この人生には色々な「試練」が訪れる。長生きをすることが喜びではなく、「試練」となっている人々がいる。自分にはもう生きる必要がないのだけれども、早く死んでしまいたいのだけれども、生きていなければならない人々がいる。彼らのなかには、自分で自分のことができなくなった老人たちもいる。その多くが、日常生活を介助してくれる周りの人々へ感謝しているかというと、必ずしもそうとは限らないようだ。悪態をつく人が多く、そこにその人物の身魂の成長が顕れる。試されることの苦しみが見え隠れする。

認知症が発症するや、以前の穏やかな人格とは別な凶暴で攻撃性を帯びた人格が登場することがある。これは発症により新しく備わった性質ではなく、長い間、隠されてきた本性が隠しきれなくなったものだろう。いかに自分自身を綺麗事で包み込んだとしても、人生の最期には、自分の言動が本性によるものであったのか、本性を隠すための言動であったのかが周知される。残酷なことだ。本性が暴かれるシステムが認知症なのかもしれない。

我よしで、頑固な、素直でない人たちほど、年老いた時の認知症のリスクが高まるようだ。人が人として生きるということは、その身体に良心(魂)という聖なるものを宿して生きるということ。だから、健康なうちにシッカリと身体と良心(魂)を不可分一体のもの(身魂)として成長させる。これから老人になるわたしたちはこのことを知っておきたい。

話題を変えよう。

近視眼的な小手先の利益獲得を経済と呼ぶこともできるだろう。しかしながら、それは手段に過ぎず到底、政治目的とは成り得ない。政治の目的は、経世済民としての経済なのだから、人間の尊厳を最優先としたい。『雪というのは、生活との戦いなんだ。俺が訴えている地方分権や、一極集中を排除しなければいかんと言っている発想の原点は、雪との戦いなんだ』と語った田中角栄氏の政治家としての身魂に、人間が人間らしくあること、ごくごく普通の日常を送れるようにする世の中を顕現させようとする意識と知恵を感じる。
田中角栄 日本が酔いしれた親分力(16)地方に賭ける6時間の熱弁
田中角栄20160728o2nd-250x250  1972年の大ベストセラーとなった田中角栄の著書「日本列島改造論」。そこでは都会と地方の経済格差をなくすための交通・情報インフラ整備を促す明確なビジョンが示され、いち早く地方分権への道が模索されていた。この先見的な政策は、いかにして生み出されたのか!?
 田中角栄は1971年(昭和46年)7月5日、佐藤内閣改造で、通産大臣になった。秘書官になった小長啓一は、大臣室に挨拶に出向いた。
 田中は、扇子をせわしそうにパタパタと扇ぎながら言った。
 「君の生まれはどこだ」
 「岡山でございます」
 「温暖な気候の岡山の人間にとって、雪というのはロマンの対象だよな。川端康成の『雪国』のようにあくまで抒情的な世界だよ。だけど、新潟県人の俺にとって雪はロマンじゃない。雪というのは、生活との戦いなんだ。俺が訴えている地方分権や、一極集中を排除しなければいかんと言っている発想の原点は、雪との戦いなんだ。君が雪をロマンの対象と見ている限りにおいては、俺とは本質的にちがうよな」
その年の暮れ、田中は小長に言った。
 「俺は、通産大臣になってこの半年の間に、産業サイドから見た国土開発を勉強した。これで一応、国土開発の政策体系を網羅したことになる。3年前に都市政策大綱をまとめたが、抽象的で理屈が多すぎる。内容も難しい。専門家は評価してくれたが、もっと国民にわかりやすいものを産業サイドの視点も入れて作りたい。何か、できないかな」
 さっそく小長は、通産省の関係者に相談した。みな乗り気であった。
 「やろうじゃないか」
 小長は田中に報告した。
 「大臣、みなOKですよ」
 「そうか。出版社は日刊工業新聞に頼もう」
 田中は、日刊工業新聞の白井十四雄社長と親しかったのである。さらに、冗談めかして言った。
 「大手の新聞社のどこかから出すと、他の大手新聞社がひがむからな」
 小長は考えた。
〈田中さんなりに勉強を積んでいたのだな。過去の経験と勉強が合体し、体系ができてきた。今度は通産大臣になり、工業の勉強をして、それがパーフェクトになったということだろう〉
 12月に入ると、田中によるレクチャーが始まった。開口一番の言葉は、これだった。
 「自分は政治家になって以来、国土開発を手がけてきた。その最初が、道路の問題だった。都市集中、表日本集中の政治を、裏日本、北海道などにも恩典に浴すために道路財源の確保が問題だった」
 ここから日本列島改造が始まった。それからしばらくして舗装率は高まり、高速道路も建設され、空港もでき、港湾も整備されていく。この変化の様を、田中はとうとうと語った。
 田中は、国土開発に関する自分の考えを熱い口調で語った。
 「高度成長時代は、東京へ、東京へ、という流れでやってきた。これを放任しておったら、日本はパンクしてしまう。その流れを180度変えて、地方への流れにしなければならない。地方に25万人程度の中核都市を作る。それこそが、日本の新しい生き残り戦略の最大ポイントだ。そのためには、地域にそれなりのインフラを整備しないといかん。新幹線鉄道網であり、交通道路網であり、航空路の整備に取り組む」
 田中は強調した。
 「東京に一極集中されれば、地方はどんどん過疎になる。過疎になれば、ますますインフラ整備ができない。日本は、いびつな不均衡発展を遂げる。これはもう、大変なことになる。それを避けることを、今から計画的にやっていかないといけないんだ」
 口調は迫力を増した。
 「東京にいれば、酔っぱらって具合が悪くなり、道端でひっくり返っても、すぐに救急車が来て助けてくれる。命に別状もない。同じことをインフラの整備されていない過疎地域でやったら、どうなるか。救急車の数も少なく、すぐには来られない。命を落としてしまう。同じ人間の命で、そういうことがあっていいのか! どこにいても、ちゃんと命が保証されるということでないと、いかんのではないか!
 田中は、しだいに興奮してきた。
 「日本海側は、裏日本と言われているが、そんな差別用語みたいなことを言うのはけしからん! 江戸時代以前の帆船だけしかない時代は、日本海側こそ、むしろ交通の要所だったんだ。太平洋側は、船が航行できない。蒸気船ができて初めて航行できるようになった。昔、立派に栄えたところが、今や裏日本と呼ばれ、過疎地域みたいな言い方をされるのはおかしい
 ふと気がつけば、6時間が経過していた。あっという間の出来事だった。
作家:大下英治

