11月23日の新嘗祭では、天皇陛下が神嘉殿において新穀を皇祖はじめ神々にお供えになって、神恩を感謝された後、陛下自らもお召し上がりになる予定であった。宮中恒例祭典の中の最も重要なもので、天皇陛下自らご栽培になった新穀もお供えになるのだが、今年は新嘗祭へのお出ましを差し控えられた。今では稀なことになってしまったが、この新嘗祭まで新米を口にしない習わしを引き継ぎ実践なさる方々もいらっしゃる。食に対する意識に敬意を表したい。

食と言えば、フィリピン台風30号により被災した500万人の子どものうち135万人の5歳未満児に、栄養不良の恐れがあると伝えられている。何とかしたい。
ユニセフ フィリピン台風30号緊急募金
国境なき医師団 フィリピン台風緊急支援
セーブ・ザ・チルドレン フィリピン台風30号緊急支援

さて、新しいそよ風が、合衆国から吹いてきた。
ケネディ氏が在日米軍基地を訪問 大使就任後初、横田に
(共同通信 2013年11月21日 10時49分 / 13時50分 更新)
 キャロライン・ケネディ駐日米大使は21日、就任後初めて、在日米軍司令部のある横田基地(東京都福生市など)を訪れた。同基地内にある航空自衛隊の航空総隊司令部も訪問し、武田良太防衛副大臣らの出迎えを受けた。
 大使は、横田基地の米軍人とその家族ら約200人を前に「あなたたちは決定的に重要な役割を果たしている」とあいさつ。夫のエドウィン・シュロスバーグ氏も同行した。同基地からは、台風30号で被害を受けたフィリピンでの救援活動にC130輸送機5機が派遣されている。http://www.excite.co.jp/News/politics_g/20131121/Kyodo_BR_MN2013112101001029.htmlより転載
キャロライン駐日大使

21日午前9時30分頃、キャロライン・ケネディ駐日合衆国大使(1957年生)は軍用ヘリで東京の合衆国軍横田基地に到着し出迎えを受けた。後ろに控える白髪の紳士がデザイナーの夫君、エドウィンアーサー・シュロスバーグ氏(1945年生)。ケネディは典型的なアイルランドの姓で、シュロスバーグはロシア系ユダヤ人の姓である。この夫婦はユダヤ教徒とカソリックだと思われるが、結婚はカソリック教会で行われ、結婚届はそれぞれ旧姓のままであった。だから大使の本名はキャロライン・ブーヴィアー・ケネディ。彼女のミドルネームのブーヴィアーは、母・ジャッキーの旧姓(maiden name)。ちなみに、シュロスバーグ家は彼の親の代にウクライナから移住したユダヤ教徒で、繊維業を営む富豪一族である。それにしても、「横田基地の米軍人とその家族ら」が約200人と少ないのは、選ばれた人々に対する挨拶であったからであろうか。

ところで、ケネディ大使の弟、ジョン・フィッツジェラルド・ケネディ・ジュニア氏(1960年11月25日〜1999年7月16日)は38歳の時、飛行機事故で返らぬ人となった。1988年には雑誌Peopleが選ぶ、"sexiest man alive" (世界で最もセクシーな男)の1人に選ばれた好男子であった。ケネディ大使の長男、ジョン・シュロスバーグ氏は彼に似ていると言われる。現在、イェール大学に通っている。

50年前の11月22日午後12時30分、大使の父ジョン・F・ケネディ元大統領(1917年5月29日 - 1963年11月22日)はテキサス州ダラスで遊説中に暗殺された。46歳であった。日本時間の23日、私たち日本人は始まったばかりの衛星中継の映像で、暗殺のニュースに出会った。ニューヨークを始めとした世界の大都市では多くの民衆が公然と泣いていた。民衆はテレビ報道を見るためにデパートに群れをなし、祈りを捧げる姿もあった。アメリカ合衆国とカナダの学校では、学生を下校させた。暗殺直後、ソ連は「私たちが手を下したのではない」と国際表明を行った。

