流れのままに

流れのままに おのが道をゆけ ひたすらに ひたむきに

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朝陽_20190429_050801
Asahigaoka@AM050429, 29th Apr. 2019.

江戸時代までの日本人と明治維新以降の日本人とを能力面で比べると、その低下が著しく加えて精神面での堕落というおまけまでついたのではないか、ととある場で話題となりました。そこで提示した内容に加筆して開陳しようと思います。お楽しみいただけると幸いです。
江戸時代初期100年間ほどは藩立学校はなく家塾で学んでいました。1690年代頃から農村や漁村へも広がりを見せ始めたのが「寺子屋」です。庶民道徳が求められた時代にあって、庶民が教養を積むにあたり、家庭生活や社会生活のなかでの教育のほか、奉公生活の中での教育も重要とされましたが、寺子屋は庶民の子供の教育機関として次第に大きな役割を果たすようになり、発達していきました。そこで、子らは幼いころから読み・書き・そろばんを中心として、実用的、初歩的な教育を受け、教師を手習師匠(師匠)、生徒を寺子といったようです。

武士の世界では、家庭内教育を終えて藩校に上がると多くの書物や実技を通じて、倫理や哲学、医学、薬学、天文学、本草学、礼方、兵学、剣術、槍術、柔術、楽などまで多岐にわたる選択肢から各家代々の伝承も加味した高等教育システムができていました。藩校は元禄時代から増加し、江戸中期以降急速に発達し、各藩で互いに切磋琢磨していたようです。良く知られた藩校には、名古屋藩の明倫堂(1749〜1871)、白虎隊や戊辰戦争で活躍する人材を多く輩出した会津藩の日新館(1803〜1868年の戊辰戦争により焼失)、岡山藩の花畠教揚(はなばたけきょうじょう:1641〜1669年に岡山藩藩学となり1871年廃止)、米沢の興譲館(1776〜1872年廃止)、佐賀の弘道館(1781〜1872年廃止)、和歌山の学習館(1713〜1870年頃まで)、萩の明倫館(1718〜1870年廃止)、仙台の養賢堂(1736〜1872年廃止)、熊本の時習館(1755〜1870年廃止)、鹿児島の造士館(1773〜1877年西南戦争まで)、金沢の明倫堂(1792〜1870)などがあります。創立の時代は最近ですが、注目すべきものには徳川光圀が編纂を始めた「大日本史」の影響を受けた水戸学の舞台ともなった水戸の弘道館(1841〜1868年の弘道館戦争で焼失し1872年閉鎖)などがありました。それ以降の日本人の能力低下は、推して知るべしです。

鎖国の日本を開国へと導いた黒船のマシュー・カルブレイス・ペリー(Matthew Calbraith Perry, 1794年4月〜1858年3月)はフリーメーソンでした。そして、幕府の関係者は彼を「ペルリ」と呼び、漢字で「彼理」と表記したのでした。これは「彼の理(ことわり)」=「メイソンの目的」を知っていたことを匂わせ、「彼を断(ことわり)」たいという意味が含まれていたと読むことができます。

白村江の敗北以来の日本の行動原理は、原則的に鎖国といえそうです。学ぶべき何かがある間は交流はしますが、時を経て相手の王朝(Dynasty)が崩壊するときに何が起きるかを見極めて、王朝が交代する過程での流血の歴史に日本の民衆を巻き込むのを阻止しようというマネジメントの意識はあったと思います。それを打ち破ったのがペリーの黒船で、圧倒的な軍事力と戦闘教義(battle doctrine)と組織体系そして法体系を備えた近代システムとしての帝国主義を学ぶ必要を知って、明治日本が誕生したと観ることも出来そうです。その下準備は、江戸幕府の官僚機構の中で、シッカリとできていました。

わが国・日本(にっぽん)は歴史上、二回の敗戦をしています。白村江(663年10月)と先の大東亜戦争(1937年7月〜1945年9月)です。そして、1945年の敗戦から、74年目の今年、日本が日本でなくなる危機を回避すべく、『日本武尊(ヤマトタケル)』の神格の覚醒が必要だと感じています。

