竹島の領有権問題などに関して野田首相が李明博大韓民国大統領宛てに送った親書(レター)を、23日にサウス・コリア外交通商省は在日サウス・コリア大使館員(メッセンジャー)を日本の外務省に送り、直接、手渡しで返すつもりであった。しかしながら、わが外務省は、メッセンジャーが持って来たレターの受け取りを拒否。聞くところでは、玄葉外相(48歳・福島県生)の指示だそうだ。暑い最中に、レターを返すために来た若い紳士を門前払いしてる様子がニュースで流された。彼を招き入れ、冷たい麦茶でも差し上げて、労をねぎらう器量も度量も発揮されなかった。外相は、「わが国の外交の品位を考える」方のようだが、器ではないらしい。彼が尊敬する石橋湛山やウインストン・チャーチルなら、メッセンジャーにお茶の一杯ぐらいは出させただろう。その後、レターは書留郵便で外務省に送り返され、結局、受け取るのであった。「わが国の外交の品位を考える」なら、先読みして、スマートに参りたいものです。

その昔、1868(明治元)年12月19日、明治新政府の使節で対馬藩家老の樋口鉄四郎らが、明治新政府の樹立を李氏朝鮮に通告する為に釜山浦に入港した。(李氏朝鮮は、1392年から1910年まで続いた朝鮮半島の最後の王朝) しかしながら、大院君政権下であった朝鮮は、日本使節が持参した『国書』の受け取りを拒否した。その理由は二つあった。ひとつは、文面に「皇上」「奉勅」の文字が使われていたから。もうひとつは、署名・印章ともにこれまでの徳川幕府のものと違っていたからであった。

李氏朝鮮は、「皇」は中華(清朝)皇帝にのみ許された呼称であり「王の国が皇を使うとは何だ、無礼だ」と受け取った。「勅」は中華の皇帝の詔勅を意味した。朝鮮王は中華皇帝の臣下ではあるが、日本国王(彼らは今も「日王」と呼ぶ)の臣下ではないので、この文字を使っている国書を受け取ることは出来ない、と考えた。そこで、明治新政府は、以後、度々使節を送って釜山での交渉を一年余り続けた。しかし、李朝は一貫して、文書の表現や形式がこれまでの慣例とは違うことを理由に、日本国書の受け取りを拒否し続けた。この状況が、大日本帝国に「征韓論」を浮上させる契機となった。世論を背景に、明治政府は砲艦外交に打って出る。1875(明治8)年、大日本帝国は雲揚などの軍艦を派遣し、釜山や江華島などで砲撃戦を行った。コリアが、大日本帝国による朝鮮侵略の始まりと主張する事件である。ここに清朝が仲介し、翌1876年に日鮮修好条約が調印された。

さて、朝鮮通信使(1607〜1811年に12回)が書いた『日東壮遊歌』(東洋文庫662・平凡社・1999年)の道中記は興味深い。大坂での記述には、当時の日本では高貴な家の婦女子が厠へ行くときはパジ(ズボン状下着)を着用していないので立ったまま排尿し、お供のものが後ろで絹の手拭きを持って立ち、寄こせと言われれば渡すと聞いて驚きあきれる話が見られるが、総じて日本の進んだ文化と社会体制への嫉妬と羨望が描写されている。現在、サウス・コリアの歴史教科書では歴史的事実を誇張・歪曲して「文化先進国の朝鮮と文化劣等国の日本」という自民族優越主義的な記述が見られ、サウス・コリア社会に広がる「コリア起源説」の温床になっている。『日東壮遊歌』を日本とサウス・コリアとのより良い教育環境形成のひとつとして活用したいものだ。


閑話休題(それはさておき)


