Y327326426

先の大戦のことを勉強しています。総務省のサイトに「国内各都市の戦災の状況」があり、そこの「函館市における戦災の状況(北海道)」を読みました。中学の時の函館山登山の際に見た、要塞跡を想い出しています。

この函館要塞で16歳の兵士として敗戦を迎えた黒川先生は、湯の川中学校時代の3年間、社会科を教えてくださいました。先生の板書文字は旧字体で、進駐軍GHQの力を借りて導入された新字体(当用漢字)は使いたくなかったのだと記憶しています。ほか2名の先生たちも旧字体を使用していましたから、私たち生徒は難解さに辟易しながらも旧字体を読むことに慣らされていったのでした。印象的なのは、男性教員の多くが「学」の字は『』を敢えて使用していたことです。英語を担当してくださった担任の遠藤先生も『』の使い手でした。彼は私たちに、「学」はの文字にある子らに手を差し伸べる教師の存在を捨象した建物だけの意味に過ぎないのですよと知らせてくれました。この会意文字『』には「教え導く者が学ぶ子らを向上させようと交わる場(建物)」という教師の特性が含まれています。昭和40年代の教室の情景には、敢えて『』を使用する教師たちの矜持が隠されていました。黒川先生の歯切れのよい真直ぐな日本語のサウンドがその古武士のような凛々しい雰囲氣の顔つきと共に、私の頭の中に蘇ってきます。
k-168


ところで、函館要塞は地域の防衛にどう貢献したのでしょうか。それは日清戦争(1894年7月〜1895年4月)終結後の1895年に、日露戦争(1904年2月〜1905年9月)を想定して津軽海峡の防衛強化のため、また軍事上の要港であった函館湾を防御する施設として、要塞地帯法によって1898年から函館山に陸軍フランス軍事顧問団指導の下で建設されたものです。しかしながら、1904(明治37)年の日露戦争時、ロシア艦隊が日本船舶に危害を加えるも、ここからは1発の砲弾も発射されませんでした。この要塞の施設が旧式だったためです。しかし、この存在がロシア艦隊の攻撃の抑止力になっていたのは言うまでもありません。その後、無用の長物と化した大砲は撤去され、1922(大正11)年、軍部の意向で津軽海峡の重要性が再認識され、津軽海峡の青森側北海道側の各地、大間崎・竜飛崎・汐首岬・白神岬の砲台を合わせ津軽要塞が発足し、1940(昭和15)年に完成します(1927(昭和2)年、函館要塞廃止⇒津軽要塞に)。1937(昭和12)年7月に日支戦争、1942(昭和17)年12月に大東亜戦争が勃発、1945(昭和20)年7月14日・15日の両日、東北・北海道は合衆国海軍機動部隊によって攻撃され、函館は空襲による甚大な被害を受けてしまいました。この時もこの要塞の28センチ榴弾砲は能力を発揮できなかったようです。

1939年9月に欧州で第二次世界大戦が始まると、英国空軍参謀部が「いまや作戦の目標は敵の非戦闘員、特に工場労働者の戦意に集中されるべきである」として、この時期英国空軍関係者の多くは敵都市の物理的破壊が全戦の勝利に貢献するという思想を共有していました。しかし、日本にはこの思想を防衛体制確立の観点から応用して、津軽要塞に航空機相手の実戦システムを考案・配備するといったダイナミズムはありませんでした。当時、函館山全体が軍事機密として地図から消され、測量はもちろん、一般人の入山や撮影・スケッチそして山に関する話題も厳しく制限されていましたが、空襲に対しての戦闘システムを持たない要塞が機密に値しないことを喝破して事実を広く民衆に知らしめる言論空間(論壇)も制限されていました。敵国の軍事思想を換骨奪回できなかったことも敗戦の原因ですが、民衆に函館山の自然が解放されたのも同じく敗戦が原因でした。津軽要塞は占領軍(合衆国軍)によって解体され、入山制限によって自然が良く保たれた状態の函館山は民衆に解放さて、観光資源としての函館山の観光スポット化が開始されたのです。


閑話休題(それはさておき)


5月15日、沖縄は日本本土に復帰して半世紀を迎えました。

日本は1945年9月2日の連合国側への降伏調印により、連合軍(合衆国軍)に占領されます。6年後の1951年9月8日午前、サンフランシスコ市オペラハウスでの対日平和条約(Treaty of Peace with Japan:サンフランシスコ条約)の締結(翌年4月28日発効)を以て、わが国は主権を回復し、48連合国との戦争状態を終結することができました。同日午後5時(日本時間9日午前9時)から、吉田茂首相はただ一人、合衆国政府高官に囲まれながら、サンフランシスコ市内の第6軍司令部プレシディオ(将校集会所)で日米安全保障条約(日米安保条約)に署名。日本政府は、この条約で外国軍隊の日本駐留継続を認めました。昭和天皇の極めて政治的なリクエストの結果であり、安保条約締結の必要条件としての講和条約締結との見立てもでき、今も在日合衆国軍が存続している所以です。さて、なぜ沖縄に、いかなる(行政)手続きを以てその施設が集中されていったのかは不明です。今後、探求して参りましょう。先ずは、現実を数字でスケッチしてみましょう。

