デジデリウス・エラスムス(1466〜1536)が1509年に執筆して、『ユートピア(1516)』の著者であるトマス・モア(1478〜1535)に捧げたラテン語による諷刺文『痴愚神礼讃』(Moriae encomium / Stultitiae Laus)は、教会や聖職者から敵視されて発禁処分を受けた。

時代はルター(1483〜1546)による宗教改革運動の萌芽が見え始め、やがて1517年のカトリックとの断絶へとシフトした。他方、腐敗したカトリックの建て直しも課題としてクリスタライズされていた。エラスムスは宗教の腐敗を嘆いた教養人のひとりではあったが、カトリックを否定する道ではなく、人間的な宗教として復活させたいと願っていた。

痴愚神というカトリックの女神に自賛させたが為に、『痴愚神礼賛』はカトリックの内部批判書であると受け止められてきた。救いと快楽を金銭を代償にして与えるという当時のカトリック教会の腐敗したあり方をクリスタライズした書であると見た人は多かった。しかしながら、ミハイル・バフチーン(1895〜1975)が言うように、この作中の誇張や猥雑は、ヨーロッパの中世・ルネッサンスを通じる民衆の生活の中で息づいていた笑いの伝統を洗練された形で描きあげた「滑稽文学」の要諦である。滑稽を重用する伝統は、ここ1000年のヨーロッパ史に足場を持っている。

「まず第一に、生命そのものにも増して貴重なものは他にあるでしょうか。ところで、この私のおかげをこうむらずに、いったい誰のおかげで生命は始まりますか、、、皆さんに伺いますが、神々や人間はいったいどこから生まれるのでしょうか。頭からですか? 顔、胸からですか? 手とか耳とか言う、いわゆる上品な器官からでしょうか? いいえ、違いますね。人間を増やしていくのは、笑わずにはその名もいえないような、じつに気違いめいた、実に滑稽な別な器官なのですよ。あらゆる存在が生命を汲みだすのは、ピュタゴラスの例の四元数などはそこのけで、今申した神聖な泉からなのです」(渡辺一夫訳)


エラスムスの『痴愚神礼賛』には、風刺を乗り越えた、極めて人間的な笑いの精神が活きている。


閑話休題(ソレハサテオキ)


 ヴァチカンの法王の問題を川口マーン 惠美女史が、稀有な記事として投稿なさっている。
ローマ教皇ベネディクト16世辞任が投げかけた波紋
宗教はもはやノスタルジーの世界に入ってしまったのか…

