スパイク・リー監督(Shelton Jackson "Spike" Lee:1957年3月生)は、『ドゥ・ザ・ライト・シング』(Do the right thing:1989年)を通して、優しく、しかしながら現実を見極めて"Do the right things, not enough do the things right."と教え伝えてくれた。何も考えずにみんながしているからという理由で行動するのと、自分の頭で考えながら行動するのとでは、社会創りに大きな違いをもたらしますよ、ということ。創意努力しながら、最善を見極めたいものです。
名門麻布が"コーヒーの淹れ方"を問う理由
"12歳の知性と教養"を熟知した難問

(西村則康 プレジデントオンライン2019.4.10 )

 東京・広尾の名門校、麻布中学校が理科の入試問題で「エスプレッソの作り方」を出した。問題文には「みなさんも大人の味覚がわかるようになったら、楽しんでみてください」というメッセージまであった。学校や塾では絶対に教えないことを問題にする狙いとは――。

麻布の理科が問うのは「好奇心の有無」
 その問題を見た瞬間、思わずニヤリとしてしまった。毎年、中学入試後に行う入試問題の分析で、私が最も楽しみにしているものといえば、麻布の理科だ。
img_afc1e69c19166be2c22ac5e4ca560783178977[1] 麻布の理科入試は、毎年、目新しいテーマが出題されることで有名だ。今年はなんと「エスプレッソの作り方」が出題されたのだ。問題文はコーヒーの豆の話から始まり、焙煎機の使い方、コーヒーミルの使い方、お湯の注ぎ方と濃さの関係、エスプレッソの豆の挽き方、エスプレッソを入れる器具の扱い方などを問う問題が続く。
 苦味や酸味といった成分の特徴や濃度を求める問題は、化学分野とも言えるが、はたしてこれが中学受験の理科入試と言えるのだろうか。こんな知識は、学校はもちろん、塾のテキストにも載っていない。
 それこそが麻布の理科なのだ。麻布の理科入試は、中学受験で求められる一般的な知識はさほど求めていない。知りたいのは、「知識の有無」ではなく、「好奇心の有無」だからだ。
 麻布の理科は、とにかく問題文が長い。たった40分の制限時間内にB5中とじ10ページ分の文章を読み進めていかなければならない。大人でもひるむ文字量だ。しかも、問題文の素材は、学校や塾では触れることのない内容ばかり。2017年度は巨大昆虫と恐竜を素材にした「進化」の話、2018年にはヤンバルクイナの生態や探査機カッシーニの活躍が取り上げられた。そして、今年は「エスプレッソの作り方」である。

12歳の知性と教養を熟知した「難問」
 しかし、文章こそ長いものの、言葉使いや説明は丁寧でやさしく、12歳の男の子が読める内容になっている。文字量の多さや初見の問題を前に、「こんな長い文章はとても読めないよ……」「あれ? 塾でやっていない問題が出ている」と逃げ腰になってしまう子は、とても太刀打ちできない。一方、「どれどれ、何について書かれているのだろう?」「なんだか面白そうだな」と好奇心を持って読み進めていける子なら、麻布の素質は十分にある。
 「難問」と言われる麻布の理科入試だが、作問者は意地悪でこんな問題を出しているわけではない。むしろ、受験勉強を通じて学んできたであろう「12歳なりの知性や教養」を十分理解した上で、持っている知識や思考方法を総動員すれば答えを見つけることができる問題に仕上げている。そのスタイルは何十年も変わらない。そして、これからも変わらないはずだ。
 近頃は麻布以上に難解なテーマを出題する学校が増えている。なかには、高校の物理や化学のテーマを扱う学校もある。しかし、同じ「難問」でも、それらの問題には「相手が12歳の小学生である」という視点が欠けている。難しすぎて点差が付かなかったり、過去問指導で“捨て問”(難問過ぎて手をつけるべきではない問題)にされてしまったりするのがオチで、あまり意味がない。
 今、人気上昇中の進学校「渋幕(渋谷教育学園幕張中学校)」や「渋渋(渋谷教育学園渋谷中学校)」は、麻布をリスペクトし、その流れをくむ出題だが、どこか味わいが異なる。12歳の知性と教養の捉え方の違いだろうか。麻布を超える良問はなかなかないと、私は思う。

麻布の理科入試こそ「学校からのラブレター」
 よく「入試は学校からのラブレター」と、たとえられることがあるが、それはまさしく麻布の理科入試を指す言葉だと思う。麻布の入試はメッセージ性が強い。一般的な理科入試は「君たちはこういうことを知っているかい?」と知識を問うものであるのに対し、麻布の理科入試は「君たちはこういう考え方について来られるかい?」と、12歳の子どもの好奇心を刺激し、誘っているように感じる。
 「君たち、世の中にはね、こんな不思議なことがあるんだよ。その理由はね……」、麻布の理科入試は常にこんな感じで始まる。麻布では、教師は指定の教科書を使わず、自分で作成した手刷りのプリントを使って授業を進める。授業は生徒と教師が対話を楽しむアクティブ・ラーニングだ。基礎は教えるけれど、「1」から「10」まで教師が教えることはない。教師が質問を投げかけて、生徒たちで思考を広げていく。麻布の授業は、1つの答えを求めない。1つの現象をさまざまな角度から見て考える。
 こうした授業で求められるのが「好奇心」だ。麻布の理科入試では、こうした授業を楽しめる素質があるかを見極めるために存在するのだ。

