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わが家の庭の花


本は、目で読み、心で読み、体で読むものです」と教えてくださったのは、中学3年時の担任の細井常道先生でした。この言葉を想い出すたびに、山本周五郎(1903年6月〜1967年2月)著『百足ちがい』を紐解いています。
百足ちがい 山本周五郎
(前略)
彼の父は秋成又左衛門といって、身分は寄合、運上所(うんじょうしょ)元締をしていた。又四郎は父が四十歳のとき生れた一人息子である。又左衛門は稀(まれ)にみる性急(せっかち)な人で、「せかちぼ」という綽名があった。せっかちん坊というのを縮めたものであって、畢竟(ひっきょう)するに綽名まで縮められるくらいせっかちだったわけで、そのために種々いろいろと失敗をやり後悔することが多かった。
 ――これではいかん、絶対にいかん。
 又左衛門は又四郎が生れたときに、その赤児の寝顔を眺めながら考えた。
 ――伜(せがれ)だけは沈着な人間に育てよう。
 気のながい、寧(むし)ろぐずなくらいな乳母(うば)を捜して与え、五歳になると早速、太虚寺という禅寺ぜんでらへ預けた。といっても坊主にするつもりではない、寺の住持の雪海和尚(おしょう)に養育を頼んだわけである。
 和尚はそのとき六十七くらいで、信じられないくらい肥満し、いつも酒の匂いをぷんぷんさせていた。若いころ支那へ渡り、広東韶州(カントンしょうしゅう)の雲門山で二十年も修業し、その道では人がよもやと思うくらいの師家(しか)だという。たぶんそのためだろう、俗眼で見ると徹底的な怠け者で、年がら年じゅうなんにもしない、檀家(だんか)の人々がお説法を聴きたいと云って来ると、肱枕(ひじまくら)で寝ころんだままこう答える。
「人間は死ぬまでは生きるだよ、なんにも心配するこたあねえだよ」
 そうして酒臭いげっぷをするだけである。また不幸があって招かれても決してゆかない。
「死んじめえばそれでおしめえだよ、おらがいってもしょあんめえ、じゃあ、まあお布施(ふせ)でもたんまり持って来るだね、お釈迦(しゃか)さまのほうへはおらがよろしく云っとくだから」
 お勤めなんぞはしたためしがないし、法要があっても自分ではお経を読まない。
「お経はむずかしくってねえよ、そのうちに読みかたあ習うべえさ」
 こう云うのが常のことで、さすがに本場修業だけのことはあると、檀家の人々は舌を巻いて、信仰ますます篤(あつ)いということだった。又四郎はその和尚に預けられたわけで、和尚としては又左衛門の頼みの趣意をよく了解したらしい、それにどうやら又四郎が好きでもあったとみえ、その訓育ぶりにはかなりな程度まで身を入れたものである。
「せくこたあねえだよ、せくこたあ、……どたばたしたってよ、春が来ねえばさ、花あ咲かねえちゅうこんだ、おちつくだよ」
 それから哲学を述べた。
世の中あすべて参だてば
 肱枕をしてこう云うのである。
「――天地人で参よ、火と水と空気、この参が集まって出来たが参千世界だあ、飯を食うにゃあ膳(ぜん)と茶碗と箸(はし)、天にゃあ日と月と星だべさ、人間は冠婚葬、男と女が夫婦になって子がひり出るだあ、作る者がいて売る者がいて買う者がいる、顔にゃあ眼と鼻と口と、……耳はこれあ別だてば、耳なんぞは、こんなものあへえ有るから有るようなもんの、まあそれあ、有れば有るでまあいいけれども、……まあそういったわけのもんだ」
 人生すべて「参」という説、これを又四郎は噯気(おくび)の出るほど教えこまれた。
この世にゃあへえ、男が本気になって怒るようなこたあ、から一つもねえだよ、怒ると腎の臓が草臥(くたびれ)るだ、いちど怒ると時間にして一刻(いっとき)が命を減らすだあ、おらが証人、怒りっぽい人間はみんな早死だてば
