「湖畔の宿」(こはんのやど)は1940(昭和15)年に高峰三枝子さん(1918〜1990)が唄いヒット。詩人の佐藤惣之助氏(1890〜1942)が作詞、服部良一氏(1907〜1993)が作曲を手がけた。歌詞が軟弱であるという理由から発売禁止になるだろうと観られていた。近代史上初めて有色人種のみが一堂に会して行われたアジア地域の首脳会議・大東亜会議(※注)が1943(昭和18)年11月5日〜11月6日に開催。白人支配からの解放を高らかに謳いあげたこの会議に出席するために来日していたビルマのバー・モウ政府主席(Ba Maw:1893〜1977)がこの曲を好んで聴いていた。それを知った東條英機首相は、晩餐会が催された東京・芝の会員制高級料亭・紅葉館に高峰さんを招待して歌ってもらった。大変に受けが良かったこともあり、官憲から睨まれた歌が東条首相から感謝状を貰うという珍現象が。結果、発売禁止を免れたという。忖度(そんたく)ですね(笑)。

神風特攻隊――現代の若者たちはどうみているのか
(大井真理子記者 BBC 2017年12月4日)
第2次世界大戦中に何千という日本人パイロットが、天皇の名の下で死ぬのを承知で飛行機ごと敵に突っ込んでいく神風特別攻撃隊に志願した。70年以上たった今、かつて崇拝された男性たちのことを今の若者はどうみているのか。BBCの大井真理子記者が話を聞いた。

不合理。英雄的。愚か――。神風特攻隊についてどう思うか、東京で若者3人に聞いたとき、彼らが口にした言葉だ。

「ヒロイック(英雄的)?」と池澤匠(たくみ)さんは弟の舜平(しゅんぺい)さんが選んだ言葉を聞き返した。「お前がそんな右翼だなんて知らなかったよ」。

実際の数を確認するのは困難だが、意図的に飛行機ごと標的に向かっていった旧日本軍の操縦士の数は、3000〜4000人と言われている。

成功率はわずか10%と考えられているが、連合軍の船50隻ほどを沈めた。

戦争から何十年もたった今も、神風特攻隊に対する意見は割れたままだ。割れている理由のひとつには、その歴史が政治手段として繰り返し使われてきたことがある。
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神風特攻隊を撮影した写真。隊員の一人、山田斂(おさむ)さんは生き延びたが、仲間のほとんどは大戦中に飛行機ごと敵に突っ込み亡くなった

静岡大学のM・G・シェフタル教授は「連合軍の占領下にあった7年間で、連合軍がまず標的にしたものの一つが神風の評価だった」と説明する。

自殺的戦術は、「狂気」と説明された。

「しかし1952年に連合軍が引き上げると、右翼のナショナリストが強い存在感を示すようになった。彼らは(特攻隊に関する)言説の主導権を取り戻そうと、何世代もかけて取り組んできた」とシェフタル教授は話す。

「1970年や80年代でさえも、日本人のほとんどが神風は恥ずべきもので、国が自分たちの家族に対して犯した罪だと考えていた」

「しかし90年代に入ると、神風パイロットを英雄と呼んで許されるかどうか、ナショナリストたちは試すようになった。あまり抵抗を受けなかったので、どんどん大胆になっていった」と教授は加えた。

2000年代には、『俺は、君のためにこそ死ににいく』や『永遠の0』のような、神風特攻隊をまさに「英雄」として描いた映画が公開された。

しかし神風が英雄的だと言う十代の舜平さんでさえ、自分の考えが映画の影響を受けていることを認め、もし日本が明日戦争に参加することになったら、自分の国のために死ぬ準備はできていないと話す。

舜平さんは、自分にはできない、パイロットたちはヒロイックで勇敢だと思う、と語った。

実際、WIN/ギャラップ・インターナショナルが世界規模で行った調査によると、自分の国のためなら喜んで戦うと答えた日本人はわずか11%だ。調査した国の中で最も低かった。

この結果は、日本の戦後世代が、戦力の保持を禁じる平和憲法の下で育てられたことを考えると、さして驚く話ではない。

「死にたくなかった」

しかし、ほとんどが17〜24歳だった特攻隊の全員が当時、国のために死にたいと心から思ったのだろうか?

