天皇陛下お誕生日に際し(平成25年)
天皇陛下の記者会見
会見年月日:平成25年12月18日
会見場所:宮殿 石橋の間

宮内記者会代表質問
問1 陛下は傘寿を迎えられ、平成の時代になって、まもなく四半世紀が刻まれます。昭和の時代から平成の今までを顧みると、戦争とその後の復興、多くの災害や厳しい経済情勢などがあり、陛下ご自身の2度の大きな手術もありました。80年の道のりを振り返って、特に印象に残っている出来事や、傘寿を迎えられたご感想、そしてこれからの人生をどのように歩もうとされているのかお聞かせください。

天皇陛下

 80年の道のりを振り返って、特に印象に残っている出来事という質問ですが、やはり最も印象に残っているのは先の戦争のことです。 私が学齢に達したときには中国との戦争が始まっており、その翌年の12月8日から、中国のほかに新たに米国、英国、オランダとの戦争が始まりました。終戦を迎えたのは小学校の最後の年でした。この戦争による日本人の犠牲者は約310万人と言われています。 前途にさまざまな夢を持って生きていた多くの人々が、若くして命を失ったことを思うと、本当に痛ましいかぎりです。
 戦後、連合国軍の占領下にあった日本は、平和と民主主義を、守るべき大切なものとして、日本国憲法を作り、さまざまな改革を行って、今日の日本を築きました。 戦争で荒廃した国土を立て直し、かつ、改善していくために当時のわが国の人々の払った努力に対し、深い感謝の気持ちを抱いています。 また、当時の知日派の米国人の協力も忘れてはならないことと思います。 戦後60年を超す歳月を経、今日、日本には東日本大震災のような大きな災害に対しても、人と人との絆(きずな)を大切にし、冷静に事に対処し、復興に向かって尽力する人々が育っていることを、本当に心強く思っています
 傘寿を迎える私が、これまでに日本を支え、今も各地でさまざまに、わが国の向上、発展に尽くしている人々に日々、感謝の気持ちを持って過ごせることを幸せなことと思っています。 すでに80年の人生を歩み、これからの歩みという問いにやや戸惑っていますが、年齢による制約を受け入れつつ、できるかぎり役割を果たしていきたいと思っています。
 80年にわたる私の人生には、昭和天皇をはじめとし、多くの人々とのつながりや出会いがあり、直接、間接に、さまざまな教えを受けました。宮内庁、皇宮警察という組織の世話にもなり、大勢の誠意ある人々がこれまで支えてくれたことに感謝しています。
 天皇という立場にあることは、孤独とも思えるものですが、私は結婚により、私が大切にしたいと思うものを共に大切に思ってくれる伴侶を得ました。皇后が常に私の立場を尊重しつつ寄り添ってくれたことに安らぎを覚え、これまで天皇の役割を果たそうと努力できたことを幸せだったと思っています。 
 これからも日々、国民の幸せを祈りつつ、努めていきたいと思います。
(後略)http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/kaiken/kaiken-h25e.htmlより転載

 大日本帝国が先の大戦に敗れた後、昭和天皇は合衆国の長期占領を選択なさった。当時、ソビエト連邦と合衆国の二つの人造国家が日本を直接支配しようとしていた。その違いは唯一、後者が天皇を処刑しないことであった。だから、大日本帝国政府は、原則として戦争終結に際し一切の和平交渉を拒否するものではあっても、日本国全体を降伏させるものではなかったポツダム宣言を受け入れ、全日本軍の無条件降伏を宣言した(宣言文第13条)。
 「日本人を民族として奴隷化しまた日本国民を滅亡させようとするものではない(we do not intend that the Japanese shall be enslaved as a race or destroyed as a nation)、捕虜虐待を含む一切の戦争犯罪人は処罰されること。(but stern justice shall be meted out to all war criminals, including those who have visited cruelties upon our prisoners.)」(宣言文第10条)と予告されたが、戦争犯罪人の起訴と死刑執行の日に天皇親子の誕生日を選ぶ彼らの脅しの手口を予告されることはなかった。事実、1946年4月29日の昭和天皇誕生日に大日本帝国の繁栄を願った重臣たちが戦犯容疑で起訴され、1948年12月23日の今上天皇誕生日にその重臣の7名が絞首刑に処された。
 現在、日本は恒常的占領国である合衆国の一部勢力やマネーに憑依された日本人勢によって奪われつつあるが、天皇と皇后と彼らの周辺のみが不屈と寛容の精神を持ち、穏やかな笑顔で、日本国の象徴として耐えていらっしゃる。それは天皇の役割がそうさせているからである。
 天皇の役割とは、日本という国家の構造(structure)であり、機能(function)である。構造とは日本全体を成り立たせる仕組み。そして機能とは日本に経世済民を顕現する能力。天皇は日本のリーダーであり、平安無事で生き永らえることが日本の国体(※注)なのだ。天皇の人格が日本国家の実体であり、天皇が消えると日本も消える。
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(※注)日本史上初の「国体」概念の登場は会沢正志斎(1782〜1863)の『新論』。彼は国体を「国のすがた」というほどの意味で言い表し、それ以上の厳密な定義はしていない。また国体のための重要な方策として、武士が在地に帰って土地を守って生きることを説いた。
(追記)2021.3.22
国体とは憲法のことです。憲法がConstitutionであり、Constitutionが国体。天皇はConstitutional Monarchであり立憲君主です。(以上)


