老子は、「功なり名を遂げて身退くは天の道なり」と言った。

大自然にはハーモニー(法則)があり、春は春のなすべきことを終えれば、その地位を夏に譲り、夏はその役割を果たすと秋に譲る。

同じように人間にも道あり、功なり名を遂げたら、いつまでもその地位にしがみつくことなく、次の者に譲るのが、大自然の法則に叶ったあり方だと覚える。

明治37(1904)年7月、伊庭貞剛氏(いば・ていごう:1847年2月〜1926年10月)は、「もう俺の仕事は終わった」と、58歳の働き盛りに、住友総理事の椅子を鈴木馬左也氏(1861年4月〜1922年12月)に譲り、郷里の琵琶湖湖畔に隠棲した。

「せめて60歳までは」と当主に懇願されたが、彼の心は不動であった。

なぜ勇退を急いだか。

彼は、生涯に一度だけ「少壯と老成」と題するエッセイを経済雑誌『實業之日本』(明治37年2月15日付所収)に寄稿している。そのなかに理由らしきものが見出せる。

 白髪は敬へといふことは、和漢洋共に昔から同じ樣にいひ傳へてある所をみると、これは動すべからざる定則であらう。さて、何が故に白髪は敬はねばならむのであるか。いふまでもなく、白髪には年の功、即ち壯者に求めて得べからざる經驗といふものがあつて、老人獨特の珍寶となつてゐるからであらうと思はれる。

 實に經驗といふやつは、如何なる高貴の書物からでも學ぶことの出來ず、如何なる莫大なる金力にても買ふことの出來ぬ貴重の寶には相違ないので、經驗と學問といづれを必要だといふ質問は、もとより問題にならぬのである。老人の價値は唯、この一點に在るので、老成者が常に經驗の必要を唱へて、少壯者を誡しめるのは、洵に尤もな次第であるが、之に就いて是非一ついつて置きたいと思ふことは、經驗に重きを置き過ぎないよう、よく注意せぬと、とんでもない過失に陥ることがあるかも知れぬ。兎角老人の癖として、何事につけても經驗といふ刄物を振廻はして、少壯者を威しつけ、なにがな經驗者の意見に服從せしめようとする傾きがあり、又少壯者は平生から此刄物の恐るべく貴ぶべきを知つて居るから、大抵は經驗者の命令に盲從するのが多いやうに思はれる。然し自分の信ずる所では、是は大變なまちがひである。如何となれば、經驗にもいろいろあるある。例へば同じく商業上の經驗でも、戰亂時代の經驗と平和時代の經驗とは、全く別種類のものである。戰時の經驗は、平時になると餘り役に立たないもので、強いて之を應用しようとすると、それこそ大變なまちがひが出來るのである。しかのみならず、時勢は日日に進歩してゆく。萬事新陳代謝の世の中であるから、十年も二十年も前に獲た經驗を何等の判斷なしにそのまま押しつけようとするのは、だいたいまちがつた話である。

 且經驗といふことは、自分で實驗して始めてわかつたのが經驗で、他人から海悗蕕譴唇未任覆なか眞實にわかるものでない。然るに老成者はややもすると、少壯者の過失を以て、經驗者の言ふことを聽かなかつたといつて、其の過失を嚴言するが、これは無理な話で、少壯者は之から種種なる實驗に遭遇して漸次經驗を積んで行かうといふのだから、少少の過失はもとよりまぬがれないと思はなければならぬ。少壯者に貴ぶ所は敢爲の氣力である。老人は經驗がある代りに、萬事が保守で兎角大事を取り過ぎる。啻に自分ばかり大事を取るのみならず少壯者を誡めるのにも保守的である。然るに少壯者はこれから經驗して行かうといふのであるから、何事にでも自から進んでぶちあたつて實驗して見なければならないから、敢爲の氣力といふものがどうしても必要である。即ち少少危險だと思うても自からやつて見る。むつかしいと思うても進んでぶちあたつて見る。そうでなくてこれも危險、あれもむつかしいといふ風に、萬事老人の保守談に盲從してゐるやうでは、到底事業も出來ず、また眞實の經驗も得られるものではない。その中には幾多の過失もあらう。しかしこの過失は敢爲の少壯者にはまぬかるべからざるもので、いづれは貴重なる經驗となるべきものであるから、大抵の場合ならば少壯者の過失は成るべく寛假して之を助け導いてやるだけの雅量がなくてはならぬ。少壯者にしてもまた白髪を敬ひ、經驗を貴ぶ念はあくまでも失うてはならぬが、さりとて經驗に盲從して、爺じみた因循姑息の若爺となつて了つては最早發達するものではない。