8月18日に李明博大韓民国大統領が竹島に上陸した後、即座に野田首相は青瓦台(チョンワデ・大統領府)を訪ね、対面で話し合うというアクションをとらなかった。そのツケが今、回ってきている。「上陸」というアクションには、「Emergency visit(緊急訪問)」というアクションで対応できたものを、もったいない。野田首相の祖父は朝鮮半島で生まれ熊本県天明町に移住した方だというから、先祖の話でもしながら大阪府中河内郡加美村(現大阪市平野区加美南3丁目)の「島田牧場」の社宅で生まれた李大統領(日本名は月山明博・つきやまあきひろ)と膝を交えた対話が出来たに違いない。両人の度量と器量のなさが、それを不可能にしたのだろう。

急遽訪問して対話することを省略して、野田首相は李大統領宛の親書(レター)を送ることを考えた。李京秀(イ・ギョンス)駐日大韓民国大使館政務公使は「ちょっと来てほしい」という通知を受けて外務省を訪ねたところ、杉山晋輔アジア大洋州局長がいきなり封筒を差し出したという。それは密封され複写本が貼付されていなかった。複写本による内容の事前確認ができなかった。彼らが開封して内容を確認する前に、日本外務省のホームページにはレターの要旨が公開されてしまった。外交慣例上の非礼に当たるだろう。

平成24年8月17日
1. 本17日(金曜日)、野田佳彦内閣総理大臣は、李明博(イ・ミョンバク)大統領に対し、最近の同大統領の竹島上陸及び日韓関係に関する種々の発言について遺憾の意を伝えるとともに、近日中に、韓国政府に対し、竹島問題について、国際法にのっとり、冷静、公正かつ平和的に紛争を解決するための提案を行う旨伝え、また、日韓関係の大局に立って、日韓関係の未来のため、韓国側が慎重な対応をするよう求める旨の書簡を発出しました。
2. 同親書は、17日午後、杉山晋輔アジア大洋州局長が在京韓国大使館李京秀(イ・ギョンス)公使に手交し、転達方依頼しました。


慣例上、首脳間のレターは内容を公開しないものだが、上記のごとく公開している。さらに、恥ずかしいことに、野田首相のレターは日本海を渡ることもなく、東京の駐日韓国大使館から郵送で送り返されたのであった。送り主は、青瓦台(韓国政府)でも外交通商部(韓国外務省)でもなく、駐日韓国大使館であった。玄葉外相がレターを再送しない理由は、「わが国の外交の品位を考える」からだと説明しているが、実は自らの無知を恥じた結果なのかもしれない。

参照:外務省・野田総理発李明博(イ・ミョンバク)大統領宛親書の伝達

今回のサウス・コリア側の対応で明瞭になったことは、わが国との友好的外交関係よりも竹島の占有及び領土化がサウス・コリアにとっては最優先事項だということ。朝鮮半島地域は国連軍の監視下にあり、有事の際の戦時作戦統制権は米韓連合司令部にある。今年4月に在韓米軍司令官からサウス・コリア軍に移管される予定であった戦時作戦統制権は2015年12月1日まで延期となった。だからサウス。コリア単独で日韓戦争のシナリオを描くことはできない。しかし合衆国がゴーサインを出すならば可能となる。なにがなんでも、戦争は避けたい。だから、外交をするのだ。その外交が出来ない両国首脳には、日韓平和維持のために一刻も早くご退場願いたい。

日韓に関わる領土問題の曖昧さは、日本と合衆国(連合国)のサンフランシスコ講和条約(1951年9月8日調印・1952年4月28日発効)中に、日本が放棄する朝鮮に含まれる領域に竹島の文字がないことに起因している。合衆国側は竹島を日本の領域内に入れるためにこの措置を行ったのだが、その方針は合衆国の利害を考え、日本による領土主張を受けたウイリアム・シーボルト(William J.Sebald)の勧告がきっかけであった。シーボルトは占領下の東京に派遣されていたGHQ外交局長で、合衆国駐日政治顧問であった。

ところで、昨日の野田首相の記者会見で氣になることがあった。ダブルスタンダードの問題である。竹島の領有権問題で国際司法裁判所(ICJ)への共同提訴を提案しているが、尖閣の件ではチャイナとICJへの共同提訴を提案していないところだ。一貫性に関する説明が今後、求められるかもしれない。

