今日2月7日は、「北方領土の日」。北方領土問題に対する国民の関心と理解を更に深め、全国的な北方領土返還運動の一層の推進を図るために制定された。1855年2月7日(安政元年12月21日)、伊豆の下田で日魯通好条約が調印。日露両国(江戸幕府と帝政ロシア)の国境が択捉島とウルップ島の間に平和裏に定められ、北方四島が日本の領土として初めて国際的にも明確になった。その2月7日に由来している。

独立行政法人北方領土問題対策協会のサイトでは、以下のように明記されている。
北方領土とは、択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島のことです。
これら北方四島は、1945年にソ連に法的根拠なく占拠され、ソ連が崩壊して、ロシアとなった現在もその状態が続いています。

にもかかわらず、日本経済新聞が1月25〜27日に行った世論調査では北方領土について「4島の一括返還」をすべきだと答えた人は27%で、同様の質問をした昨年11月より6ポイント下落した。日本の政権政党が歴史教育の必要性とそのあり方についての見識と胆識(行動する勇氣)を持てないでいること、そして日本の教育機関及びメディアの構成員たちが戦中戦後の歴史的事実を知らせる活動をしてこなかったことのツケです。現実味のある生活空間として日本の民衆に意識されない所以でもあります。日露双方の地域住民の生活を安定させ、私たち日露の民衆が共生していくために民衆みんなで考え協働して未来像を描きあげたいものです。
「不法占拠」の表現、アピールで使わず 北方領土の日 全国大会
(東京新聞 2019年2月7日 夕刊)
 「北方領土の日」に当たる七日、政府や関係団体などが「北方領土返還要求全国大会」を東京都内で開いた。領土問題の早期解決を求めるアピール案には、例年とは異なり、北方四島の「不法占拠」との表現は使われなかった。安倍晋三首相とロシアのプーチン大統領との平和条約締結交渉に悪影響を与えないよう配慮したとみられる。
 アピール案は、北方四島を「わが国固有の領土」と明記。「政府と国民が一体となって、積極的に返還要求運動に取り組む。平和条約締結に向けた交渉を後押しする」などの文言も盛り込まれた。「不法占拠」の表現は、北方四島が日ソ中立条約に反して不当に占領されたとの政府見解に基づき、毎年の大会アピールに盛り込まれてきた。
 今大会に出席した首相は「皆さまの切実な思いをしっかりと胸に刻み、一歩一歩、着実に領土問題の解決に取り組んでいく」とあいさつし、日ロ交渉の進展に意欲を示した。二月七日は一八五五年に北方四島を日本の領土と確認した日露通好条約が結ばれた日で、政府が「北方領土の日」と定めている。 (島袋良太)

◆アピール案ポイント
一、北方四島について、ロシアによる「不法占拠」との表現を盛り込まず
一、昨年あった「解決がこれ以上長引くことを断じて許すわけにはいかない」との言葉も使わず。
一、北方四島は「わが国固有の領土」であり、返還実現を目指す。
一、平和条約締結に向けた交渉を後押しする。


閑話休題(ソレハサテオキ)

“2島引き渡し 平和条約交渉急ぐ” 旧ソビエト機密文書
(NHK 2019年2月7日 4時43分)
 日本とロシアの両首脳が平和条約交渉の基礎としている1956年の日ソ共同宣言をめぐって、当時のソビエト指導部は、アメリカとの対抗上、交渉の進展を急ぐ必要に迫られ、早い段階から、北方領土の歯舞群島と色丹島の2島の引き渡しを最大の譲歩案として交渉に臨む方針を固めていたことが、NHKが入手した文書で明らかになりました。2島の引き渡しで最終決着を図ろうとしてきたプーチン大統領の考え方の基礎になる資料として注目されます。
 日本とソビエトは、1955年の6月にイギリス ロンドンで、国交正常化に向けた交渉を始め、翌56年に平和条約の締結後、歯舞群島と色丹島を引き渡すことを明記した「日ソ共同宣言」に署名しました。
 2島の引き渡しについては、ソビエト側の交渉責任者だったマリク全権が55年8月、非公式の場で、日本側に突然、持ちかけたものですが、その意図は不明でした。
 これについてNHKが7日までに入手した当時のソビエト共産党指導部の機密文書では、交渉開始直前の6月2日付けで「両国関係が良好な方向に発展していく場合、歯舞群島と色丹島の引き渡しの交渉を始めることは可能だ」としていて、「外国軍の基地を置かない」ことを条件に、早い段階から2島の引き渡しを最大の譲歩案として交渉に臨む方針を固めていたことが明らかになりました。
 その理由として文書では「日本に対する影響力を強め、アメリカの政治的、経済的立場を弱める措置をとる必要があり、その際に日本の経済的、政治的独立性の願望を利用する」と書かれていて、冷戦下のアメリカとの対抗上、交渉の進展を急ぐ必要に迫られていたことが背景にあるものとみられます。
 今回の文書についてロシア政治に詳しい法政大学の下斗米伸夫教授は「歯舞・色丹の話が出てくるプロセスが初めて見えてきた。2島を提供するという譲歩で、ソビエトがアジアでの立場を強め、アメリカに対するけん制を強めようとした意図が明らかになった」と指摘しています。
 そのうえで「プーチン政権の交渉態度も、当時の文書を基礎に考えている節が見てとれる」と述べていて、日ソ共同宣言に基づいて2島の引き渡しで最終決着を図ろうとしてきたプーチン大統領の考え方の基礎になる資料として注目されます。