現在90代の数少ない生存者2人に話を聞いたところ、答えは否のようだった。

「六分か七分は天皇陛下のためにと思っただろう。あとは、なぜやらないといけないのだろうと疑問を持った人も多いんじゃないか」。山田斂さん(94)は名古屋の自宅でこう話してくれた。山田さんは出撃する前に、終戦を迎えた。

「私は当時はまだ独身で何にもないもんだから、純真に日本の国のためにということと、やっぱり日本を守らにゃいかんという意味があったが、もし、おそらく、妻帯しているとか、いろいろ苦労した人は考えが違ったかもしれない。やっぱり何で女房、子どもがいるのに自分は今から行かなくてはならんのだって、そういう気持ちを抱いたんじゃないのか」

桑原敬一さん(91)さんは、家族のことを考えずにはいられなかったうちの1人だ。神風特攻隊の一員になったと聞かされたその時について聞かせてくれた。

「頭から血が引く思いだった」。わずか17歳だった桑原さんは、怖かった、死にたくなかったと当時の気持ちを明かす。

「前年に父親を亡くしているし、あとはあまり丈夫でもない母と、女、子供しかいないわけです。親父が死んで、それで母が働いて、姉が働いて、家計を支えているのに。私も乏しい給料から仕送りしていた。無事でいれば仕送りもできるが、死んでしまったら、果たしてどうなるんだろうかと」

そのため、自分の飛行機のエンジンが故障して戻ってこざるを得なくなった時、桑原さんは安堵した。

しかし書類上は、桑原さんは志願したことになっている。「強制されたのか、自発的に行ったのか。それは、要するに軍隊の本質を知らなければ、なかなか答えにくい質問」だと桑原さんは話す。

シェフタル教授によると、志願したくないパイロットは挙手するよう、大きな集団の中で聞かれ、同僚からのプレッシャーの中、作戦を嫌だと言える人はほとんどいなかったという。

神風特攻隊は自爆攻撃を行う現代のテロリストとよく同一視されるが、それは不正確だと桑原さんは言う。

「全く違うと思う。神風特攻の場合には戦争のためにあった。イスラムの自爆テロというのは、軍とは関係ない一般人が含まれるという大きな違いがある。そして不特定、いつ起こる分からない。大きな差異がある」

山田さんは、当時日本が直面していた歴史的背景を理解せずに、日本語の「神風」の意味が誤解され、英語では不適切に使われていると考えている。

山田さんは、「神風特攻隊というのはもっと崇高なものだった。ところが英訳すると残虐部隊になるという違いがある。実際は特攻隊というものとテロみたいな自爆とは意味が違う。ちょっと私は理解に苦しむ」と語る。「もう青春そのものが、人生の、その純粋なものが……今はインダクション(誘導)されたみたいに言われている」。

神風攻撃に消極的だった桑原さんは戦争が終わって解放されたように感じ、国をどう立て直すか考えなくてはならないと思った。

しかし、山田さんは順応するのに、しばらく時間がかかった。「無法状態というか、なんと言うのか、自己意識というものがなくなったような、気が抜けちゃったというか」。

「出撃する覚悟をしていたのが、ガクッとこう敗戦になったものだから、信じられないわけで。何で負けたんだろうという信じられない気持ちが体中にみなぎった」

山田さんがやってこられたのは、戦後の日本で働き、食べ、生き残らなければならなかったからだという。

最終的には、まさに山田さんが命を捧げようとしていた対象だった昭和天皇が米国人たちと握手をかわして手本を示したこともあり、山田さんは戦争から気持ちを切り替えて、前に進むことができた。