田中角栄 日本が酔いしれた親分力(17)政策を形にした数々の協力
田中角栄20160728o2nd-250x250 1日6時間ぶっ通しの田中によるレクチャーは、3日間も続いた。
 通産大臣室には、田中がレクチャーする内容に合った官僚たちが、その日ごとに集められた。企業局立地指導課長の浜岡平一をはじめとする関係局の課長、日刊工業新聞社の記者2〜3人の、合わせて10人前後であった。
 通産大臣秘書官として3日間、1日6時間に渡るすべてのレクチャーを聞いた小長は驚くしかなかった。
〈もう、すごい‥‥すごいとしか言えない〉
 それほど、田中の頭の中には、国土開発の構想がしっかりと描かれていた。
〈大臣の国土開発に懸ける思いは、血肉化しているんだな〉
 田中が語った話はスケールが大きく、はるかに通産省の枠をはみ出していた。テーマによっては、建設省の道路局や河川局、運輸省の鉄道監督局、経済企画庁、大蔵省の領域のものがある。それら関係省庁の協力を仰がなければならない。
 小長は、各省庁の担当局長、課長に電話を入れた。
 「田中大臣の指示により、産業サイドから見た国土開発をまとめているんですが、資料をいただけますか?」
小長が細かく説明するまでもなく、担当局長や課長は即答した。
 「わかりました。あなたが欲しい資料は××の視点からの××の資料でしょう」
 「はい、そうです」
 「明日にでも届けますよ」
 あまりのあっけなさに、小長はビックリした。本来なら、通産省の一官僚である小長が、他省の局長や課長に電話を入れ、資料を頼んだとしても、それを受け入れてくれることなどない。それなのに、小長の要求は想像していたよりもスムーズに承諾してくれる。
 むしろ、相手側が乗り気になっているのだ。
 「田中さんが、そういうことをする気になったんだ。そうとあれば全面協力だ」
 決して田中が根回ししていたわけではない。それでも、小長が驚くくらいにどの省庁も協力的で、小長のもとに必要な資料を届けてくれる。しかも、田中の発想に基づいた最新の資料ばかりだ。小長が客観的に見ても、目新しく映る部分が相当あり、田中がレクチャーした以上の内容まで盛り込まれている。
 これができるのも、田中がそれまでに築き上げてきた人脈があってこそのことである。小長は、田中の人脈の広さを思い知らされていた。
〈国土開発のあらゆる省庁に、田中さんの思想が浸透している。そして、田中シンパがいるんだな〉
 その集まった最新の資料を整理し、小長はそれぞれの担当者に割り振っていった。そのメンバーの中には、作家であり経済評論家でもある堺屋太一──後に国務大臣、経済企画庁長官も務める池口小太郎の姿もあった。当時、大臣官房企画室企画主任だった池口には、日本経済の成長率関連の執筆が割り当てられた。
 しかし、71年が終わると、田中の秘書の早坂茂三が、小長をせかした。
 「オヤジは総裁選に立候補するかもしれない。この本を立候補宣言用の材料にする。出版は3月だ。急いでほしい」
 小長らは土日も忘れて、突貫工事で執筆作業に没頭した。
 72年(昭和47年)3月、小長たちは、次期首相を目指す田中の政策構想をまとめた原稿を入稿した。原稿は校正を経て、日刊工業新聞社から出版されることになった。書名は「日本列島改造論」。
 日本全体の工業化を促進し、日本を均衡化していこうというものである。東京、大阪、名古屋など一部の大都市の経済を発展させるのではなく、全国の経済を発展させる。いわば、地方分権のはしりであった。
 公害など環境問題が出てくることも予見されていたが、それを処理することも示されていた。経済の成長だけではなく環境問題にも配慮する、時勢に合った政策でもあった。
 出来上がった本を見て、田中も喜んだ。各省庁から提出された最新の資料のおかげで、田中が想像していた以上にイメージが膨らみ説得力を増していた。
作家:大下英治