 合の手に土瓶(どびん)の口から冷酒を飲む。もちろん横になったままで、それからげっぷをして、肱枕の腕を替えて、ということは寝返りをうつわけで、こんどは又四郎のほうへ巨大な背中を向けて、欠伸(あくび)をして続ける。
どんなことがあってもへえ怒るじゃあねえ、仮に誰かがおめえをぶっくらわすとすべえ、なんにもしねえによ、いきなりぶっくらわされるだあ、そんなときでも怒っちゃあなんねえ、家へ帰(けえ)って三日がまんするだあ、いいだな、三日、……それでもまだ肚はらがおさまらねえだら、三十日がまんするだあ、三十日して肚がいえねえだら三月よ、それから三年までがまんしてみて、それでもまだ承知できねえときは、……そんときはゆくがいいだ、そのぶっくらわした者のとけへよ、なあ、そいつのとけへいってきくだあ、どうしてあのときおらをぶっくらわしたか、その魂胆がききてえってよ、おらが証人、それでてえげえのこたあ、おさまるだあよ

 三

 なにごとにもがまん、せくな騒ぐな、じたばたするなという。三日、三十日、三月、三年。ここでもまた「参」つなぎの処世訓を骨の髄まで敲(たた)きこまれたのであった。
 雪海和尚の養育法による効果であるか、それとも又四郎自身にそういう素質があったものか、やがて彼には「百足(ひゃくあし)ちがい」という定評がつけられた。世間でよく、ひと足ちがいだったねえ、などということを云うが、それが彼のばあいはいつも「百足ちがう」というわけで、つまるところまにあわない、用が足りないという意味なのである。
 彼は十二歳のとき赤井喜兵衛に鼻を捻(ねじ)られた。遊び仲間の少年たちの見ている前のことで、彼は或る程度以上に恥ずかしかったし、かなり屈辱的な感じをうけた。だが彼は和尚の教訓を守った。そうして三年がまんしたうえ、なお承服しかねたので、喜兵衛を訪ねて質問した。
「おまえどうしておれの鼻を捻ったのかね」
「――おまえの鼻を、おれが……」喜兵衛は眼をまるくした、「――いったいそれはなんのことだ」
「なんのことかわからないから来たんだ」
 又四郎はむろんまじめである。喜兵衛は彼の云い分を聞いた、そしてそれが今から三年まえの、みんなで竹馬遊びをしていたときのことだと説明されてびっくりし、今日までがまんしたが、どうしても堪忍できない気持なので、やむなくその意趣のほどを知りたくて来た、と聞いてもういちどびっくりした。喜兵衛は唸った、……鼻を捻ったことはよくは覚えていなかったが、今でも又四郎のにえきらない態度には苛々(いらいら)させられているので、そのくらいのことはしたかも知れないと思う、だがそれをがまんにがまんしたうえ、三年も過ぎた今日になってその意趣をききに来たとは。……喜兵衛は唸り、感に堪え、そうして又四郎の前に頭を下げて云った。
「おれには意趣もなにもない、そんな記憶もない、だがたぶんおまえの鼻を捻ったことは本当だろう、勘弁して呉れ、おれはお先走りの軽薄者だった、これからは気をつける、そしておまえの友として恥ずかしくない人間になってみせる」
 双木文造や石谷堅之助とも、ほぼ同様なゆくたてがあった。そうして赤井をいれてこの三人と、親友の盟(ちかい)をむすんだのである。次に千本松の件であるが、又四郎が十九歳になったとき、馬廻りの青年たちと、かれら扈従組とのあいだに紛争が起こり、それが景気よくこじれて、ついに両者の団体的決闘ということになった。
「明日の朝五時、亀島の千本松へ集まれ」
 又四郎はこういう伝達を受けた。理由も経過も概略わかっていたが、彼はとりあえず熟慮にとりかかった。当時すでに父は亡くなり、母一人子一人であったが、もちろんそのためにどうこうというのではない、雪海和尚の教訓を実践したわけで、しかし事が事であるから他のばあいほど時間にゆとりがなく、三月めになって断行の決心をした。そこで入念に身支度をしたうえ赤井喜兵衛のところへでかけてゆくと、喜兵衛はよろこんで、
