おはようございます。
今朝、新緑と己が身心を風が吹き亘る夢を観ました。
実に爽やか!
ill_sakura12[1]
昔、とあるお店で和菓子を注文して椅子に腰掛けていると、詩歌を詠む声がスピーカーを通して流れて来ました。そこで、店員さんに「これは何ですか」と問うと、「百人一首です」と言います。「高校生の頃、暗記させられましたよ」と伝えると、彼女は「私も、小学生の頃に暗記させられました」と言うではありませんか。どう見ても私よりふた回りはお若い方です。家庭環境か学校のカリキュラムなのか聴こうとしたが、ひとり奥で箱を包装している姿を見て思い留めました。帰り際、ソフトに「こちらもどうぞ」と言って苺の桜餅1つと桜葉の桜餅2つを袋に入れてくれた。めでたし、めでたし。

小倉百人一首は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活動した公家・藤原定家(1162〜1241年9月)が京都・小倉山の山荘で選んだといわれる私撰和歌集です。天智天皇(626〜672年1月)から順徳院(1197年10月〜1242年10月)までの約600 年間の代表的な歌人の秀歌が年代順に配列。百人一首に、人生という時の流れを、日々淡々と生活しながら静観するエッセンスを感じます。

この人生では、成長のために色んな葛藤が生じるようなっているようです。それを乗り越える術(すべ)がここにあります。百人一首から歌人たちの素直さを強く感じるのですが、素直であることが葛藤を乗り越える必要条件となると教えてくれます。自分は正しいと思い込むと、責任の所在を自分に見いだせないもの。多くの争いは、責任の所在を他者に見出すところから始まるのです。人生では不争が理想。争って、「自分は正しい」という命題を押しつけ、他者を非難してみたところで物事の改善や進展は期待できません。場合によっては、健康を害することにもなります。「自分は悪くない」と思い込むのは、心が苦しいもの。「自分は正しい」「自分は悪くない」という命題への執着から自分を解放するには、素直に謝ることが一番。他者へ向けてできないのなら、自分の心の中で素直に謝ると良いのです。執着から開放された心は、改善へと向けて新たな成長をスタート。小倉百人一首をマスターすることの真義(神技)はここにありそうです。


ひさかたの 光のどけき 春の日に
    静心(しづごころ)なく 花の散るらむ

            紀友則(33番) 『古今集』春下・84


さあ、清々しい一日が始まります。

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