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東京都内の山で2,000メートルを超えるのは、雲取山(2,017.13m)ひとつ。深田久弥氏(久彌:1903年3月〜1971年3月)が山格を論じた『日本百名山』( 新潮社・1964年)の第66座に選ばれています。
登山者によって奥秩父と称せられている、小川山から東に向かって雲取山まで続く連嶺は、その延長と高度から言って、わが国で日本アルプスと八ヶ岳連峰を除けば、他に例を見ない大山脈である。殊にその中の甲信国境をなす金峰山から甲武信岳までは二千五百米の高度を保ち、甲武信以東も二千米を失わず、破風山、大洞山などの甲武国境を走って、その最後の雄を誇っているのが雲取山である。
東京都側と山梨県側の山林が東京都水源林となっています。これは1901(明治34)年に東京府東京市(当時)が水源地保全を目的に多摩川を囲む山地48,000haを山梨県から購入したことに由来。その後、大正末期から昭和初期にかけて、ススキの原であった雲取山周辺の稜線(尾根)に、落葉松の苗木を植林しています。ちなみに、ススキは「カヤ」とも呼ばれ、古くは茅葺屋根の材料または家畜の餌や堆肥の原料として利用されました。このカヤを管理する場として「茅場」があり、毎年春先に火入れして背丈の高い草木や蔓植物の侵入を抑え、病害虫を駆除して芽吹きの促進等を管理します。「茅場町」はその名残です。私は、芽立てに日本の原風景を感じています。文化庁による「重要文化的景観」等に指定され国からの支援を得て維持管理しながら、「茅場」の伝統知を継承しながらキキョウ・オミナエシ・リンドウなどが繁殖する草地を保全したいものです。
茅立て


さて、話を雲取山に戻しましょう。1948年11月1日、この山中に足繁く昆虫採集に通った人物の白骨体が七ツ石山の中で発見。昆虫学者の高木正得子爵(たかぎ まさなり:1894年1月〜1948年11月)でした。同年7月8日に、「呉れゞゝも捜してはいけません。無駄です。自然に融合して還元するのみ」との遺書を残して失踪して以来のことです。研究資料だった蔵書や昆虫標本類を戦災でことごとく焼失したことに加え、それらを集め直すことが華族制度廃止で不可能になった悲しみと絶望が失踪の理由であったと邦子夫人は推測なさったようでした。今日4日は、高木子爵の次女 崇仁親王妃百合子殿下(1923年12年生)の白寿のお誕生日。おめでとうございます。息子三人(桂宮・高円宮・寛仁親王)に先立たれている。
七ツ石山山頂から飛龍山(左)と雲取山(右)を眺める
七ツ石山山頂から眺める雲取山(右)と飛龍山(左)

七ツ石山から南南西の眺め 右奥に富士山
七ツ石山から南南西の眺め 右奥に富士山

この人生には、長寿も短命もあります。
長寿には長寿なりの一生の中に、
短命は短命なりの一生の中に、
春夏秋冬を持っているに違いありません。

この春夏秋冬を人間としての人生サイクルとして捉えるなら、
このサイクルを終えるということの本質は、
長生であり、長寿ではなく、大悟覚醒して、
光明に包まれながら、人間を卒業することです。

大きな笑顔の良き週末を。
流れのままに