昨日は対馬丸の慰靈祭。那覇市の碑「小桜の塔」で開かれました。75年目です。

サイパン島が占領後の1944年8月21日、学童疎開船「対馬丸」が那覇港から長崎に向けて出港。翌22日午後10時12分、鹿児島県の悪石島沖で米潜水艦ボーフィン号の魚雷攻撃を受け、11分後の同23分に沈没。子ら1500人近くが犠牲になった事件です。対馬丸撃沈による犠牲者(氏名判別者数)1,482名の内、その半数784名が学童でした。(平成28年8月22日現在・対馬丸記念館の調査による)

1937(昭和12)年7月7日から大東亜戦争(Greater East Asia War)が勃発。1941(昭和16)年12月8日に大日本帝国海軍攻撃隊の真珠湾攻撃(Attack on Pearl Harbor)により、アジア・太平洋戦争(Asia-Pacific War)を始めます。昭和19(1944)年6月、大日本帝国軍の南方の防衛線であったマリアナ諸島のサイパン島に合衆国軍が上陸、帝国陸軍との激しい戦闘となり、7月7日に守備隊は玉砕。日本の委任統治領だった関係でサイパン島には2万人強の民間の日本人が戦前から居住していました。戦闘終了後、アメリカ軍は非戦闘員14,949人を保護収容。内訳は、日本人10,424人・朝鮮半島出身者1,300人・チャモロ族2,350人・カナカ族875人です。逆算すると8,000人〜10,000人の在留邦人が死亡したとみられます。サイパン島を占領した合衆国軍は、同島からB-29爆撃機を出撃させることで、無着陸で北海道・東北北部を除く日本のほぼ全土を空襲できるようになり、ここを拠点として日本本土への空爆を開始。日本ではサイパン島の陥落は国防上重大な敗北と捉えられ、東条英機内閣の東条首相が責任をとって辞任、小磯国昭陸軍大将が内閣を継承しました。しかし、戦局を立て直すことは出来ませんでした。

また昨日は、合衆国軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の名護市辺野古への移設に反対し、昨年8月8日に急逝した前沖縄県知事の翁長雄志(おなが たけし)さん(享年67)を偲ぶ会が、同県豊見城(とみぐすく)市の沖縄空手会館で開かれました。
参照:Japan's Bravest Man 日本一勇敢な人物

戦争は何の前ぶれもなく、突然に起こるわけではありません。何年もかけて、戦争へ向かう精神が国民国家 (Nation-state)に育まれていくものです。船とともに命を奪われた多くの子らがいました。かれらの家族そして先生たちのことを知って忘れずに、対馬丸の事件がなぜ起きたのかを見つめ直すことで、危険な時代に突入している今の世界に氣づく必要があります。

大きな笑顔で邪氣を払って参りましょう。

小桜の塔
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 対馬丸撃沈から60年後の2004(平成16)年8月22日に、国の慰謝事業として対馬丸記念館が開館。→ http://tsushimamaru.or.jp/
 愛知県のすずしろ子供会(会長 河合桂・当時)が、沖縄に子らのための慰霊塔がないので、自分たちの力で是非作りたいと一円募金を始め、愛知県知事をはじめ同県の大きな協力によって沖縄に贈られました。
 建立にあたっては、波上山護国寺の住職 名幸芳章大僧正が尽力し、昭和29年(1954)5月5日の子どもの日に除幕式が行われました。
 塔は船首を那覇港に向け、旭が丘公園の展望台を挟み対馬丸記念館の反対側に建っています。 (デザイン:玉那覇正吉氏)
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流れのままに