【2013.02.21(木) 川口マーン 惠美】
 ローマ教皇のベネディクト16世が、2月末日をもって辞任することになった。教皇という重責に耐えられるだけの体力がなくなったからだという。ベネディクト16世はドイツ出身の教皇で、2005年に就任した。もうすぐ86歳になる。
 ローマ法王が退位表明後初の一般謁見、「私のために祈り続けて」
 2月11日の教皇会議で、教皇自らが、居並ぶ枢機卿(教皇の最高顧問)たちの前でそれを発表し、バチカンはハチの巣をつついたような大騒ぎになった。そのような話があるということを、誰も知らなかったらしい。
 そもそも、ローマ教皇は終身制だと皆が思っている。辞任してはいけないという規則はないが、普通はしない。前回の辞任の例はケレスティヌス5世で、1294年のことだという。
 このときは後任が決まらず、2年間も教皇席が空っぽだったので、仮の措置としてケレスティヌス5世が選ばれた。しかし、選ばれた方も教皇職がいやで、半年で辞めてしまった。それ以後の教皇は、皆、死ぬまでその聖職を務めた。
避妊措置を理由に、暴行被害の女性患者を拒否したカトリック系病院
 ローマ教皇、バチカン、およびカトリック教会をめぐる話は、はっきり言って、日本人には分かりにくい。21世紀に、そこだけ中世が漂っている感じだ。
 プロテスタントの方は、特にここ数十年、さまざまな改革を実施してきた。教会内での男女の地位は平等だし、離婚も同性愛も認められている。かなりの数の牧師が女性で、女性の牧師にはレズも結構多い。
 ちなみに、私の古い知り合いの女性も、牧師でレズビアンだ。それに対して賛否両論はあるにしても、いずれにしてもプロテスタントは、決して時代に乗り遅れなかったのである。
 ところが、カトリックは「改革を!」という声は四方から挙がるものの、内実は一切動かない。聖職者は妻帯が禁じられており、もちろん同性愛など罪深いものは認めない。
 教会内での女性の地位はゴミ同然。堕胎も避妊ももってのほかで、コンドームの使用も許さない。アフリカでエイズが蔓延してしまったのは、カトリック教会がコンドームの使用を禁じたからだという話がまことしやかに囁かれている。
 紆余曲折の末、カトリック教会が、エイズ予防に限って、コンドームの使用を許可したのは、つい最近の話だ。ただ、避妊は許されておらず、そのためには使ってはいけない。
 南米のリオのカーニバルのときなど、皆、お酒が入ってハイテンション。ひと晩中サンバを踊っていただけのはずが、そのあと望まれなかった子供がたくさん生まれるというのは本当のことらしい。現代の女性にとって、いつ妊娠するか分からないというのは、かなりおぞましいことだ。
 去年の12月、ドイツのケルンで次のような事件があった。25歳の女性が睡眠薬を盛られて、暴行された。救急病院に運ばれた被害者を診察した女医は、犯罪である可能性を認め、妊娠の可能性も念頭に入れて、近くの婦人科のある病院に回そうとした。
 そういう場合、不必要な妊娠を避けるため、事後ピル(堕胎ピル)を処方することになる。
 ところが、連絡を受けた病院が2軒とも、患者の受け入れを拒否した。両方ともカトリック系の病院だ。拒否の理由は、「性暴行の被害者を受け入れると、事後ピルを処方しなければいけなくなるが、それはカトリックの倫理に悖るのでできない。したがって、患者も受け入れられない」というものだった。
 結局、患者は違う病院に運ばれ、無事に診察を受け、警察に犯罪を届け、また、妊娠も避けることができたが、しかし、問題は残った。
 この経緯が報道された途端、カトリック系病院の体質に、大いなる非難が集中したのである。心も体も傷ついている被害者を助けることを拒否する人たちの、いったいどこにどんな倫理があるのかということだ。
 事があまりに大きくなったので、当の病院は謝罪をしたが、しかし、カトリック教会の考え方が変わるわけではない。それどころか、カトリック教会には、矛盾や欺瞞が山ほどある。
 社会で苦しんでいる人たちを献身的に支援しているのがカトリック教会であることは紛れもない事実だが、しかし、巨大な富を操ったり、犯罪を温存したりしているのもカトリック教会だ。伝統を踏襲するのはよいが、カトリック教会の本質は、それら矛盾や欺瞞をもすべてそのまま伝統として踏襲することにあるように私には思える。
カトリック系の学校では児童の性的虐待をめぐる大スキャンダルも
 2010年、ドイツのカトリック系の学校で、長年行われていた児童の性的虐待の実態が明るみに出て、大スキャンダルになった。
 犯行は1970年代と80年代に遡るので、もう時効だが、特に寄宿舎制になっていた学校で、年端もいかない男の子たちが、教師であった聖職者により、サディスティックな暴行や性的虐待を受けていた。
 その実態はすでに1981年に把握されており、報告は総本山バチカンにも上がっていたが、すべてはカトリック教会の名の下に握り潰されてきた。
 それがようやく明るみに出たあとも、教会側は、一部の聖職者による単独犯罪であるとの姿勢を崩そうとはしなかった。犯人の聖職者を追及する気配もなければ、将来の犯罪を防ぐための措置を真剣に議論する様子もなかった。
 法務大臣、ロイトイッサー-シュナレンベルガー氏は痺れを切らし、「カトリック教会は、自分たちの神父の容疑を解明するため本気で協力するつもりがあるのかどうか、はなはだ疑わしい」と発言した。
 これにドイツの大司教がすぐさま反応し、「カトリック教会に対する“決めつけ”を24時間以内に撤回しろ」と迫ったが、法務大臣はもちろんそれを拒否した。ドイツには、メルケル首相をはじめ、肝の据わった女性閣僚がいるのである。
 カトリック教会の絡んだ子供の性的虐待は、過去にアメリカ、アイルランド、オーストラリア、イギリス、フランス、オーストリアなど、世界中のあちこちで問題となっている。
