中村真一郎さんとお会いしてお話を伺ったのは、昭和57年(1982)のことだった。大正7年(1918)東京日本橋にお生まれだから、当時64歳。何の予備知識もない私に知人はただ王朝文学を開拓した小説家として紹介した。病み上がりで元気がなかった。結婚したばかりであった。漱石の残した漢詩と英詩について研究していた。数量的には圧倒的に漢詩が多いことと質的にも英詩よりも漢詩のほうが勝っていると自説を述べた。さらに、日本の作家で外国語で詩を書く場合は漢詩が圧倒的に多いと付け加えた。きわめて慎重に淡々と物静かに話す。こちらを見つめるともなく見つめている。博覧強記。やさしさに満ちている。教養と品性の何たるかを空気で伝授する銀髪の老人の素性を知ったのは帰国後のことだった。
 氏は東大仏文科卒業後、福永武彦、加藤周一らとグループを結成し、「死の影の下に」で戦後派作家として注目された。その後は、二十世紀西欧文学の手法を取り入れて、「空中庭園」など数多くの小説を発表。「四季」4部作が代表作。また、「頼山陽とその時代」で芸術選奨、「蠣崎波響の生涯」で読売文学賞を受賞。放送劇の脚本なども手掛け、映画「モスラ」の原作者の一人としても知られている。『感情旅行』の古河公方時代について書かれた文章は次のようなものだ。

「今〔昭和30年〕はここの市も東京都近くの田舎町に過ぎないが、当時は逆に、東京の方が、ここの首都の(と云うのは、関東は当時、半独立国だといってもいいくらい、京都から行政的には自立してたんだろうからね)衛星小都市だったんだろう。漸く太田道灌が江戸城を築いたかどうか、と云う頃だ」

氏の『文章読本』(新潮文庫)をまた読んでみたい。