 老人の保守と少壯の進取とは兎角相容れないもので、此の衝突は何れの社會でも多く見受けることであるが、これが衝突しては如何なる事業も發達するものではない。これが調和を圖るのはまことに大切な事であつて、これはどうしても老成者の責任として自から任ぜねばならぬ事と思ふのである。然らば如何にしてこれが調和をはかるかといふに老人は少壯者の邪魔をしないようにするといふことが、一番必要であらうと自分は信じてゐる。衝突に就いては大抵双方共に責があるのは無論であるが、老成者は少壯者を助け導いて行く位地にあるだけ、それだけ責が重い。故に老人はよほど讓つてやるところがなくてはならないのに、實際はさうでなくて、老人は兎角經驗といふ刄物を振りまはして、少壯者をおどしつける。なんでもかでも經驗に盲從させようとする。そして少壯者の意見を少しも採り上げないで、少し過失があると直ぐこれを押へつけて、老人自分が舞臺に出る。少壯者の敢爲果鋭の氣力がこれがために挫かれるし、又青年の進路はこれがために塞がつてしまう。實業界にてもかういふ例は到るところに見受けるのであるが、これでは老人の方が大層悪い。事業の進歩發達に最も害をするものは、青年の過失ではなくて、老人の跋扈である。老人も、青年も、共に社會勢力には相違ないが、その役割をいふと、老人は注意役、青年は實行役である。進取開拓の事はどうしても青年をして、之に當らしめなければならぬ。老人は唯經驗を時勢に參酌して注意を與へるに止まり、すべて少壯者に讓り、いちいち之を牽制束縛するやうなことはしないで、なるべく其の敢爲果鋭の氣力を充分に發揮せしめるつもりでやるならば、決して老少の衝突を見ることもなく、保守と進取と能く調和して、必ず事業の發達を見るに相違ない。終に臨んで、一言青年に告げて置きたいと思ふ事は、經驗に盲從してはならぬが、經驗はあくまで尊重しなければならぬ。殊に少壯鋭氣に任せて、成功を急いではならぬ。今の時勢では順序を履んで進むものでなければ、決して成功しない。頭ばかり先へ出ようとすると足もとが浮く。急ぐと無理が出る。手ぬかりが出來る。不平が起る、人の惡口をいふ、人の惡口をいふのは天に向つて唾するやうなもので、禍はつまりわが身に來るものである。早く樂をしたいといふやうな考でなく、或一つの目的を確乎と握つて、一代で出來ねば、二代でも、三代でも懸けてやる位の決心で、一生懸命に人事を盡くすなら、成功は天地の理法として自然に來るものである。


閑話休題(ソレハサテオキ)

伊庭貞剛@四国 別子銅山伊庭氏が、住友総理事になった頃の四国・別子銅山では、鉱毒水や鉱煙による公害が問題となり、地域住民との紛争が絶えなかった。明治中期までの鉱山業は精錬の燃料として多くの木を伐採し、山では硫黄を含む鉱石を焼いていた。その結果、別子の山は一面禿げ山となってしまった。(写真は1881年当時@住友史料館)

彼は新居浜に着任するや、「この山をこのまま荒れ果てた状態を放置するには天地の大道に背くこと」であると見極め、「国土に報いる」事を目的として本格的な植林を開始。別子の開発がもたらした禿げ山であれば、それをもとの豊かな自然に戻すのが責任だと考えたのであった。

植林事業にあたる技師に対しては、「祖先以来別子で乱伐した山をもとのように戻して返さなければならない、いや、もと以上にして返さなければならないから頼む」とその事業の意味を説いた。

人を本当に動かすもの、それは金・力・地位ではなく、
事にあたる人間の品性・人格である、と伊庭氏の生き方は教えてくれる。

伊庭貞剛@四国 別子緑地 明治32(1899)年には植林面積は208町歩(62万4千坪)に及び、その成果によって今日の別子は本来の緑を取り戻している。昭和42(1967)年までに6,422万8千本が植えられた。(写真は現在@住友史料館)

ここから生まれてくる膨大な木材は鉱山会社では処理しきれなくなってしまった。この管理会社として住友林業が設立され、この山林は住友の山として受け継がれている。


   緑をお返しする。
   自然は、それ以上のお返しをしてくれる。



すべての事業が、春風の如き温もりを感じられるようになることを祈願して止みません。


大きな笑顔の佳き週末を。


参考:住友人物列伝:総理事と呼ばれた人たち「伊庭貞剛 その1」