「よう暫(しばら)くだな、どうした」
 などと暢気(のんき)なことを云った。
「うん決心がついた、おれもやるよ――」
「――おれもやるって……なにを」
「なにをって、……むろん千本松の件さ、馬廻りのれんちゅうと例のことをやる件さ、おまえ知らないのか」
「――ええと、まあ掛けないか」
 喜兵衛はこう云って自分から縁側へ腰を掛けた。
 又四郎は聞いた。例の集団決闘は三月まえに済んでいた。両方に三四人ずつ負傷者が出たところを、両方の支配役が馬で駆けつけて中止を命じ、両方とも主謀者は五十日、他の者は三十日の謹慎という罰をくった。喜兵衛は主謀者の一人なので、このほどようやく謹慎が解けたところだ、ということであった。
 そのとき又四郎がどんなに当惑したか、それは彼自身よりほかに知ることはできない。喜兵衛の話を聞き終ると、彼はやや暫くなにか考えていた。
「――すると、あれだね、……うう、つまりもう、みんな済んだわけだね」
「まあ済んだわけだね」
「――すると、つまり、もうその、千本松へゆく必要は、うう、ないわけだ」
「まあそうだろうね」
 又四郎はそろそろと縁側から腰をあげた。だがそのまま帰るのもぐあいが悪い、喜兵衛は気まずく思っているかも知れない。そこで眺めまわすと、「赤井の柚子(ゆず)」といわれるくらい巨(おお)きな柚子がたくさん生(な)っていた。樹が巨きいので枝も高い、又四郎は救われたように微笑して、そっちを指さしながらきいた。
「あの柚子は、採るときには、三叉(さんまた)で採るかね、それともまた、梯子(はしご)など掛けて……」
 だが喜兵衛はもうそこにいなかった。又四郎は暫く待ってみたのち、漠然と別れの身振りをして赤井家を辞した。そうして門外へ出ると、そこでつくづく嘆じたのであった。
「――みんないそがしいことだなあ」
 又四郎が身の上ばなしをここまで進めるのに、約一年の時日を要した。むろんこの間(かん)ずっとみつ枝に督励されてのことであるが、話がここへ来たとき、みつ枝は毎々のことながら眼をくるくるさせて、感に打たれて、かなりな程度情熱的に膝をすり寄せた。
「わたくし貴方のこういうお話だあい好き、胸のここのところが熱くなってきますわ、それからどうなさいましたの」
「――おどろいたわけです」手の甲で額を拭きながら彼は云った、「――なにしろですね、私が熟考しているあいだに、かれらはというと、すでに団体的決闘をやり、支配役に差止められ、処罰され、主謀者は五十日の謹慎を命ぜられ、その謹慎も終っていた、……こういうわけでしょう、これだけのことがですね、私の熟慮しているあいだに経過し、完了していた、要するに、私としてはおどろいたわけです」
「わたくし赤井さまたちのほうがもっとお驚きになったと思いますわ、きっとそういうところから百足ちがいなどということが出たんですのね」
「――つまり、かれらとしても、そのくらいのことを云わなければです、うう、そこはやっぱり、肚がおさまらなかったでしょうなあ」
 同じような例はいくらでもある。しかしそれを紹介する暇はない。彼は悠々と成長していった。「参」つなぎの処世法は慥(たし)かに一徳があって、この教訓を守る限り、彼のばあいには紛争も喧嘩も起こらなかった。その点は証明してもいいけれども、反面には不都合がないわけでもなかった。というのが、友達や周囲の者は――それだけの才もあるのだろうが、――ずんずん出世してゆくのに、又四郎ひとりだけはいつまでも平(ひら)の扈従組で、誰もひきたてて呉れる者がない。身分は代々の寄合で、家格は相当なものだし、食禄(しょくろく)も四百石あまり、祖父は勘定奉行を勤めた。……父の又左衛門は「せかちぼ」のため運上元締で終ったが、彼は沈着泰然としている。親類のなかには重職もいるので、そこはなんとか考えて呉れる筈なのに誰も手をさしのべて来る者がなかった。