ほとんどの報道機関は「ダラス・トレードセンター」で到着を待っていたから、ディーリー・プラザでの暗殺現場を生中継していなかった。KBOX-AMはその日のニュースの抜粋で銃撃の音をLPレコードで放送したが、それはオリジナルの録音ではなかった。しかしながら、暗殺現場はサイレントの 8mm フィルムに 26.6 秒間記録されていた。アマチュアカメラマンのエイブラハム・ザプルーダー氏が撮ったもので、後に「ザプルーダー・フィルム」と称された。この486 コマのフィルムは事件解明の研究目的で多用されることとなったが、一部は欠落しているらしい。また、暗殺の瞬間をザプルーダー氏よりも間近でフィルム撮影していたと思われる身元不明の女性がいて、「バブーシュカ・レディー」と呼ばれている。他のフィルムや写真に、彼女がフィルム撮影をしている姿が映っているのだが、彼女の身許は特定されていないし、フィルムも確認されていない。ケネディー暗殺に関する調査データは、約束通り2039年まで封印され、その後公開される。強力な権力層が何らかの形で合衆国市民の「知る権利」を蔑(ないがし)ろにしない限りは、事実は知るところとなる。
ジョン・F・ケネディ(JFK)のケースを公開処刑とみるなら、大目的は標的の命を奪いその活動を制止することではなく、公開の場を見ている民衆に不安と恐怖心を植え付けることにあるだろう。従順でない人間がどのような結末を迎えるかを私たち民衆の頭の中にプリンティングする。見たものを信じて真実にしてしまう人間の傾向を利用した意識操作であり、社会操作のテクノロジーでもある。


閑話休題(それはさておき)


最近、飯島洋一著『<三島>から<オウム>へ 三島由紀夫と近代 』(平凡社・1998年刊)を読んでいて、以下の記述に出会った。
 三島の自決までの経緯を書いてきたが、彼の死の意味について考える前に、少し気になることを書いておきたい。それは前出の『三島由紀夫と自衛隊』を読んで、いささか奇妙な箇所があることに気がついたからである。この本の著者たちによると、「この日、益田総監は三島由紀夫に面会する前から何かを予感していた。それが何であるかは自分でもはっきりつかめなかった」という。そしてこう続ける。

 真っ先にづかづかと入って来た三島は、昔陸軍将校が佩剣したものと似た一振りの『軍刀を左手に持ちかえ ていた。これを見た瞬間、彼の不吉な予感の正体が何であったかをはっきりと知覚した。傍らにいたS副官もそ の異様を直観した。その副官に落ち着いた声でささやいた。
 「この部屋を出て行くふりをして、衝立の陰に隠れ ろ。どんなことがあっても出てきてはいかん」
 副官は一瞬総監の指示に驚いたが、その意図は直ちに理解できた。早くも三島たちが総監の机の迄に整列、挨拶にかかったので、副官は三島に目礼してその部屋を立ち去るかの如く、衝立の陰に身をひそめた。
杉原裕介・剛介『三島由紀夫と自衛隊」(並木書房・1997年刊)

 益田の判断は、「いざというときのために、自分が殺されたときの唯一の事実を知るものとして副官のS三佐を陰に隠し」たのである。そしてことが終わった後、「衝立の陰に潜んでいたS副官は、ドヤドヤと入って来た警察、警務の隊員や報道陣に逆らって、総監室を去った」という。
 私がこの部分を読んで、いささかの奇妙な思いをしたのは、S副官という伏兵が、当日、部屋の中にいたということではない。そうでなく、このことと、『裁判記録 「三島由紀夫事件」』を照らし合わせた時、どうにも納得のゆかない事実に突き当たるのだ。というのも、『裁判記録』では、裁判の法廷に何人かの証言者が出頭していて、その中には益田総監をはじめ、原勇、吉松秀信の顔も見えるが、S副官とされるべき人の名前が見当たらないのである。(中略)
・・・もしもいたなら、裁判に証人として出廷しなければならないはずである。Sという人物が衝立からずっと現場を見ていたなら、その人は縛られていた益田よりも、ことの次第をよく見ていたはずだからである。しかし、そのSは裁判の記録には見えない。彼が誰かというより、彼がなぜ証言台に立たなかったのかが、私には奇妙でならないのだ。(中略)
 もう一つエピソードがあるが、『裁判記録』によれば、益田が弁護人に問われて答えるかたちで、終戦時、「友人の晴気誠少佐の自決に立会った」とあり、『三島由紀夫と自衛隊』には、「二十五年前の昭和二十年八月十五日、当時、彼(益田)はこの市ヶ谷にいた。晴気誠(はるけまこと)少佐が、敗戦の責を負って、同月十七日の深夜、この市ヶ谷で自刃したとき、請われて介錯したのが同期生益田兼利少佐であった」(括弧内は筆者)とあるのだが、これは益田が三島事件の立ち会い人となった事実と重ね合わせた時、奇妙なエピソードといえるだろう。(284〜286頁より引用)


熊本県出身の益田兼利総監(1913年9月17日〜1973年7月24日)はこの事件の後罷免され、S副官の存在を世に知らしめて、事件3年後に昇天なさった。60歳であった。