さあ、慎重に笑顔で参りましょう。

感謝

(追記)
チャーチルのインド人嫌悪、歴史的飢饉の原因に 印新刊が告発
(AFP 2010年9月11日 14:25 発信地:ニューデリー/インド)
【9月11日 AFP】第2次世界大戦中の英首相ウィンストン・チャーチル(Winston Churchill)が、インド人に対する人種的嫌悪感から、飢饉にあえぐインドへの援助を拒み、数百万人を餓死に追いやったと主張する本が出版された。
 第2次大戦中、日本軍がインドへのコメの主要輸出国だった隣国ビルマを占領した後も、英国人が支配する植民地総督府は、兵士や軍需労働者にしか備蓄食糧を開放しなかった。パニック買いでコメ価格は高騰。また日本軍が侵入した場合に植民地内の輸送船や牛車が敵の手に渡ることを恐れた総督府は、これらを押収したり破壊したりしたため、流通網も破壊された。
 こうして1943年、「人為的」に起きたベンガル飢饉では300万人が餓死し、英植民地インドにおける暗黒の歴史となっている。インド人作家マドゥシュリー・ムカージー(Madhusree Mukerjee)氏(49)は最新刊『Churchill's Secret War』(チャーチルの秘密の戦争)で、この大飢饉の直接的な責任はチャーチルにあることを示す新たな証拠を暴いたと語る。

■度重なる支援要請を拒否
 第2次大戦の英政府の閣議記録や埋もれていた官庁記録、個人的なアーカイブなどを分析した結果、当時、オーストラリアからインド経由で地中海地域へ向かう航路の船は輸出用のコメを満載していた。しかし、チャーチルは緊急食糧支援の要請をことごとく拒否し続けたという。
 ムカージー氏は「チャーチルに対策が無かったわけではない。インドへの援助は何度も話にあがったが、チャートルと側近たちがその都度、阻止していたのだ」と指摘する。「米国とオーストラリアが援助を申し出ても、戦時下の英政府がそのための船を空けたがらなかった。米政府は自国の船で穀物を送るとまで申し出たのに、英政府はそれにも反応しなかった」

■強烈なインド人嫌悪
 チャーチルはインド人を蔑む言葉をよく口にしたという。チャーチル内閣のレオ・アメリー(Leo Amery)インド担当相に対して、「インド人は嫌いだ。野蛮な地域に住む汚らわしい人間たちだ」と述べ、またあるときは、飢饉はインド人自らが引き起こしたもので、「ウサギのように繁殖するからだ」とののしった。
 特にインド独立運動の指導者マハトマ・ガンジー(Mahatma Gandhi)について「半裸の聖者を気取った弁護士」だと愚弄(ぐろう)し、援助を求める総督府の英高官らに対し、「なぜガンジーはまだ死んでいないのか」などと返答したという。
 ナチス・ドイツと戦う指導者として歴史に名が残るチャーチルだが、アメリー担当相はチャーチルのあまりの暴言に、ある時ついに「首相とヒトラーの考え方に大きな違いがあるとは思えない」と直言したこともあった。

■インド史から消された災厄
 チャーチルの伝記はこれまでに数え切れないほど執筆されているが、ムカージー氏の新刊は新情報を発掘したという意味で画期的な成果だと、著名な歴史ジャーナリストのマックス・ヘイスティングス(Max Hastings)やインドの作家たちが称賛している。
 ムカージー氏は「チャーチルを攻撃しようと思って調査し始めたわけではない。ベンガル飢饉について調べていくうちに徐々に、チャーチルが飢饉で果たした役割が浮かび上がってきた」と言う。
 現在はドイツ人の夫とともに独フランクフルト(Frankfurt)に在住しているインド出身のムカージー氏は、ベンガル飢饉については小学校の教師からも両親からも習ったことはなく、インドの歴史からも消去されてきたと批判する。それは「インド社会の中流に、罪の意識があるからだ。彼らは(総督府下で)仕事に就いていたから、つまり配給を割り当てられていた。けれど田舎の人間はいなくなっても構わないとみなされたのだ」
 7年の歳月をかけて執筆したムカージー氏は、インド奥地の村々に散るベンガル飢饉の生存者から生々しい話を取材で聞くにつれ、チャーチルに対する強烈な批判意識が生じたという。「彼がよく批判されるのは、ドイツ市民に対する爆撃についてだが、ベンガル飢饉でこれだけ多くの犠牲者が出たことついて直接の責任を問われたことはまったくない。しかし、これこそがチャーチル最大の汚点だと思う」(c)AFP/Ben Sheppard

