昨日の朝、久々に清水博氏(1932年生)の『生命と場所』(1999年・NTT出版)を紐解く。「創造」に関する次の箇所に引き寄せられた。
・・・創造には方向性がなければなりません。倫理はこの方向性を示す、と私は思っています。創造的な場には倫理性がなければならないのです。この倫理感から使命感が生まれてきます。何らかの使命感をもってはたらくことで、狭い意味での「私」へのこだわりを捨てて、場所の問題を背負う行為が可能になります。
(中略)
 創造にとって、まず大切なことは新しい疑問を発見することです。創造とは正解を発見しようとするはたらきでは断じてありません。自分が疑問を感じるところからしか出発できないということなのです。次にその疑問がどのような問題から生まれてきたのか、夾雑する無関係な情報や信号を消して、その起源を明らかにしていきます。自分の意識が透明になるにしたがって、疑問のなかに存在している「問題の核心」が次第にはっきり見えてきます。私はこれを「問題の鈍化」と呼んでいます。やがて、これ以上は鈍化できないという段階に来ます。それは、その核心をひと言で表現できるという状態にいたる段階です。そして、その核心的な問題をどのように解決するか、夜眠っている間にも考えるともなく考えつづけていきます。これを「問題を抱いて寝る」と言います。若者が、好きな人のことを昼も夜も思いつづけるときように、考えるというより、思いを集めて意識を集中していくのです。このような状態が続くと心身が消耗しますが、むしろその心身消耗の臨界的状態に自己を置くことが飛躍のために必要です。そして考えている問題から思わず気を離した一瞬に、突然核心的な真実が目前に閃いて、そこから新しい世界が広がっていきます。その世界は、閃きがおきる前にはまったく考えてもみなかったものです。要するに、創造というものは、自分自身が「存在している」場所が変わるということなのです
(中略)
 倫理に関する感性を高めていけばいくほど、かすかな光が送られているのが見えてくるのです。それは誰かに良い評価をされたり、あるいは自己の名誉のために何かをするというような気持ちとはまったく無縁な世界です。創造はコロンブスのように自分自身を信じて無限定な未来のなかへ出て行く冒険ですが、その暗黒の闇のなかで方向を間違えないためには、未来の方から自分を導くはたらきが必要です。暗黒の闇のなかに迷っている自分の存在を照らし、未来へ誘うはたらきです。(356〜358頁より引用)

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参考:場の研究所 https://www.banokenkyujo.org/

代表者挨拶
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NPO法人 場の研究所
所長 清水 博

 人間が自分自身の〈いのち〉を空洞化して仮想空間に住む人工物に置き換えていくという信じられない変化が世界的に進行しています。これは「他の人より多くを 独占したい」という、「この私」の独占欲から生まれてくる心の病です。私たちがこの不幸から解放されるためには、「この私」という概念そのものがすでに 〈いのち〉のない仮想モデルであることに気づいて、「誰もが主役」という〈いのち〉本来のドラマを共創していく実践が必要です。
 場の研究所はその勉強と実践のなかで、それぞれが本来の〈いのち〉を取り戻していくところです。地球の「場としての〈いのち〉」に包まれて生きていく「粒 としての〈いのち〉」という〈いのち〉本来のあり方を掴むことができれば、生にも、また死にも、大きな安心が与えられて、未来が開かれてくることを実感で きます。



閑話休題(ソレハサテオキ)


社会の構成員として私たちには、街で顔を腫らした姿や夕飯時にひとりぼっちで公園等の広場に居る少年少女を目にしたときに、「はじめまして。何か私にできることはありますか」と敬意を以って尋ねる勇氣・胆識はあるでしょうか。サポートするとか守ってあげるという上から目線よりは、私たちが見習うべき靈格の持主として尊敬の念を以て接したいものです。「マタイによる福音書」18章から、子らと如何に接すべきかのインスピレーションを得ることができそうです。子らは親の所有物(奴隷や生贄)ではありません。親は子らの近くにいて、子らの世話や教育をしますが、真の親権(神権)は天の国にあるということを想いだしましょう。 天からの授かりものなのです。
18:01そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と言った。 18:02そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、 18:03言われた。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。 18:04自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。 18:05わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」 18:06「しかし、わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである。 18:07世は人をつまずかせるから不幸だ。つまずきは避けられない。だが、つまずきをもたらす者は不幸である。 18:08もし片方の手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨ててしまいなさい。両手両足がそろったまま永遠の火に投げ込まれるよりは、片手片足になっても命にあずかる方がよい。 18:09もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。両方の目がそろったまま火の地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても命にあずかる方がよい。」 18:10「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。 18:11*人の子は、失われたものを救うために来た。 18:12あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。 18:13はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。 18:14そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」
(マタイによる福音書 18章 01-14節 日本聖書協会http://www.yoyoue.jpn.org/bible/mat.htm