沖縄には、186平方キロの合衆国軍基地があり、在日合衆国軍の専用施設のおよそ70%が集中し、76パーセントは海兵隊の基地です(31の合衆国軍施設中、15施設が海兵隊のもの)。兵員の数でみると、沖縄には25,843人の合衆国兵士がいて、そのうち海兵隊は15,365人(59.4%)。全世界の海兵隊は184,694人ですが、主力部隊の機動展開部隊(3MEF:Marine Expeditionary Force/第3海兵遠征軍/第3海兵機動展開部隊)が常駐しているのは沖縄だけです。(参:『米軍の駐留人数』(2020年3月31日現在)https://www.pref.okinawa.jp/site/chijiko/kichitai/sofa/documents/us-mil-number202003-1.pdf)在日合衆国海兵隊には、実戦部隊であるこの第3海兵遠征軍と、基地部隊である在日合衆国海兵隊基地部隊(Marine Corps Bases Japan: MCBJ)の二系列あり組織図上では別個の組織なのですが、同一の司令官によって指揮されることで指揮系統を統一。司令部はキャンプ・フォスター(キャンプ瑞慶覧)に設置されています。第3海兵遠征軍と基地部隊の司令官には通常、海兵隊中将が補せられ、彼/女は同時に沖縄に駐留する全合衆国軍の代表者である在沖米四軍調整官(Okinawa Area Coordinator: OAC)も兼務します。前出の『米軍の駐留人数』にある在日合衆国海兵隊の兵員数19,177人は、3MEFとMCBJとを合わせたものです。

沖縄の問題のほかに、サンフランシスコ条約(以下、サ条約)が尾を引いている、戦争被害者への補償の問題があります。それは、サ条約がわが国と戦った合衆国や英国などの連合国との間で相互に補償請求権を放棄したことによるものです。日本政府は合衆国政府に対して合衆国空軍による日本各地での大空襲等による被害の補償を求めることができなくなりました。ですから戦争被害者への補償は日本政府が自力で負うことになりましたが、サ条約の発効を機に政府は軍人恩給は復活させるも、民間人への補償を復活しませんでした(いわゆる「戦後補償」の問題は別の機会に)。日本政府は母子保護法(1937年)・軍事扶助法(1937年)・医療保護法(1941年)・戦時災害保護法(1942)など救護法を補充する立法を行い、1945年3月から合衆国空軍戦闘機によって日本各地を空襲された際には、民間人の戦争被害者に対して補償と援護を積極的に行っています。それは軍人・軍属に対するよりも手厚いものでした。にもかかわらず、先の大戦後の日本政府は、国に雇用されていなかったという論理を援用して民間の戦争被害者を補償対象から外してしまいます(※注)

日本各地への空襲や沖縄戦が後世の私たちに教えてくれるのは、紛争や戦争が私たち民衆に何をもたらすのかということです。今年はサンフランシスコ条約発効70年、沖縄復帰50年の節目ですから、大いに学ぼうではありませんか。

(追記)
戦争終結構想として唱えられた「一撃講和論」が残したツケも知っておきたいものです。1945年3月末から合衆国軍が沖縄各島に上陸すると、台湾防衛に戦力の3割を割いていた現地の日本軍は、法律に反して民間人を現地徴発しますが、「一撃」に成功せずに消耗戦を展開してしまいます。これに因り、兵士の数以上の民間人が死亡してしまいました。希望的観測に基づいた政治判断が、日本本土への空襲と沖縄戦での悲劇につながったのです。

(※注) 興味深いのは、サ条約で日本から切り離された沖縄と日本とのつながりを維持する目的で、日本政府は戦争に協力したという名目で、沖縄の民間人を軍人・軍属として扱い補償を実現したことです。国家総動員法に基づく勅令として「国民徴用令」が、平沼騏一郎内閣によって1939(昭和14)年に公布制定。16歳以上45歳未満の男性と、16歳以上25歳未満の女性を、強制的に軍需産業に従事させることができる内容でした。ですから、すべての日本国民に対して「国に雇用されていなかった」ではなく、「戦争に協力した」という理由で軍人・軍属として扱い補償することもできたに違いありません。(以上)

流れのままに