(追記) このような人物を政治家として尊敬できるのは、彼/女の無知がそうさせるに違いありません。
映画『ウィンストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男』は10億人の人の歴史を踏みにじる
(by Bedatri Datta Choudhury BuzzFeed Contributor 公開 2018年5月12日)
英国で政治家チャーチルを描いた映画がヒットした。だが英国に植民地として支配された歴史を持つインドから見れば、チャーチルは何百万人ものインド人を餓死させた人種差別主義者とうつるのだ。

 私の実家では、食べ物の好き嫌いを言ってはならない。「この食べ物をつくるために、誰かが時間と労力をかけているのよ」と母に昔から教えられてきた。
 私たちの家では、食べ物を無駄にはできない。自分が食べるものに、他の誰かが費やしてくれた時間と労力をありがたく思うことは、誰もがすること、あるいはすべきことだろう。
 しかし、私の家族がテーブルに乗っている食べ物に感謝する理由は、もっと深いところにある。私の両親は、インドとパキスタンの分割とそれに続く混乱と飢饉を経験し、そのトラウマを抱えながら生き抜いてきた。
 彼らは、飢えた人々が虫けらのように死んでいくのを見てきた。彼らにとって、そして、そのような両親に育てられた私にとって、食べ物とは「権利」ではなく、常に「恩恵」だった。
 私はこう言われて育ってきた。「私たちは最悪の飢えを見て、生き延びた。お前はそういう親を持つ子なんだよ」と。だから、私は決して食べ物を無駄にできないし、これからもしない。
 映画『ウィンストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男』(原題:Darkest Hour、日本公開は2018年3月30日)のはじめの方に、チャーチルが朝食を取るシーンがある(ゲイリー・オールドマンの演技は素晴らしかった)。
 スクランブルエッグ、薄切りのベーコン、シャンペンとスコッチウィスキーが、クリスタル製の塩入れや胡椒入れ、磨きこまれたカトラリーと一緒に、銀のトレーに乗っている。時は1940年。チャーチルが首相になろうとする頃だ。手紙を口述筆記させながらイライラしたチャーチルは、その豪勢な朝食を脇へ押しやり、葉巻を吹かし出す。その朝食にはおそらく二度と手をつけないのだろう。
 この男がその3年後、現在のインド東部からバングラデシュにかけて広がるベンガル地方で300万人が餓死した、ベンガル飢饉を引き起こしたのだ。
 私の家族にとって、そして、ベンガル周辺の多くの家族にとって、食べ物との関係は、ベンガル飢饉にまでさかのぼる。75年たった今の時代に生きる私も、食卓にのぼる米に感謝の気持ちを持つ。
 ベンガルの人々は非常に長い間、自らが栽培した米を、イギリスの軍隊や市民を養うためにすべて取り上げられていた。イギリスによる食料の徴収は、世界の歴史でも最悪の飢饉の1つを起こすほどひどかった。
 飢えの軌跡を辿れば、非常に明確な支配構造が見えてくる。
 私たちは何百万人もの同胞を飢えで亡くしたが、このことが書籍で語られることはほとんどない。一方、パンやジャガイモが配給されていた時代のヨーロッパでの苦労や困難の話は、様々な場面で聞こえてくる。
 私の世代はそれほどの規模の飢饉を見たことがないし、おそらく、そうした飢饉を生き抜いた人のトラウマを表す語彙も表現も持ち合わせていない。しかし、世代を超えて語り継がれてきた当時の話を、誰もが聞いて育ってきた。
 友人の祖母は友人に、飢えた男性が「米を恵んでくれ」と訪ねてきたときのことを語った。祖母は急いで台所に行き、すでにかなり制限されて少なかった配給の貯えの中から、少し分けてやろうとした。しかし戸口に戻ってくると、男性は亡くなっていたという。友人の祖母に会ったことはないが、私の祖母も昔から、食べ物を分けてくれと頼まれたら決して拒んではいけない、と言っていた。