入試問題に「メッセージ」が添えられている
 麻布の理科入試には、メッセージ性ではなく、メッセージそのものが添えられていることがある。2017年度入試には、生物分野の「進化」をテーマにした問題の最後に、学校からこんなメッセージが添えてあった。
ここまでの話を聞くと、ヒトはトンボよりも優れていると思えてしまいます。しかし、ヒトはトンボとちがって飛ぶことはできません。血液を使って酸素を全身に運ぶので、ヒトの体は飛ぶには重すぎるのです。進化と聞くと、生物が優れたものに変化するように思うかもしれませんが、進化で生まれるのは「ちがい」であって「優劣」ではないのです。

 このメッセージは、問題のヒントではない。問題の途中にある説明でもない。問1から問8までの問題と質問の後に、ただ書かれているもので、まさに「学校側から受験生へのメッセージそのもの」なのだ。「進化することは、良いことも、悪いこともある。それに気づけるような物事を複合的に見られる子と私たちは一緒に授業がしたいのだよ」。
 そんな声が聞こえてきそうだ。

「科学する者の日常はこんなに楽しい!」
 メッセージは今年もあった。しかし、今年もメッセージは、これまで以上に肩の力が抜けるものだった。これまでの学校からのメッセージは、「科学する者はこういう倫理観を持っていないといけないよ。科学的成功ばかりを考えるのではなく、環境にも配慮しようね」といった“科学する者の良心”を伝えるものが多かったが、今年はもっとラフに「科学する者の日常はこんなに楽しいのだよ!」と伝えたいかのように感じられた。
 コーヒーをテーマにした今年の入試には、問題の途中にこんな文章が織り込まれていた。
コーヒーの淹れ方には熱湯を少しずつ注ぐ以外の方法もあります。たとえば、エスプレッソは少量の熱湯に少し高い圧力をかけて1回の抽出で淹れた、非常に濃厚(のうこう)なコーヒーのことです。コーヒーは好みに合わせた楽しみ方がまだまだあるので、みなさんも大人の味覚がわかるようになったら、楽しんでみてください。

 今回は、問題用紙の最後ではなく、問7の問題の最後に書かれていた。この後、問8、問9と続くにも関わらず、「ここでこんなメッセージを添えちゃう?」といった場所に登場しているのだ。
 こうした文章を読んで「なんでこんなところにこんなメッセージを載せるんだよ〜」と読解スピードにとらわれているような子では、麻布は無理だろう。こうした意表ついたメッセージさえ、「おもしろい!」とワクワク前のめりになれるような子でなければ、麻布の授業に参加するための許可証(=合格)を手にすることはできない。

「前向きさ」と「好奇心」を求めている
 「君たち、日常の中にはいろいろな楽しいことがあるんだよ。それを突き詰めるととても面白いんだよ。ほら、コーヒーだってこんなに奥が深いでしょ? 君たちもこういうふうに知的好奇心を持ち続けてね」
 そんなメッセージが読み取れる問題だった。
 2019年度の東大合格者出身校第3位を誇る最難関校・麻布。しかし、麻布の教育の土台は「好奇心」だ。どんなに世の中の動きが変わっても、この土台が揺らぐことは決してない。
 麻布の理科入試は、“麻布らしさ”が最も詰まった入試だと感じる。大人もひるむような「長文」、12歳の子どもが初めて知る「初見の内容」、そういう問題を目の前に突き付けられた時におじけづくのではなく、わくわくしながら解こうとする「前向きな気持ち」と「好奇心」。それこそが、麻布が求めている生徒像なのだ

西村 則康(にしむら・のりやす)
プロ家庭教師集団「名門指導会」代表/中学受験情報局 主任相談員
日本初の「塾ソムリエ」として、活躍中。40年以上中学・高校受験指導一筋に行う。コーチングの手法を取り入れ、親を巻き込んで子供が心底やる気になる付加価値の高い指導が評判である。


閑話休題(ソレハサテオキ)


フト、新渡戸稲造博士(1862年9月〜1933年10月)の『武士道』の次の一節を想いだしました。
引用は1906年のPutnam's Sons社版と1974年の岩波文庫版(矢内原忠雄訳)から。
When character and not intelligence, when the soul and not the head,
知識ではなく品性が、頭脳ではなく霊魂が
is chosen by a teacher for the material to work upon and to develop,
琢磨啓発の素材として選ばれるとき、
his vocation partakes of a sacred character.
教師の職業は神聖なる性質を帯びる。

"It is the parent who has borne me:
it is the teacher who makes me man."
「我を生みしは父母である。我を人たらしむるは師である」。

With this idea, therefore, the esteem in which
one's preceptor was held was very high.
この観念をもってするが故に、師たる者の受くる尊敬は極めて高くあった。

A man to evoke such confidence and respect from the young,
かかる信頼と尊敬を尊敬とを青少年より呼び出すほどの人物は、
must necessarily be endowed with superior personality,
without lacking erudition.
必然的に優れたる人格を有しかつ学識を兼ね備えていなければならなかった。

He was a father to the fatherless, and an adviser to the erring.
彼は父亡き者の父たり、迷える者の助言者であった。

"Thy father and thy mother. - so runs our maxim - are
like heaven and earth;
語に曰く、「父は母は天地のごとく、
thy teacher and thy lord are like the sun and moon."
師君は日月のごとし」と。 


大きな笑顔の佳き木曜日を。