閑話休題(それはさておき)


ローレンス・ガードナー著『聖杯の血統 ‐イエスの隠された系譜‐』(清流出版・2010年刊)は、クリスマスに一度は紐解きたい、白眉な作品である。

(その1)
 イエスは聖母マリアから生まれたが、マタイによる福音書には聖霊によって宿ったのであり、マリアは処女のままだったと記されている。しかし聖書の中でイエスの父はヨセフとされ、イエスには複数の妹がいたことも分かる。 最初に世に出たマルコによる福音書では、処女降誕の話は出てこない。最後に出たヨハネによる福音書でもこの話題は無視された。マタイとルカにだけ出てくるが、原初期には重視されていなかったようだ。本書では、イエスがダビデの系統を引いた王族であることに注目している。王族は非常に厳しい決まりがあって、結婚し跡取りを設けるに際しては厳格な掟に従う必要があった。結婚式は婚約3ヶ月後の9月に行われるが、肉体的な関係を持つことが許されるのは12月の前半だけであった。12月とされたのは、来るべき「メシア」が贖罪月である9月に生まれるようにする目的合理性があった。ローマの属領であったパレスチナ地方の人々にとっての「メシア」は、ユダヤ人を異邦人の手から解放する人を意味していた。
 イエスが実際に生まれたのは紀元前7年3月で、本来生まれるべき月日から半年ずれていた。逆算すると、婚約期間の初期にマリアは妊娠したことになり、掟に反す。このままでは、イエスの王族としての正統性に疑義が生じるが、世継ぎの男の子が今後生まれるという保証もできない。そこで処女降誕という苦しい物語が創られた。マリアが妊娠した6月の段階では処女のはずだから、処女でありながら聖霊が宿したということにした。これは「受胎告知」と呼ばれているが、実態は許可に近いものであったことが分かる。
 「処女(おとめ)」に当るセム語は「almah」で、「若い女性」の意味しかないという。肉体的な処女性を表わす言葉は「bethulah」というのがあるそうだ。だから、福音書の作者が事実を曲げたわけではなく、神秘性をもたせるための誰かの超訳が、後世注目を引く結果となったというのが真実のようだ。

(その2)
 マグダラのマリア(St. Mary Magdalen)はキリストの足を油で拭いた女性で、娼婦であると思い込んできたが、聖書にそう書かれているわけではなかった。それは彼女へのいわれなき誹謗中傷であった。イエスには配偶者またはそれに準ずる人がいて、イエスの妻として名が出てくるのが、マグダラのマリアだという。
 イエスはダビデ王家の出身なので、子孫を残す必要があった。本書によると、ダビデ家の当主の妻は、代々「マリア」と名乗る慣習であった。イエスの母もマリアという名だったわけだ。「マグダラ」はヘブライ語で「塔」を意味するが、これは羊の群れを見張る塔の意ではなく、共同体内の高い地位を示す言葉であった。
 イエスとマグダラのマリアの婚姻関係を示す記述の一つとして、マリアが何度も高価なナルドの香油をイエスに注いでいることを指摘している。旧約聖書の雅歌には、王家の花嫁と花婿が交わす愛の賛歌が記されているが、この中に婚礼を象徴するものとしてナルドの香油が登場する。マグダラのマリアは、カナの婚礼の場面やベタニアの家においてイエスにナルドの香油を注いでいる。
 ヨハネによる福音書のカナの婚礼は、誰の婚礼かが記されていない。しかし、この出来事は紀元30年6月のこととされ、マリアがベタニアの家で最初に香油を注いだのは3ヶ月後の9月とされている。このサイクルは王家の因習に従ったもので、両者はこの年の6月に「カナの婚礼」と呼ばれている婚約をして、9月に結婚したと考えられる。
 1945年にエジプトの洞窟から見付かったナグ・ハマディ文書に含まれていたグノーシス主義的な文書『フィリポによる福音書』では、イエスとマリアの関係が公然と討議され、以下のように記されている。
そして救い主の伴侶はマグダラのマリアであった。だがキリストはほかの弟子たちより彼女を愛され、しばしば口に接吻をされた。残りの弟子たちはこれに腹を立て、不満を述べた。彼らは言った。なぜわれわれよりも彼女を愛するのです、と。救い主は答えて言われた。なぜわたしが彼女を愛するようにあなたがたを愛していないと言うのか。(中略)結婚とはかくも不思議なものである。それなくして世は存在しなかったからだ。世界の存在は人にかかっているのであり、人の存在は結婚にかかっているのである。(104頁)