礼節は消え、信頼は壊れ、約束は無視される。すべて、一握りの米のために。
 チャーチルは1896年、イギリス陸軍軽騎兵第4連隊の少尉としてインドに赴任した。
 彼がインドを、「俗物と退屈なやつだらけの、神のいない土地」と形容したことは有名だ。イギリスの首相となったチャーチルは1943年、ベンガル沿岸の農業地帯のほとんどを空軍基地に変えさせた。日本軍から植民地を守るためだ。
 映画『遠い雷鳴』で、ベンガルの田舎にある黄色と緑の肥沃な田が、ゆっくりと消えていくシーンを見たことを覚えている。まずは、灯油が足りなくなる。そのあと、すべてが壊れていく。礼節は消え、信頼は壊れ、約束は無視される。すべて、一握りの米のために。
 子どものころ、祖父母からいろいろな話を聞いた。当時物騒だったカルカッタ(現コルカタ)で、米を炊いたあとに捨てる余ったゆで汁のでんぷんを食べさせてくれと頼んで回る物乞いのことを。街の路上では、そうした人々が何千人も死にかけていた。チャーチルが、穀類を運ぶオーストラリアの船に、ベンガルを迂回させたからだ。
 ビルマにいた私の大おじと大おばは、飢えと渇きに苦しむこうした地域を通り抜け、故郷の町ノアカリ(現在はバングラデシュ)まで、ほとんどの道のりを歩いて帰ってきた。ようやく故郷にたどり着いたものの、大おじは疲労とトラウマから立ち直ることができなかった。
 別の友人は、皿の上の米は1粒も残さず食べるよう言われて育った。彼女の祖母は飢饉を生き延びたが、「明日、目が覚めたら何も食べるものがないかもしれない」という恐怖を決して拭い去ることができなかったのだ。飢饉が最悪の状態となったのは、彼女の祖母が17歳のとき。友人にその話を語っていたのは、70歳くらいのときだった。

この男は私たちにとってのヒトラーだ。
 カルカッタでは、イギリスがつくった社交クラブが栄え、チョウリンギー通りの中心地には新しいレストランが次々にできた。その一方で、地方の女性たちは売春をするようになった。
 親は娘を売り、生き残った家族は金もなく、死者の魂を弔う気力もなかった。私のおばは、子どもたちを食べさせるために売春をする母親たちの話や、子どもたちを満足に食べさせてやれない申し訳なさに耐え切れず、子どもたちを殺してしまった父親の話をする。
 山と積まれた死体が、キツネや犬に食べられているころ、膨大な餓死者が出ているという知らせがチャーチルに届いた。しかし彼は、飢饉はインド人が「ウサギのように子どもを産むこと」に対する代償だと言ったという。
 チャーチルの答えは、「なぜガンジーはまだ死なない?」だった。
 このときチャーチルは、インドから食料をむしり取りながら、インド人兵士がたくさんいる英国陸軍を統率していた。
 ヒトラーと戦い、反ヒトラーの道徳性を称える一方で、彼自身はベンガルの飢饉につながる政策をとり、その政策を喜んでいた。インドの人口を「気持ちよく」間引けるからだ。
 この男は私たちにとってのヒトラーだ。
 だが、この男への憎悪は、世界のどこに見られるというのだろう?
 その代わりに、チャーチルを描いた映画『ウィンストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男』は2018年1月、アカデミー賞6部門でノミネートされた。
 2017年に公開された『ダンケルク』(こちらはアカデミー賞8部門にノミネートされた)は、「白人ばかりの連合軍」という嘘で虚飾された映画だった。
 同様に、『ウィンストン・チャーチル』の脚本家は、映画の中のあるシーンを勝手に丸ごと、完全に都合よくつくり変えてしまった。
 チャーチルがロンドンの地下鉄に乗るシーンだ。首相が現れたことに驚いて立ち尽くす乗客たちに、チャーチルは、戦争についての意見を求め、彼らが和平交渉という案を拒絶するのを聞く。チャーチルは「古代ローマの歌」の勇壮な詩を暗唱し、その詩を黒人男性が締めくくる。そしてチャーチルは彼とハイタッチするのだ。
 しかし、ジョー・ライト監督が時代設定をあと数年遅くしていたら、おそらくチャーチルには、ベンガルの飢えた人々のための食料供給所で料理をさせたはずだ。  
 