閑話休題(それはさておき)


文化庁の京都市への移転について検討している政府の協議会は25日(火曜日)の会合で、移転先を京都府上京区にある京都府警本部の本館とし、遅くとも平成33年度中の移転を目指すことを正式に決めた。移転の規模は国会や他の府省庁との調整が必要な業務を担う職員を除き、文化庁の全職員の7割に当たる250人規模とする。
「文化庁の京都移転 地元とのズレ」(ここに注目!)
(NHK 2017年03月30日 (木) 名越章浩解説委員)
文化庁が、平成31年度以降に京都に全面移転するのを前に、新年度から一部が先行して京都に移転します。名越章浩解説委員がお伝えします。

Q、なぜ、文化庁が移転することになったのでしょうか?
A、文化庁の移転は、安倍政権が掲げる「地方創生」の1つとして決まりました。
もともとは、中央省庁の中の消費者庁や中小企業庁など7つの機関が移転の対象にあがっていたのですが、唯一、全面移転が正式に決まったのが、文化庁でした。
地方創生の試金石となるのか、注目されています。

Q、でも、新年度からは、一部の移転なのですね?
A、そうです。
今回は、職員およそ230人のうち、10人が京都にうつり、全面移転に向けた準備を進めることになっています。
しかし、ここにきて京都側と、文化庁側とで、本質的な考え方のズレが浮かび上がってきています。

Q、どういうこと?
A、簡単にいうと、京都側は、1日でも早く全面移転を実現させたいと、門を開いて待っているのですが、文化庁側は、国会対応など、一部の重要な部署は出来るだけ多く東京に残しておきたいと考えているのです。つまり、全面的な移転は難しく、割合をどの程度にするのか、今後の課題になってきそうなのです。

Q、どうして、こういうズレが生まれたのでしょうか。
A、そもそも、文化庁に限らず、どこの省庁も、国会対応や予算の交渉があるため、地方移転には二の足を踏んでいました。
また、京都は近くの奈良と共に文化財の宝庫ですけれども、文化行政は、舞台芸術や映画、音楽などの分野も大事で、そうした分野は、東京に本社や中枢機能がある団体が多くあります。
そういう団体からは、「移転されると文化の衰退につながるのではないか」という懸念の声が根強くあるのです。
一方で、文化庁が国会対応することは少なく、東京じゃないとできない仕事はどの程度あるのか、その中身が国民には分かりづらいという意見もあります。

Q、どうなるのでしょうか。
A、当分、駆け引きは続くと思います。
大事なのは、もっと国民のプラスになる文化行政とは何かという視点です。
しっかりと議論を深め、説得力のある移転の効果が、国民にわかりやすく示されることを期待したいと思います。
(名越 章浩 解説委員)


政治の目的は、経世済民としての経済なのだから、人間の尊厳を最優先としたいものだ。


大きな笑顔の佳き週末を。 感謝