45歳の三島の命を奪われた夫人の瑤子氏(1937〜1995年)は、1971年2月28日、西日暮里の神道禊大教会で行われた楯の会解散式に出席した。神道禊大教会は彼女の実家の杉山家と縁があり、解散式の場となった。類まれな胆力の夫人ではあったが、58歳で昇天なさってしまった。

ところで、江戸時代には民衆に科されていた6種類の死刑の一つに梟首(きょうしゅ)=晒し首=獄門があった。打ち首の後、死体を試し斬りにし、刎ねた首を台に載せて3日間(2晩)見せしめとして晒しものにする公開処刑の刑罰である。明治時代初期にも梟示(きょうじ)と名を改めて引き続き行われた。1874年4月8日夕方の嘉瀬刑場での司法卿江藤新平への梟首の公開処刑が知られている。1879年の明治12年太政官布告第1号により斬首刑は廃止された。

事件直後、三島の胴体と首が切り離された割腹現場と切断された生首写真が朝日新聞夕刊早版に掲載された。同年12月11日号の朝日新聞社の週刊誌「アサヒグラフ」にも「特報 三島由紀夫割腹す」と題して三島の生首写真が掲載された。1984年、写真週刊誌「フライデー」創刊号にも三島の生首写真が掲載された。これらの掲載に梟首的な意味合いを見出すなら、JFKケースと同じく公開処刑として類型化できる。

正規の軍人ではない民間人を軍事要員として編成した武装組織を目指した「盾の会」は社会的に黙認され、日本の右派財界から 募った資金でその活動は支援されていた。その昔、フランクリン・ルーズベルト(Franklin D. Roosevelt)が言った“In politics, nothing happens by accident. If it happens, you can bet it was planned that way.”(政治の世界には偶然の出来事などというものはなく、すべて計画され必然的に起こされる)というセンテンスが深みを帯びてくる。

ところで、中国は尖閣領有権を既得権にすべく、中国国防省に23日、沖縄県の尖閣諸島の上空を含む東シナ海の広い範囲に防空識別圏を設定させた。そして、この空域を飛行する航空機が指示に従わない場合は、武力による緊急措置を取ることなどを発表させた。悲しいかな、いつものように日本政府は受け入れられないと中国側に強く抗議したのみだ。国際世論に訴えて、利害関係国の韓国や合衆国そして中立的な立場の主要先進国を日本に招き、例えば「東シナ海安全保障会議」「東シナ海平和機構」などの名目で恒常的な安全装置を発起人として構築し、民衆の生命と自由と財産を守る努力を見せてほしい。

日中間で均衡を保っていた尖閣問題をほじくり返したのは、前東京都知事であった。現知事は徳洲会に暗に1億円要求し、5,000万円を融通してもい、その5,000万円を慌てて返済したようだ。この後は、東京地方検察庁特別捜査部(特捜)の調査が前都知事まで行くのかどうかが争点のようだが、尖閣国有化の主導的存在の彼を逮捕することで現政権が中国の機嫌取りにしようとするなら、大局な見地に立ち返り、外交努力でもって恒常的な安全装置を東シナ海に創造してもらいたい。2020年開催の東京オリンピックまでは東京都知事でいようとした現知事はそれどころではなく、辞任も視野に入れていることだろう。作家として彼が属すソサイエティーにもいられなくなるかもしれない。大日本帝国政府は1940年に東京で開催される予定の夏季オリンピックを日中戦争の影響等から開催権を返上し実現できなかったが、再びそのような結果になるかもしれない。

一部の人々による権益の確保よりも、私たち民衆の生命・自由・財産を認め守り続けることが大切なのです。
秘密保護法案:国連人権理の特別報告者 日本に懸念表明
(毎日新聞 2013年11月22日 21時02分)
 【ローマ福島良典】国連人権理事会のフランク・ラ・ルー特別報告者(グアテマラ、表現の自由担当)は22日、日本の特定秘密保護法案について「内部告発者やジャーナリストを脅かすもの」との懸念を表明、日本政府に透明性の確保を要請した。国連人権高等弁務官事務所(本部スイス・ジュネーブ)が報道声明で発表した。
 ラ・ルー特別報告者は「内部告発者や、秘密を報じるジャーナリストを脅かす内容を含んでいる」と法案を批判。秘密漏えいによる損害が国民の「知る権利」という公益よりも大きな場合に限って秘密保持が認められるが、その場合でも、独立機関による点検が不可欠だと主張した。
 国家機密を漏らした公務員らに厳罰を科す内容が法案に盛り込まれている点について「違法行為や当局の不正に関する機密情報を『良かれ』と思って公にした公務員は法的制裁から守られなければならない」と指摘した。
http://mainichi.jp/select/news/20131123k0000m030094000c.htmlより転載

さあ、大きな笑顔で邪氣を払って参りましょう。

感謝