ともすれば、私たち民衆は犯罪を特異な個人の行為として括(くく)り、「Retributive Justice(応報的司法)」すなわち法律で犯罪と定められた行為に対する報いとして、国家が個人に刑罰を科すことを以ってその犯罪は一件落着したかのように思いがちです。そもそも社会の構成員として誠実な人間の生活ができていなかった人に刑罰を繰り返し科そうとも、犯罪の背景にある社会問題を解決し、新たな被害者・加害者を生まないようにすることには必ずしも役立っていません。刑罰は犯罪を減らすことの必要十分条件ではありません。どのような社会の変化が事件に連関しているのか、事件の背景にはどんな問題が隠されているかを、見極めたいものです。
虐待で児相通告8万人超、18年 警察庁の犯罪情勢
(東京新聞 2019年2月7日 10時31分)
 警察庁は7日、2018年の犯罪情勢(件数などは暫定値)を公表した。虐待を受けた疑いがあるとして児童相談所(児相)に通告した18歳未満の子どもは前年比22・4%増の8万104人で、統計のある04年以降初めて8万人を超えた。ドメスティックバイオレンス(DV)やストーカーの相談件数なども高水準。刑法犯全体の認知件数は81万7445件で、戦後最少を更新した。
 通告児童数は過去5年間で約2・8倍に増加。18年分の内訳は、暴言などの心理的虐待が5万7326人と7割を占めた。暴力による身体的虐待が1万4821人、ネグレクト(育児放棄)などの怠慢・拒否が7699人。(共同)
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悪魔的な児童虐待の原因は核家族化または先の大戦後のアメリカ化よって起こったのであり、「コインロッカー家族」と呼ばれる家族とそれを容認している社会の様態を見極め知る必要がります。
・・・児童虐待の多くは社会から隔離された家族のなかでの現象である。教育母子家族が大衆化した戦後,高度成長期を経てのことになるが,コインロッカー家族(庄司洋子1988)と呼ばれる家族の特徴は,都市の核家族の多くに当てはまるものであった。コインロッカ― 家族とは,都市のマンションに典型的な,ドアの鍵がかけられた家庭のなかで誰がいるか,何がおこっているかは,外部からは(隣でさえ)うかがい知れない,という孤立した密室としての家族を指している。そのなかで子どもたちが社会化を経験している。虐待があってもなかなか外からは見えないという状況の成立である。
 このコインロッカー家族のなかで社会化の営みがおこなわれ,家族外の社会からは,その営みに対して介入不可能になっている。つまり,社会化システムとしての家族と,現にある社会という意味での社会システムとの乖離である。この乖離は,教育母子家族という規範とともに,都市の流動性や匿名性や利便性,あるいは家族の密室
性などの構造的要因に大きく関わっているのであるが,社会化の問題が生じると,そうした要因は軽視されるか,忘れ去られて,社会化システムとしての家族関係や母親のありかたのみが強調的に問われることが多いのである。構造がもたらす閉塞性に導かれて,構造を所与とした閉塞的な研究(篇言説)が多く生産されるということにも注意しなければならない。
 これに対して,庄司洋子(同上)は,1988年におきた「子ども置き去り事件」(非婚の母子家族において,母親が愛人と暮らしつつ,子どもに送金してはいたが,14歳の長男とその妹たちだけで暮らすことになった結果,幼い妹の死にいたるまで事態が進んでしまった)について,社会的規範や上述した現代の都市および家族の構造的要因に注目して論じた。また,松村尚子(1985)は,現代社会を『構造的育児不能社会』と呼んで,その問題点を指摘している。それらは,現にある社会システム,すなわち家族を取り囲む現代社会が,顕在的な社会化を担うシステムとしてまったく不十分であることの指摘であった。社会化という機能を,現代の社会が果たせなくなっているということである。
(『社会化とフェミニズム』(渡辺秀樹・「教育社会学研究第61集(1997)」)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/eds1951/61/0/61_0_25/_pdf

子らは自らの親・家族を選んで生まれ来たのではなかったのでしょうか(※注)。例外なく、私たちの誰もがその親・家族によって人生の大部分の物事を決められてしまい、動かすことができません。ですから、親・家族はあらゆる不平等の根源である、という認識を持つ必要があります。私たち大人は子らに対して、この不平等、特に著しい不利益を彼らの意思を無視して、無理に承知させたり、引き受けさせたりしないですむように、できる限りの努力をしようではありませんか。そのような未来を思い描き行動することで、未来から私たち大人を導き、子らが育つ家族(国)を変えていくことができそうです。

人間の性情は親・家族(磁場)によって織りなされるさまざまな要素を具体的に現しているものです。弱者をいかに守るかに専心すると同時に、強い愛の磁場(家族・日の本の人)をいかに育(はぐく)むかに意識を集中したいものです。親性(神性)の魂(たましい)が 幸(さき)はふ国が日本なのではありませんか。
 

※注: 現代日本では、親・家族に殺される運命を与えられた子らが生まれているということなのかもしれません。親子の結びは人生の中で最重要な結びであるはずなのですが、そうではなくなってしまったのでしょうか。

参考: 流れのままに 『愛の法律』(2015年03月02日)


大きな笑顔の佳き連休を。

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