ソビエト指導部の方針や経緯明らかに
 今回NHKが入手した機密文書によって、日本との国交回復交渉に臨むソビエト指導部の方針や経緯の一部が明らかになりました。
 このうち、1955年6月に交渉を開始する前の5月に出されたソビエト共産党指導部の指令文書の草案では「交渉の直接の目的は相互に大使館を設置すること」とされ、領土問題については「検討すべきものではない」と書かれています。
 ところが、イギリス ロンドンで日本側との交渉を始める前日の6月2日付けの文書では、ソビエト共産党指導部が方針を大きく変えたことが分かります。文書では「ソビエトは日本に対する影響力を強め、アメリカの政治的、経済的立場を弱める措置を取る必要があり、その際に日本の経済的、政治的独立性の願望を利用する」と書かれていて、冷戦下、日本をアメリカから引き離そうというねらいがうかがえます。
 中でも領土問題への対応については「日本が北海道に直接隣接する歯舞群島と色丹島の返還問題を提示する場合、ソビエトは特定の条件の下で検討することが可能だと宣言できる。両国関係が良好な方向に発展していく場合、歯舞群島と色丹島の引き渡しの交渉を始めることは可能だ」として、早い段階から2島の引き渡しを最大の譲歩案として交渉に臨む方針を固めていたことが明らかになりました。
 この文書は、保守派と言われた当時のモロトフ外相が作成した案をフルシチョフ第1書記やブルガーニン首相が承認する形となっていて、歯舞、色丹の2島の引き渡しはソビエト政府の一致した考え方だったことが分かります。
 その後、1955年7月14日付けの「歯舞群島と色丹島に関する指令の草案」と題された共産党中央委員会の文書には、ソビエト側の交渉団トップのマリク全権への具体的な指示が記されています。
 この中では「島を引き渡したあとに軍事基地を設置しないという義務を果たすならば、日本側に歯舞群島と色丹島の引き渡しに合意する用意があると伝えること」と書かれ、交渉開始から1か月後には2島の引き渡しに合意する用意があったことも明らかになりました。

日ソ国交回復交渉から共同宣言署名まで
 日本とソビエトの国交回復交渉は1955年6月3日、イギリスの首都ロンドンのソビエト大使館で始まりました。
 日本側は松本俊一全権が、ソビエト側はヤコフ・マリク全権が交渉責任者を務めました。
 交渉では、北方四島を含む領土問題も議題になりましたが、日本側が「歴史的に見ても日本の領土だ」と返還を主張したのに対して、ソビエト側は「第2次世界大戦の結果、解決された問題だ」として議論は平行線をたどりました。
 ところが、松本氏の回顧録によりますと8月5日、ロンドンの日本大使館で松本氏に対してマリク氏が突然「ほかの問題が全部片づけばソビエト側は日本側の要求に応じて、歯舞、色丹を日本に引き渡してもいい」と述べたということです。
 松本氏は「最初は自分の耳を疑ったが、内心非常に喜んだ」としています。しかし日本政府としては、国後島と択捉島を含めて4島の返還を求める姿勢を崩さず、ソビエト側も態度を硬化させていきました。
 結局、1956年10月、モスクワを訪れた当時の鳩山総理大臣とブルガーニン首相が「平和条約の締結後に歯舞群島と色丹島を引き渡す」と明記した日ソ共同宣言に署名し、平和条約の締結には至りませんでした。