 接吻について、著者は神聖な新郎新婦が行うべき行為だと述べている。それは今のように、未婚の男女が交わすものではなかった。王家の婚礼の歌である雅歌にも、「どうかあのかたが、その口のくちづけをもって、わたしにくちづけしてくださるよう。葡萄酒にもましてあなたの愛は快い・・・。」と扱われている。
 『フィリポによる福音書』は現在、正典として位置づけられていない。それは後世の教会等の政治的な判断・都合でそう決められたに過ぎず、真実か否かとは無関係だ。むしろ正典に取り入れられなかったこの外典に真実が記されている可能性は高い。なお伴侶と訳されている部分の原語は koinonos (κοινωνός)で、「連れ」「仲間」の意で日本語訳では漢語「伴侶」を当てている。伴侶には「配偶者(夫または妻)」の意味はなく、日本語でも「生涯の伴侶」「一生の伴侶」などといった時に、初めて比喩的に「配偶者」を意味する。

 本書には、驚くべきことに、イエスとマグダラのマリアの間には3人の子らがいたと記されている。それは公開された文書では裏付けることはできないが、ダビデ王家に伝わっている伝承と慣習から復元したと思われる。聖書には子らがいたことを窺わせる記述がある。
・・・マリアの生年は紀元三年で、イエスより九歳年下となり、婚姻を結んだ紀元三〇年には、二七歳だったとわかる。
 紀元三二年の十二月に身ごもったアリアは、翌三三年に“第二結婚式”に臨んだ。そして同年、三十歳で娘タマルを産む。四年後、長男イエスを出産し、さらに紀元四四年(41歳の時)には、次男ヨセフを産んだ。このころには、すでにマリアは、五世紀までギリシア語を公用語としていた(当時マシラと呼ばれた)マルセイユに移っていた。(中略)
 グノーシス派の言い伝えでは、マグダラのマリアは、太陽、月、それに星々の光輪によって表わされる“智(ソフィア)”と結びつけられる。智慧の女神ソフィアは聖霊とみなされ、イエスの子を産むために亡命したマグダラのマリアによって、地上に示された。ヨハネ黙示録十二章一〜十七節のなかでマリアと息子について触れ、迫害に遭って異国へ逃れてからも、ローマ当局が「子孫の残りの者たち」を追い続けたようすを語っている。(174〜175頁)

 マグダラのマリアは紀元3年に生まれ、63年に南フランスのサント・ボームの険しい岩山の上にある洞窟で昇天した。3人の子を産んだ年はそれぞれ、30歳・34歳・41歳と自然だ。彼女の遺骸は、マルセイユから48キロほど離れたサン・マキシマンの大修道院に保存された。1279年に掘り出されたマリアの頭蓋骨および上腕骨は、金と銀で覆われて陳列され、現在に至っているという。マグダラのマリアは上位の司教と同意程度の地位である「ナザレ派教団女信徒の長」を務め、黒衣をまとうことを許されていたことも記しておきたい。

メリー・クリスマス
allegory Jan Provost
"Christian Allegory"(1510-15) by Jan Provost :イエスは剣で武装し、マグダラのマリアは王冠をかぶり、ナザレ派女祭司の黒衣をまとっている。
coronat Jan Provost
"The Coronation of the Virgin"(1524) by Jan Provost:聖母マリアの両側には楽器を奏でる天使が描かれている「聖母マリアの戴冠」。左側の人物はローマ帝国初代皇帝アウグストゥス(BC63〜BC14)。右側の人物は竪琴を弾くダビデ王(BC1000〜BC961)。
http://www.wga.hu/index1.htmlより引用