋同盟、貸座敷組合、慰安所連合会などの売春関連産業との打ち合わせを終え、内務省は各地方へ「外国駐屯軍慰安設備に関する整備要項」を行政通達した。これをベースに26日、連合国軍(合衆国軍)兵士向けの売春婦(慰安婦)のいる慰安所である「特殊慰安施設協会(RAA:Recreation and Amusement Association)」が設立された。

この協会の資本金は1億円で、その内の5,500万円は大蔵省の保証により管業銀行が融資している。後の総理大臣であり、当時の大蔵省主税局長であった池田勇人は資金の調達に尽力した。建設に必要な資材や営業に必要な生活什器、衣服、布団、約1,200万個のコンドームは東京都と警視庁が現物提供した。

「新日本女性に告ぐ! 進駐軍慰安婦の大事業に参加する新日本女性の協力を求む。事務員募集、年齢18歳以上25歳まで。宿舎、被服、食糧など完全支給」「戦後処理の国家緊急施設の一端として駐屯軍慰安の大事業に参加する"新日本女性"の率先参加を求む。女子事務員募集、年齢18才以上25歳まで。宿舎、被服、食料全部当方支給 — RAA」というような慰安婦募集宣伝が、8月31日の朝日新聞を皮切りに、以後、各新聞に同様の募集広告が次々に掲載された。また街頭ではチラシを配布し、銀座などに広告板を設置して慰安婦を募集した。一日あたり約300人が応募したが、大半は仕事の実態を聞いて去っていった。しかし、働くことを決めた者たちもいた。

RAAには、モンペ姿やセーラー服の少女が、東京だけで1,000人の募集に4,000人が応募してきた。そのなかには食料支給という言葉につられて集まってきた女性が多かった。そして1,360人が慰安婦として働くことになった。彼女らは戦争によって配偶者を失った未亡人もいたが、応募者の半数近くは処女だったと言われている。焼け野原の東京で餓死しないため、生きるためであった。「応募すれば衣食住が満たされる」、この条件は彼女たちにとって生きるための必要条件であったことは言うまでもない。応募した女性の多くが、素足のままであった。全国で4,000人が募集されたが、慰安婦を志望した彼女たちは「昭和の唐人お吉、日本民族の血統を守る人柱」と訓辞された。RAAは国家政策としてきわめて真面目なもの(※注)と考えられ実施された。結果、RAAは、日本政府の予想とおり合衆国兵が列をつくるほどの大繁盛となった。最盛期には都内だけで国営売春施設は20カ所以上、全国では7万人の慰安婦が働いていた。(ひとりの慰安婦が取る一日の客数は30〜50人であった) 彼女たちの6割が梅毒など何らかの性病に罹患した。彼女たちは進駐軍の毒牙から婦女子を守るための防波堤と見なされた。

※注)参考:『被占領心理 肉体の戦士R.A.Aと官僚的「合理性」』・川島高峰明治大学政治学研究室http://www.isc.meiji.ac.jp/~takane/ronbun/hisenryou.htm

進駐軍(合衆国兵)の不法行為は慰安所の開設後も数多く発生した。最初に合衆国軍が横須賀に上陸した1945年8月30日に早くも強姦事件が起きている。特別高等警察はこれらの不法行為を解散命令が出た1945年10月4日まで調査を続け、内務省警保局外事課より「進駐軍ノ不法行為」として文書化された。この合衆国にとって不名誉な文書は一旦没収されたが、1973年12月に日本へ返却、翌年1月より国立公文書館に所蔵された。(『敗戦前後の社会情勢:第7巻 進駐軍の不法行為』・現代史料出版) 神奈川県下だけで最初の10日間に、1,336件の強姦事件が発生したとの記録もある。(Schrijvers, Peter著、2,002年・ The GI War Against Japan. New York City・ New York University Press・212頁