専門家「プーチン大統領も考え方を参考に」
 NHKが入手した当時のソビエト共産党指導部の機密文書について、ロシア政治が専門の法政大学の下斗米伸夫教授は「歯舞群島と色丹島の2島の話が出てくる過程が初めて見えてきた」と評価しました。
 具体的には、保守派で対日交渉に消極的とされた当時のモロトフ外相も2島の引き渡しを了承していたことがうかがえるとしたうえで、「最高指導部の決定として比較的最初から合意されていた方針だったことが分かるのではないか」と述べ、2島の引き渡しの方針が共産党指導部内で一致した考え方だったという見方を示しました。
 その背景として下斗米教授は、アメリカとの冷戦が続く中で、ソビエトにとってどのようにして日本をアメリカから引き離すかが重要になっていたとし、「歯舞、色丹を日本に提供するという譲歩でソビエトがアジアでの立場を強め、アメリカに対するけん制を強めようとした意図が明らかになった」と指摘しています。
 そのうえで「最近、ラブロフ外相が非常に厳しい発言をしているが、プーチン政権の交渉態度も当時の文書を基礎に考えている節が見てとれる」と述べました。具体的に下斗米教授は「小さな島は北海道の先だから平和条約の締結後に引き渡す。ただし国後、択捉は交渉しないということだ」と述べ、プーチン大統領も、北海道に隣接しているという理由で、歯舞群島と色丹島の引き渡しで最終決着を図ろうとした当時のソビエト指導部の考え方を参考にしているという見方を示しました。

 日露間では平和条約が未だ締結されていないが、締結交渉の際にはシベリア抑留者の奴隷労働の事実と補償を条約に記したい。それによって、多くの私たち日本の民衆に戦争の事実が再発見され、そして英霊たちの帰還を促すことになるだろう。それまでは日露間は戦争状態にあるという認識を持ちたい。
プーチン大統領が"ダレスの恫喝"に言及 北方領土問題で米国が「日本を脅迫した」
(安藤健二 The Huffington Post 2016年12月18日 17時41分 JST)
 ロシアのプーチン大統領は北方領土問題に関して、日本が1956年の「日ソ共同宣言」で四島返還を主張した背景にはアメリカからの圧力、いわゆる「ダレスの恫喝」があったという見方を示した。日露首脳会談の後、安倍首相と首相公邸で開いた12月16日の共同記者会見で言及した。
 
■「ダレスの恫喝」とは?
 1956年10月、鳩山一郎首相とソ連のブルガーニン首相はモスクワで「日ソ共同宣言」に署名した。この際、北方領土をめぐってソ連側は歯舞群島、色丹島の「二島返還」を主張したが、日本側は国後島と択捉島を含む「四島返還」での継続協議を要求して交渉が折り合わなかった。
 そのため「共同宣言」では「ソ連は歯舞群島及び色丹島を日本国に引き渡すことに同意する。ただし、これらの諸島は平和条約が締結された後に現実に引き渡されるものとする」と明記されることになった。
 当時、アメリカのダレス国務長官は重光葵外相に対し「二島返還を受諾した場合、アメリカが沖縄を返還しない」という圧力(いわゆる「ダレスの恫喝」)をかけていたと伝えられている。

■プーチン氏「ダレス国務長官が日本を脅迫したわけです」
 産経ニュースによると、プーチン氏は「共同経済活動をどのように平和条約締結に結びつけていくのか」などと聞かれた際に、以下のように歴史的経緯を話した。
1956(昭和31)年に、ソ連と日本はこの問題の解決に向けて歩み寄っていき、「56年宣言」(日ソ共同宣言)を調印し、批准しました。
 この歴史的事実は皆さん知っていることですが、このとき、この地域に関心を持つ米国の当時のダレス国務長官が日本を脅迫したわけです。もし日本が米国の利益を損なうようなことをすれば、沖縄は完全に米国の一部となるという趣旨のことを言ったわけです。

 その上でプーチン氏は「私たちは地域内のすべての国家に対して敬意をもって接するべきであり、それは米国の利益に対しても同様です」として、北方領土問題に対してアメリカの利益が絡んでいると主張。「一番大事なのは平和条約の締結」として、最終的に日本との平和条約の締結を目指す考えを示した。

President_Eisenhower_and_John_Foster_Dulles_in_1956[1]
John Foster Dulles(February 25, 1888 – May 24, 1959) with U.S. President Eisenhower(October 14, 1890 – March 28, 1969) in 1956.