高校1年生の晩秋の頃。通学用にと両親から買ってもらった自転車を学校の駐輪場から盗まれた。それは人さし指一本で持ち上げることができるステンレス製のFujiの自転車。私はどこのだれかは知らないが、盗んだ者に腹が立って仕方がない。母は「持って行った人は必要があったのだから、きっと何かに使っているのよ。氣にしない、氣にしない」と私を宥(なだ)めてくれる。父は「姿・形ある物は必ずこの世からなくなるものだから」と私を諭す。間もなく、失った物など何もなかったことを覚(さと)る。そして、徒歩での通学を始めた。

この出来事の数日後、ヴィクトル・ユーゴーが1862年に執筆した『レ・ミゼラブル』を読む機会に恵まれた。1815年10月のある日、76歳のディーニュのミリエル司教の司教館を、46歳のひとりの男、ジャン・ヴァルジャンが訪れる。彼は貧困に耐え切れず、たった1本のパンを盗んだ罪でトゥーロンの徒刑場に19年間、服役していた。司教は、それまで行く先々で冷遇された彼を暖かく迎え入れる。しかし、その夜、大切にしていた銀の食器をヴァルジャンに盗まれてしまう。翌朝、彼を捕らえた憲兵に対して司教は「食器は私が与えたものだ」と告げ、彼を放免する。そればかりか、彼に2本の銀の燭台をも与える。結果、彼の行為と氣持ちがヴァルジャンに回心(Conversion)をもたらす。それまで人間不信と妬みの塊であった彼の魂は、愛(humanity)と許し(慈悲)を覚え、未来を決めるのは自分の意志なのだと知るのであった。

被害者意識と唯物とに耽(ふけ)る直線的思考は、頭と身体の老化を促す。ノンリニア編集(Non-linear editing)のように、自由自在に、即座に環境を追加・削除・修正・並べ替えることができる頭と心の軟さが必要となる。


閑話休題(ソレハサテオキ)


最後の晩餐でイエスは、パンを手にして「これが私の體(からだ)である」と言い、杯をとり「これが私の血である」と言って弟子たちに与えた。伝統的なカトリックと正教会のキリスト教徒たちは、この聖餐をサクラメント(秘跡)として受け取り、教会は「聖体拝領(ユーカリスト)」として儀式化した。この「イエスから与えられるパンとワイン」を、ノンリニア(非直線)的に「イエスへ与えるパンとワイン」として描いたのが映画『汚れなき悪戯(Miracle of Marcelino)』(1955年・スペイン)。

6歳に成る主人公・マルセリーノは、ある日、二階の納屋奥で壁に取り付けられた十字架に等身大のキリスト像を見つける。彼は小窓を開け、明るい中でそれを見つめるのであった。茨の冠を被ったキリストは痩せ細り、空腹に見える。少年は可哀想にと思い、一階の台所から一切れのパンを無邪氣に拝借し、「食べて」とキリスト像へ与える。すると、ゆっくりと静かにキリスト像の右手が動き、マルセリーノからパンを受け取った。それからのマルセリーノは、飢えと寒さに悩むように見えるキリストの許(もと)へ、無心にパンとワインを繰り返し運び続ける。キリストは、十字架から降り、マルセリーノが準備した古椅子へ座って、パンを食べながら彼に優しく話しかけた。



この小さなマルセリーノを心から慈しむ12人の修道士たち、十字架のキリストを可哀想に思う少年のあるがままの思いやり(humanity)、彼が抱く己が母とイエスの母への憧憬(しょうけい)の念、そしてキリストの愛(humanity)が渾然一体となって、死んだら終わりではないという場(この世)を形成している。サソリに刺され死線を彷徨いながらも修道士たちの献身により復活した少年は、イエスへのパンとワインそしてイエスの導きにより永遠の生命(いのち)を与えられるのであった。

この作品は、最後の審判(Last Judgement)の時が来ること、死者の魂とのコンタクトができること、死んだら終わりではないことの三つのことを知らせる作品なのだと心得た。

Last Judgement または最後の一厘の仕組みというものは、私たち一人ひとりの魂のレベルで始まる。死後の世界を知ることなく、死んだら終わりの唯物論を信じて自分のGreedy(強欲)のみを人生のゴールにしてはいないだろうか。考えてみよう。

この神知の仕組みを知り、あの世とこの世の関係を見極め、自分がいかなる約束を果たすために、どこから来てどこへ行くのかを知って、この人生がスタートした地点よりも進歩したところで、創造的に人生を終え、天界さらに神界に上り、そこで再び役割を担いたいと願う。


大きな笑顔の佳き週末を。