おはようございます。
私を支える全ての人に謙虚に感謝いたします。
ありがとうございます。

さて、今朝は先ず、リクエストがありました「魂と肉体の関係」のお話しを記すことにします。ソクラテス(BC469〜BC399)の死刑当日を舞台としたプラトン(BC427〜BC347)の作品『パイドン』(Phaedo)をベースにして考えて参ります。結論は、「神々の種族へは、哲学を学んで、全く浄化されて世を去った者以外は、入ることを許されない」ということです。それから、アカシックレコードには変化生滅する部分と不壊金剛(ふえこんごう)の部分との二相ありというお話しをします。結論は、非常に高度な能力を以って現在・過去・未来に亘る幾重の扉を開き、本質の情報に近づくことができるということです。お楽しみいただけると幸いです。

31EaBKSx6CL._SX358_BO1,204,203,200_アルフレッド・ホワイトヘッド教授(Alfred North Whitehead:1861年2月〜1947年12月)は、英国イギリス ケント州ラムズゲートに生を享け、合衆国マサチューセッツ州ケンブリッジで他界した数学者・哲学者です。彼は近代ヨーロッパに登場した機械論的自然観(mechanistic view of nature※注1)の問題性をクリスタライズし、それが「抽象を具体とおき違える錯誤(the fallacy of misplaced concreteness)」に基づいていると指南。理性の時代・合理主義の時代と呼ばれる17世紀の哲学から現代哲学が引き継いだ機械論的自然観を分析し、それに代わるものとして有機体論的自然観(organic view of nature)を開陳しました。このアイデアは『過程と実在』(Process and Reality: An Essay in Cosmology. New York: Macmillan Company, 1929.)の「有機体の哲学」(philosophy of organism)として体系的な形で開示。この有機体の哲学は、近代の自然科学(natural science)が登場したことで影を潜めた形而上学(metaphysics)の構図を存在の性質(オントロジー)と宇宙の起源と構造(宇宙論)を含む第1原理を取り扱うものとして復活させようとする試みです。近代の単なる人間中心的な考え方を改め、人間がその環境世界(自然)と人間を越える存在(神)とに深くかかわる事によって初めて人間たりうるという原初的観点が本書のモティーフ。「ヨーロッパの哲学の伝統をもっとも安全に一般的に性格づけるならば、それはプラトンへの一連の脚注からなっている」「西洋のすべての哲学はプラトン哲学への脚注に過ぎない」という言葉に、原点としてのプラトンが言い尽くされています。
※注1
中世までは自然の中にある種の目的や意志が宿っていると考えられていました。しかし、近代になると自然は定められた法則どおりに動くのみの巨大な機械なようなものと捉えられるようになります。加えて、自然はすべて微小な要素(原子や分子)などから構成され、それが定められた法則どおりに動くのみなので、私たちは自然を一つひとつの構成要素に分解することができ、それらの要素を理解してから全体に戻せば、全体を理解することができるという「要素還元主義」もここから生まれたのでした。そして、「中心(軸)」として心や精神を持つ私たち人間は、このような心や精神を持たない「周縁」の自然に対し、一つひとつの要素に還元しながら科学的な理解を進め、私たち人間に必要なものを積極的に利用し、自然を征服していくことが、人間の知性の優位性の現れであると思い込むようになりました。これが人間中心主義の発想であり、自然を一方的に支配させ、思うように加工し、結果的に破壊してしまいました。自然は要素に還元できない性質のものであり、自然全体は個々の要素の総和にはならないという事実が分かってきました。私たち人間が今まで多くの絶滅種を作り出し、たくさんの環境破壊を引き起こしてきたのは、一方的な態度でこのような自然をただの物として扱ったツケです。
過去に、私たち日本人は、山・川・海・水・土地・真空・植物など神羅万象に神が宿るとして、祈りを捧げてきたものですが、最近はこの精神がすっかりと消滅してしまった印象です。もったいない、もったいない。(以上)

51RT21X2NPL._SX332_BO1,204,203,200_『パイドン −魂の不死について』は、パイドンがソクラテスの死に際をエケクラテスに伝えるという形で対話編が進みます。それをプラトンも間接的に聴いたのでした。彼はソクラテスを尊敬していますから、文字にして書き残すことがなかったソクラテスに代わり、文字に起こして後世に残してくれたのです。ちなみに、パイドンは、スパルタとエリスの戦争で捕虜となり、アテナイの奴隷市場で男娼として売られていた人です。ソクラテスが彼を助けます。パイドンは深く恩義を感じ、ソクラテスに一生ついていったのでした。