 ――みんなはおれを忘れているのかもしれない。
 又四郎はこう思った。母もそこが心配だったとみえ、もっと親類や権威筋へ顔出しするようにといった。彼は母の忠言を尤もであると頷(うなず)いて、それぞれ思わしい方面へできるだけ顔出しをするように努めたのであるが、総合したところは松家(まついえ)おかね嬢を知ったのが、収穫といえば唯一の収穫でしかなかった。
「あらちょっと、ちょっとお待ちになって」
 この話のときにはみつ枝はやや色をなした。それは一般に若い妻が良人(おっと)のポケットから女名前の手紙を発見したときの挙動に似ていた。
「そのまちかねえという方、なんですの、女の方なのでしょ、どんな方、もちろん若い方でしょ、おきれいにちがいありませんわね、御親類とか従兄妹(いとこ)とか、貴方とどんな関係がおありですの」
「それはです、まちかねえではないのです、正確には松家おかねというのですが、この人については、うう、また次に話すとしましょう」
 ともかく、各方面へ顔を出してみた結果、人々が彼を忘れているのではなく、彼が「百足ちがい」であるために、誰も責任を負って推薦する勇気がない、ということがわかった。
 ――彼はまにあわない、用が足りない。
 こういう定評があり、しかも現に幾多の実績を持っている。というのは、つづめていえば「参」つなぎの処世法によるのであって、ここにおいて又四郎としては或る程度の疑惧(ぎく)をもたざるを得なくなった。そこで太虚寺の雪海和尚を訊(たず)ねて、その点を敲いてみた。……和尚はすでに八十八歳になっていたが、ますます健康で、日に二升の酒を飲み、冬は猪鹿の類、夏は鯉鰻を欠かさず喰(た)べ、相変らず方丈(ほうじょう)に寝そべって、肱枕をしながら酒臭い息を吐いていた。
「あれほどおらが教(おせ)えたによ、もうそんねなこといって来るようじゃしょあんめえじゃあ」和尚はこういってげっぷをした、「それがへえじたばたのせかせかちゅうこんだ、みんなが出世する、……したかあするがいいだ、なに構うべえ、みんなはみんな、おめえはおめえよ、……人それぞれ世はさまざま、宰相(さいしょう)もいれば駕舁(かごか)きもいるだあ、桜の枝に夕顔は……それはまあ蔓(つる)を絡ませれば咲くだあけれど、梅の枝にゃへえ桃は咲かねえもんだあよ
「――ではその、そういうことでしたら、従前どおりやっていって、いいのでございますか」
「おらが証人、それでいいだともさ」それから和尚はこっちを見て、こっちの顔を珍しそうに眺めて、そうしていった、「まあなんだ、三十まじゃあがまんするだね、嫁っ子を貰うも、出世をするもよ、……おめえの顔にそう出てえるだ、これあへえ諍(あらそ)えねえこんだからねえ、そうすれあ……」
(後略)
初出:「キング」大日本雄辯會講談社 1950(昭和25)年8月
https://www.aozora.gr.jp/cards/001869/files/57720_71701.htmlより転載させていただきました。

上手に耐えることで、
耐えることの苦しさのうちに人間を見る眼、
自分を凝視する眼を養い、
そこに人間探求の場を知って、
性格や人生の歩み方が知らず識らずに環境に適応していく、と教えてくれます。

生彩ある人生を切り開くきっかけになさっていただけると幸いです。

さあ、今日も大きな笑顔で参りましょう♬
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