 1962年、バチカンは、聖職者の性的犯罪は徹底的に追及されなければいけないということを決めている。
 ただし、バチカンはカトリック教会が治外法権を持つとしているので、もちろん内部犯行を警察に届けることはしない。だから、告発する者も、告発される者も、弁護する者も、判定を下す者も、すべてが身内である。
 しかも、その内容はすべて秘密で保管される決まりだ。
早い話、これでは中世の異端審問とたいした違いはない。
 治外法権と言えば、バチカンは金融に関しても、一切の規制を受けない。例えばバチカン銀行の経営に携わる者には、完全なる黙秘権が許され、刑事責任も一切問われない。
 実は偶然ながら、先日から『バチカン株式会社』(ジャンルイージ・ヌッツィ著・柏書房)という本を読んでいた。
 バチカン銀行の運営に関与していた重要人物が、自分が死んでから公表してほしいと、膨大な資料を著者ヌッツィに託した。2009年、こうしてできたのがこの本だが、これはどんな犯罪小説よりも凄い。毒殺、暗殺、陰謀、何でもアリだ。「アヴェ・マリアと唱えているだけでは、教会は運営できない」のだそうだ。
中世のままの保守性を体現するローマ教皇の辞任は“近代的”?
 さて、ベネディクト16世に話を戻すと、その評価はドイツでも分かれるところだ。2005年にドイツ人がローマ教皇になると決まった時、ドイツのアンケートでは回答者の70%が、「ドイツ人の教皇を誇りに思う」と答えたが、そのほとぼりがさめると、人気は落ちた。彼の保守性、反動性に多くの人々はがっかりしたのだと思う。
 失望は、教皇が、キリスト教原理派とも言えるイギリス人司教の破門を解除したとき、その頂点に達した。同司教は、アウシュヴィッツのガス室はなかったと主張していたのだ。
 教皇は、イスラエルを訪問したときも、殺された人々への哀悼の意は示したものの、自分たちとは関係のないことだという態度を崩さなかった。また、イスラム教や女性に対しても、不適切な言動が目立った。
 ベネディクト16世は、教会を近代的に改革することなど一切考えていなかった。それが、保守派からは称賛されたのだが、極端な話、「民衆は考えず、ただ信じればよい」と思っていたようだ。
 正真正銘の神学者で、説教は理路整然としているが、話し方には抑揚がなく、その言葉はなかなか信者の心まで届きにくかったのではないか。いずれにしても、前任者のヨハネ・パウロ2世の情熱的な雄弁とは対照的だった。
 2011年9月、ベネディクト16世は初めて公式にドイツを訪問した。4日間の訪問の様子が、朝から晩まで中継されていたのが、日頃のドイツ人の宗教離れと照らし合わせると、何とも不思議だった。
 もっとも、信者の熱狂の映像を見ながらも、私は、宗教はすでにノスタルジーの世界に属しているという思いを取り除くことができなかった。そして同時に、宗教がドイツ国民の精神性の源となっていた過去の時間の長さをもひしひしと感じた。
 この訪問の際、教皇は旧東独のエアフルトを訪問した。マルティン・ルターが僧になる修行をしたアウグスティン修道院がある。ドイツでは近年、カトリックとプロテスタントの歩み寄りという課題が論じられているので、教皇の訪問により、歴史的な転換が起こるのではないかという期待が高まった。
 しかし、ベネディクトは合同ミサで、「私はお土産を持ってはこなかった」と歩み寄りを否定し、人々の期待に冷や水を浴びせた。彼にとってプロテスタントは、今でも、カトリックに背いた異端の宗教なのかもしれない。
 ベネディクト16世は、引退後はバチカンの修道院で暮らすことになる。「信仰というのは考え出したり、交渉したりするものではない。そこで生きるための基盤だ」というのが、合同ミサでの彼の言葉だが、“体力が衰えたから辞任します”というのは、はたしてキリスト教的なのだろうか? 反動派の教皇にしては、ここだけが妙に近代的だ。
 教皇職は与えられたものなのに、その辞任を自分で決定するのは、傲慢なことではないだろうか。体力や知力の衰えも、すべて神の意志と見なして、与えられた職が再び召されるまで、自然のままに信仰に身を投ずる方が、教皇の姿としては妥当に思えて仕方がない。
バチカン株式会社_『バチカン株式会社』(ジャンルイージ・ヌッツィ著、柏書房、2400円・税別)
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/37158転載
この記事を寄稿した川口マーン惠美(Emi Kawaguchi-Mahn)女史は大阪生まれ。日本大学芸術学部音楽学科卒業。85年、ドイツのシュトゥットガルト国立音楽大学大学院ピアノ科修了。シュトゥットガルト在住。90年、『フセイン独裁下のイラクで暮らして』(草思社)を上梓。その鋭い批判精神が高く評価される。『国際結婚ナイショ話』、『ドレスデン逍遥』(ともに草思社)、『母親に向かない人の子育て術』(文春新書)など著書多数。最新刊『サービスできないドイツ人、主張できない日本人』(草思社)好評発売中。ドイツから見た日本、世界をレポートする。2011年4月より、拓殖大学日本文化研究所客員教授(以上)

上記のキリスト教の問題と今の日本の危機が連続した結びつきをもち、皇室の未来とも連関しているようです。偽書としても知られた「聖マラキの予言(Prophetia S. Malachiae)」では、次の法王で「終わり」となっています。日本の天皇制という制度もこれで「終わり」と言う方々もいらっしゃいます。制度としては残るのでしょうが、今までのように私たち民衆の精神的バックボーンであり続け、結界より守護されるものであり続けることはなくなってしまうかもしれません。

にもかかわらず、ここ日の本に暮らす私たち民衆は、人間として自分の魂を源として、目覚め行動し、明るい未来を選びたいものです。

歩み続ける自他にエールを。

早くも、3月が始まりました。
今月も大きな笑顔で参りましょう。

吹雪の中に    感謝