さて、ここからが本題です。その昔、ギリシアでは肉体の美が崇拝されていました。つまり、肉体は物ではなく生命力の発現であり、外形ではなく内実、断片ではなく全体であったのです。肉体は魂と切離された存在ではなく、魂の目に見える姿でした。そして生ける肉体には神と同じ力が宿され、魂は肉体と共にあってこそ魂の原義というべき「生命力」たりうると見立てたのです。または、死んで肉体を欠いた魂は闇を彷徨うるアキ レウスの嘆きの如き「苦しむものの残影」と考えられたようです。初期のギリシアでは、肉体が第一次的なものとしてあり、そして次に魂が第二次的な肉体に付随するものとして捉えられていました。後年、オルぺウスとピュタゴラス学派の人々は、人間はこの世では異邦人で、その魂は天上界から肉体という墓へと墜落した存在だと考えました。そして、人間の魂は出来るだけ早くこの輪廻の世を断ち切り、天上界へ帰らねばならず、そのために魂を浄化する必要があると考えたのです。ここに、魂に配慮して、魂を肉体なるものから浄化し救済しようとする生活態度が登場すわけです。そして、オルペウスとピュタゴラス学派の霊魂観を背景に、プラトンは『パイドン』でそれまでのギリシアの霊魂観とは異なる仕方で、人間の魂について「知」 との関係から新しい考え方を開陳しました。
(前略)思惟が最も見事に働くのは、魂が聴覚、視覚、苦痛、快楽といった肉体的なものにわずらわされることなく、肉体を離れて、できるだけ魂だけになって、肉体との協力も接触も能う限り拒み、ものの真実を追求するときなのだ。(中略)生きている間は、次のようにすれば、知に最も近づきうるだろうと思われる、つまり、どうしてもやむを得ない場合以外は、できるだけ肉体と交わったり共同したりせず、また肉体の本性に染まることなく、神ご自身が我々を解放してくださるまでは、清浄であるよう努めるならば
人は人である限り、肉体を持って生きています。故に、全ての人の魂は肉体からの影響を受けざるを得ません。このように、人として生きるということは魂と肉体との結合体として生きることに他ありません。「人間の条件」と言い換えることも出来ます。よって、魂が肉体的(物的)になることは、魂的要素を喪失することですから、人間の生き方を不幸に導く最大悪です。ソクラテスはこのように将来のあり方も含めて、魂の善と悪とを今・ここに生きる私たちの幸福と不幸との関係で再考せよと促してくれます。
学ぶことを愛する者なら知っていることだが、哲学がかれらの魂を世話しようと引き取ったときには、かれらの魂はどう仕様もなく肉体の中に縛られ糊付けにされている。かれらの魂は、牢獄を通してのように肉体を通して、存在するものを考察するように強いられ、けっして魂自身が魂自身を通して考察することはない。そして、魂はひどい無知の中で転げ回っているのだ。そして、この牢獄の恐ろしい点は、縛られている者が縛られていることの最大の協力者であるように、この牢獄が欲望によって成立していることなのであるが、このことを哲学は見抜くのである。哲学は、こういう状態にあるかれらの魂を引き取って穏やかに励まし、その魂を解放しようと努力する。
魂が不死であることが明らかな以上、魂にとっては、できるだけすぐれた賢いものとなる以外に、悪から逃れることも救われることもできないであろう。魂がハデスへ行くにあたって持っていくものは、ただ教育と教養だけであって、これらのものこそ、死者にとってあの世への旅の門出から直ちに、最大の利益ともなるし災いともなると言い伝えられているものだ。