「天皇陛下は、日本のシンボルというか、中心だった。おそらく終戦になっても。日本が今までみたいに天皇陛下万歳って、戦争でみんな戦死していったのが、その精神が今度、復興というものに切り替わった。(中略)あれだけこっぴどくやられて焼け野原になっても、なんとか復興という大和魂っていうのが残っていたんじゃないか。だから復興も早かったんじゃないだろうか」

日本の戦後世代にとって、元特攻隊員たちの体験は想像もつかない。元隊員たちの家族にとっても。

山田さんの孫の長谷川佳子さんは、祖父の人生を思うと、自分の人生は私だけのものじゃないと気づかされる、と語った。戦争で命を落とした兵士たちの子や孫として生まれていたかもしれない人たちのためにも、自分には生きる義務があると話す。

一方で、桑原さんの孫は、祖父が17歳のときに見習い操縦士として体験したことをはっきりとは知らない。

しかし、そんな平和な日本を作りたかった、と桑原さんは笑顔で語った。桑原さんにとって孫が何も知らないのは、日本が痛々しい過去から前に進んだ証しなのだ。

自分の国のために戦えるか?

WIN/ギャラップが2015年に数カ国で行った調査では、自分の国のために戦う心づもりがあると答えた日本人は11%だった。
◾パキスタン:89%
◾インド:75%
◾トルコ:73%
◾中国:71%
◾ロシア:59%
◾米国:44%
◾英国:27%
◾日本:11%
(英語記事 How Japan's youth see the kamikaze pilots of WW2

(※注):大日本帝国が戦う理由は、当初は「自存自衛」ということであった。しかしながら、「大東亜戦争を戦う日本には、戦う目的について堂々たる主張がなければならない。自存自衛のために戦うというのは、戦う気分の問題で、主張の問題ではない。日本の戦争目的は、東亜の解放、アジアの復興であって、東亜民族が植民地的地位を脱して各国平等の地位に立つことが世界平和の基礎であり、その実現がすなわち戦争目的であり、この目的を達成することをもって日本は完全に満足する」(『重光葵著作集・1 昭和の動乱』)と考えた外相の重光葵(しげみつ まもる:1887〜1957)は、「アジア解放」の理念を戦争目的に導入した。この大東亜会議のアイディアは彼のオリジナル。彼のインテリジェンス(智慧)は、帝国の崩壊を予期して、戦後を見据えて、アジアの開放と独立という大東亜戦争の歴史的意味とアジアでのわが国のプレゼンスを手にするよう働きかけていた。大日本帝国と共に大東亜戦争を戦い、自国を独立へと導いたアジアの指導者・英雄には、ビルマのバー・モウ(Ba Maw:1893〜1977)、フィリピンのホセ・ラウレル(Jose Paciano Laurel:1891〜1959)、インドのスバス・チャンドラ・ボース(Subhas Chandra Bose:1897〜1945)、インドネシアのスカルノ(Sukarno:1901〜1970)、インドネシのアハッタ(Mohammad Hatta:1902〜1980)、ビルマのアウン・サン(Aung San:1915〜1947)などがいる。彼らにとってわが国の存在は、自国の独立を手にするエンジン(原動力)になったに違いない。

良き政治家に恵まれて、大東亜会議の開催と大東亜共同宣言の発表が1年半早い1942年春であったなら良かったと思う。1943年後半は既に戦局が不利となっていて、アジア諸国の協力を得なければならないという認識が陸軍中央部に行き渡り、重光のアイデァが急浮上したといわれる。政治家主導では何事も進まなかったようで、国家をリードできる良き政治家に恵まれていない国情は今も昔も変わらない。良き政治家を私たち民衆が育て上げなければならない所以なり。

参考:
重光葵氏については→
 流れのままに 「御国の末の栄え−降伏から幸福へ−」(2008年09月03日)
Kamikazeについては→
 流れのままに 「Kamikaze?」(2015年11月21日)


大きな笑顔の佳き日曜日を♬