1946年1月にGHQは日本政府に公娼制度(貸座敷・娼妓)の廃止を求め、3月27日に「公娼廃止に関する覚え学」を出し、すべてのRAAが廃止された。前アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルト夫人エレノア・ルーズベルトの反対、性病の蔓延が理由であった。売春行為そのものを反民主主義、反人道主義的行為とする合衆国世論の広がり、そして合衆国に帰った兵隊たちの妻や母親から性病に冒されているとの抗議がGHQに殺到したのであった。慰安婦の失業した彼女たちへの補償は無かった。強制的なものでもないし、給与が払われていたこともあり、日本国から彼女たちへの保障は現在まで全く行われていない。

RAAが廃止される前の強姦事件と婦女暴行の数は、1日平均40件であった。廃止後、1946年前半の1日平均数は330件に増えている。(Svoboda, Terese. "Race and American Military Justice: Rape, Murder, and Execution in Occupied Japan". The Asia-Pacific Journal,Japan Focus.)

多くは街娼、水商売等に進んだと言われる。国家管理の売春が自由意志の売春に姿を変えたのだ。街頭に放り出された彼女たちは、手に職もなく、もぐりの売春婦となり、街に立った。「パンパン」「パン助」「オンリー」「夜の女」「闇の女」等の軽蔑と羨望がミックスされた俗称で呼ばれた彼女たちの相手は、自然、占領軍から日本人へとシフトしていった。

性風俗が悪化するのを回避したい政府は、1946年11月4日、「接待所慰安所等の転換措置に関する通達」を出した。特殊飲食店等の地域を限定して設け、社会上やむおえない社会悪として売春を黙認する政策を実施した。特殊飲食店は風紀上支障のない地域に限定し、売春を地区で認めるようになった。娼家は特殊飲食店・「カフェー」に、娼婦は「女給」と名前を変え、売春が行われた。戦前から政府公認の売春ゾーンが「赤線」と呼ばれたのは、警察の地図上に赤い線で囲まれていたからであった。1945年9月現在、東京では吉原・州崎・新宿・立川・小岩・向島など16カ所が赤線の指定を受け、全国では662カ所が指定され、娼婦は49,000人いた。公認の「赤線」に対して、非公式に売春行為をおこなう場所は「青線」と呼ばれた。

1955年「売春白書」によれば、全国の売春地区(赤線)は1,921カ所で売春婦は約50万人であった。いかに加速度的に数が増えたかがわかる。これは組織売春に限られた統計であるから、カウントされないフリーの売春を含めるならば、売春婦の数はこれ以上になるだろう。(ひとりの売春婦が一日にとる客数は平均2〜4人とされている) 生活苦が理由で売春を始めたにもかかわらず、組織で働く彼女たちの手取りは3割で、残りの7割は搾取されていたのだから、生活苦からの解放を手にしたものは多くはなかった。

売春防止法が施行される1958年4月1日まで、「赤線」での公認売春は続けらえれた。

菊池章子が歌う「星の流れに」( 清水みのる 作詞、利根一郎 作曲)。作詞した清水は、敗戦して間もない頃、東京日日新聞(現在の毎日新聞)に載った女性の手記を読んだ。もと従軍看護婦だった彼女は、奉天から東京に帰ったが、焼け野原で家族もすべて失われたため、「夜の女」として生きるしかないわが身を嘆いていたという。清水は、戦争への怒りや、やるせない氣持ちを歌にした。こみ上げてくる憤りをたたきつけて、戦争への告発歌を徹夜で作詞し、作曲の利根は上野の地下道や公園を見回りながら作曲したという。テイチクではコロムビアから移籍したばかりのブルースの女王・淡谷のり子に吹き込みを依頼したが、「夜の女の仲間に見られるようなパンパン歌謡は歌いたくない」と断られた。そこで、会社は同じくコロムビアから移籍していた菊池に吹き込みを依頼した。彼女は歌の本心を知り、戦争の犠牲になった女の無限の哀しみを切々と歌い上げた。完成した際の題名は『こんな女に誰がした』であった。しかし、GHQから「日本人の反米感情を煽るおそれがある」とクレームがつき、テイチクは題名を『星の流れに』と変更し発売した。


大きな笑顔の良き週末を

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