31sAbiGRKFL純粋な存在である魂が変容的な性質または非純粋性を持ち、その変容的な非純粋性を魂が持っているから、その性質から魂を浄化する必要が生まれ、その浄化のための修養や努力を生前になすことが必要だということのようです。ですから、哲学は「無知の無知」から解放すべく、ヾ恭个鯆未靴討旅融,狼兇任△蝓⊃燭任呂覆い搬えること、感覚から出来る限り離れ、魂自身の中へと集結・凝集すること、イデア(それ自体としてあるもの)を魂が自分だけで把握しようとするなら自分自身だけを信じること、これら3点を強調して人を激励します。この激励は「説得」として、それを受け取る人に確たる思惑(ドクサ)を植え付けもします。このドクサは生の原理として、たえず自分が首尾一貫しているとか、純粋であると思いたがるもの。あるいは、逆につねに自身を迷わせている悪魔のようなものと思いたがるもの。それなら、その思惑のふるまいに文句をつけながら、思惑なき思索を完了するには、どういうことを自分に課せばよいのか。プラトンとは、この難問を思想史上初めて一貫して説明できた哲人の代名詞でもあります。別の表現では、この「思惑なき思索」の端緒を発(ひら)くことが、西洋に始まり、人々が体験した「哲学」であったと言えます。
魂が清浄な状態で肉体を離れる場合、この魂は肉体的なものを何一つ引きずっていない。 これは、魂が一生の間、自分か ら進んで肉体と共同したことはなく、肉体 を避けて、自分自身へと集中してきたからであり、 このことをいつも練習してきたからである。(中略)魂はこのような状態にあれば、自分に似た不可視的なもの、神的で不死で叡知的なものの世界へと去って行き、そこに至ると、幸福を得て、放浪や愚かさから解放され(中略)真に神々と共に生きるのではないか
ところで、「死は無条件的に人間にとって生よりもよい」とするドクサを持ったならば、死を練習する哲学的生の実践と結びつく必要があります。ソクラテスは、死がよいものであるなら自殺すれば良いではないかという疑問に対し、私たちが神の所有物であって、例えば羊たちが羊飼いの許可なく死ぬことができないように、私たちも神の御心にかなうときまで死ぬことは許されないと、自殺禁止の理由を開陳。自然、この捉え方は、人の命を奪うことにも該当します。このように神と人間の決定的な違いの自覚と神への憧憬が全ての議論のベースになっています。ソクラテスとプラトンのこういった神や運命への眼差しを欠いた生き方は、「ヒュブリス」(Hubris; Hybris※注2)であり、生と死をめぐる諸問題を惹き起こすことになります。

『パイドン』の読後に分かったことは、魂の固有の能力として、知恵と知識を探求し獲得する意識があるとしていることです。そして、魂は神的な場を拠り所としていることです。
神々の種族へは、哲学を学んで、全く浄化されて世を去った者以外は、入ることを許されない
この意味で、わが肉体という乗り物を神界へ向けて運転するのは、神々由来の意識と言えます。
※注2
神に対する侮辱や無礼な行為などへと導く極度の自尊心や自信のこと。このヒュブリスが人間の心にとりつくと、私たちに限度を超えた野心を抱かせ、挙句の果てに、己を破滅に導くと考えられています。(以上)


閑話休題(ソレハサテオキ)


アカシック・レコードまたはアーカーシャとは、現在・過去・未来の全てが詰まった情報集積体にして、メガ・データ・ベースです。加えて、これは躍動する現実世界全体の集合体でもあります。

現在・過去・未来、そして時間・空間・物質も一つながりですから、未来が変更可能(創造可能)であるように、当然に過去も変更できます。人は自分自身が為す善行と悪行によって、時々刻々と世界の未来と過去を変えているとする見立。プラトンの言うイデアの世界のように、時間のない世界、時間のない部分、永遠に変わらない部分が原型としてあります。例えば、この世には数多くの花がありますが、全てイデアの世界にある現象の「種」の世界に花イデアがあり、その花が咲く時には「菊」「桜」「シャクナゲ」「牡丹」と名付けられていて、命名された花として散って行きます。このように、イデアの世界の花としては永遠不滅ですが、現実世界で私たちによって命名された花々は蕾をつけ、咲き、散り、変化し姿を滅します。つまり、お伝えしたいことは、アカシック・レコードとは、カルマの集合体でもありますが、不壊金剛(ふえこんごう)の部分と変化生滅する部分の二相を持つデーター・ベースだということです。

世にアカシック・レコードと称された情報集積体の解明を試みる方々がいらっしゃいます。不壊金剛の部分に加えて、過去に変化生滅した部分と未来に変化生滅する部分を読み解くわけですから、非常に高度な能力を以って幾重の扉を開き、本質の情報に近づいていくという感じです。


さあ、先程まで雲に隠れていた朝陽がsunsunと輝きを見せ始めました。
今日も佳き一日が始まります。
大きな笑顔で参りましょう。

佳き水曜日をお過ごしください。

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