イギリスは、自分に嘘をつこうとする中で、10億の人々の歴史をないがしろにする物語をつくっている。
 チャーチルは、有名な人種差別主義者だった。
 彼の頭の中にある進化論的な人種のピラミッドでは、白人のプロテスタントが最上部を占め、最下層はアフリカ人。ユダヤ人とインド人はその上だったという。このことは、多くの歴史家や知識人たちが書いてきたことで、ごく最近では、国連事務次長を務めたこともある作家のシャシ・タルールが、『Inglorious Empire :What the British Did to India(不名誉な帝国:英国はインドに何をしたのか?)』に著している。
 私はもちろん、チャーチルを英雄化し、ベンガル飢饉については何も触れずにいるこの映画(『ウィンストン・チャーチル』)には不満がある。
 しかし、もっと怒りを感じるのは、この映画がでっち上げようと決めたこのエピソードについてだ。
 チャーチルが黒人男性とハイタッチし、「古代ローマの歌」を暗唱して絆を深めるシーンによって、ただの戦争屋を人間味あふれる人物にしてしまうことは、単に歴史を歪曲しているだけでなく、素知らぬ顔で嘘をつくことにもなる。
 私は、ベンガルから何千マイルも離れたニューヨーク市内の映画館でこの映画を見ながら、自分の国の歴史について、その中でこの男が果たした役割について、私が知っていることすべてが揺らぐのを感じた。間違った認識を刷り込まされ、狂わされている感じだった。
 祖母の記憶、私たちが聞きながら育った話、子どものころから食べ物に対して感謝を持ってきたこと、そうしたことすべてが捻じ曲げられていたのだ。
 映画と文学を学ぶ人間として、歴史フィクションというジャンルのことは理解しているし、その限界もわかっている。私たちは何十年もかけて、ポストコロニアル理論(植民地主義や帝国主義に関わる文化・歴史を広範囲に取り扱うもの)を読み、何も語られていない歴史の境界から、物語を掘り起こそうと努めてきた。
 それなのに、私たちから搾れるだけ搾り取って去っていった70年後に、また別の白人男性が、映画館に座る私たちに向かって、イギリス人は君たちにとって実にいい人たちだったと語りかける。イギリス人には英雄しかいない、と語りかけるのだ。
 イギリスにとっては、チャーチルのような独裁者を英雄化し、輝ける過去の物語をつくり上げることが実際に必要だということはわかる。EU離脱問題に揺れる今の時代ではなおさらのことだ。恥ずべき暴力の上につくられた国には、称えるべき歴史が必要だ──実際には、称えるようなことをたいしてしてこなくても。だから嘘をつく。
 しかし、重大な国民的アイデンティティの危機に直面しているときに、戦争屋で人殺しでもある人物を、人間味あふれる人物に仕立てて、国民的英雄にしようとすることと、2世紀の間苦しめられてきた植民地の辛い歴史の真実を覆い隠してしまうほどの大きな嘘を、不道徳にもでっち上げることは、次元の違う話だ。
 イギリスは、自分に嘘をつこうとする中で、10億の人々の歴史をないがしろにする物語をつくっているのだ。
 もちろんそれは、今に始まったことではないのだが。

この記事は英語から翻訳されました。翻訳:浅野美抄子/ガリレオ、編集:BuzzFeed Japan

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