日本武尊の最期は、故郷大和の地への帰還を目前にした無念の死でした。死後、白鳥となって飛び去りますが、日本各地にはその白鳥が舞い降りてきたという伝承が散見されます。例えば、和泉国(大阪府堺市)の鳳神社(大鳥神社)などが好例。この地は古くから白鳥の飛来する地形的な特徴を備え持っていました。低湿地帯で肥沃な場で稲作に適していたので水田耕作地として開墾され、弥生時代の稲作の中心となります。大鳥神社の祭神には日本武尊とともに天照大神(五穀豊穣の守護神)が祀られていますが、これは日本武尊の穀靈(こくれい)的神格を私たちに知らしてきました。なお穀靈とは、稲の靈のことで稲魂(いなだま)とも呼ばれます。稲の中に稲魂が入って初めて稲が育ち、稲魂の成長に伴って稲が実ると考えたのでした。ですから「稲光」や「稲妻」という言葉は、天空の靈が稲と結婚し稲の中に子種を宿すという考え方に基づいた表現です。秋の収穫から春の播種までの期間は稲魂が静かに増殖する期間。そのため種籾(たねもみ・スジ)を靈的なものとして、俵のままで祀る行事があります。加えて、日本の稲作の起源について日本各地に残る伝承には、大鳥が稲穂をくわえて飛んできたというストーリが多く、その鳥は鶴または白鳥です。雄々しい武神の姿の背後に、白鳥となった日本武尊の靈魂が稲穂をくわえて飛翔する母性を感じさせる姿が見えてくるではありませんか。知っていただきたいことは、タケル(武・建・尊・威・炊けるetc.)という言葉がなぜ使われているのかということ。今、私たちの日本の民衆に求められているお役目は、戦うのみではなく、ご飯が「炊ける」母のエネルギーの発露だと分かるはずです。

明後日から令和が始まり、悠仁親王(2006年9月生)の皇位継承順位は第2位となります。最年少皇族でもある彼に降りかかった事件は不吉です。26日の午前中、お茶の水女子大付属中学校の彼の机に刃物が。それは果物ナイフで、長さ約60センチのアルミ製の棒の片端に2本並べた状態で粘着テープで固定されていた。親王は戦後の皇族で初めて学習院初等科ではなく、お茶の水女子大付属小に入学し、4月に内部進学なさった。同校にはこの入学を批判する内容の電話が数件あったそうですが、気にしない、気にしない。

もっと、もっと愛を込めて大切に彼と私たちの心身を護って参りましょう。傷ついたであろう彼と私たち日本の民衆に、静かに思い遣りをかけましょう。愛が社会空間に意識の扉を開き、私たちの目覚めを誘うはずです。だから大丈夫。


部屋の草木のエネルギーが高くなっているのを感じます。大きな笑顔で参りましょう。

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1945 年8月15 日の作文に以下のように記した、11歳の少年がいました。
いまは日本のどん底です。( 略) これからは苦しいこと、辛いことがどのくらいあるかわかりません。どんなに苦しくなっても、このどん底からはい上がらなければなりません。( 略)つぎの世を背負って新日本建設に進まなければなりません。それもみな、私の双肩にかかっているのです。

平成天皇です。

さて、私たち日本の民衆の中から平成天皇の佳き代弁者が登場しました。
矢部 宏治氏(1960年生)です。
彼の最新刊『天皇メッセージ』は白眉です。本書を紐解くことをお勧めします。

Kinoppy版とKindle版は、著者の思いをうけ、1ヶ月限定で全文無料公開されています。
以下は、矢部宏治氏から寄せられたコメントです。
私は天皇皇后両陛下の言葉と活動の素晴らしさを、最初は沖縄の友人から教えてもらいました。国民の苦しみや悲しみの現場につねに身を運び、同じ目線で寄り添い、戦争や災害の犠牲者を慰霊する。その“旅”は、やがて遠く海外にまでおよび、平成が一度も戦争のない時代として終わることに大きく貢献されました。ご退位を前に、長い苦闘のなかからつむぎだされた、その光もつ言葉の数々を、一人でも多くの皆様に知っていただければと思います。

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閑話休題(それはさておき)


戦艦「比叡」見つかる 太平洋戦争中に沈没 謎の解明も…
(NHK 2019年2月6日 5時21分)
 太平洋戦争中に南太平洋のソロモン諸島沖で沈んだ旧日本海軍の戦艦「比叡」をアメリカの調査チームが水深およそ1000メートルの海底で発見し、NHKがその映像を入手しました。船体が切断された状態になっていて大きな爆発によって沈没した可能性が高いことが今回、初めてわかりました。
 戦艦「比叡」を発見したのは、アメリカのIT企業マイクロソフトの共同創業者でポール・アレン氏が設立した財団の調査チームです。
 アレン氏は去年10月に病気で亡くなりましたが、調査チームはアレン氏の遺志を継いで特殊な装備を備えた調査船を使って太平洋戦争で沈没した軍艦を探し続けていました。
 調査チームによりますと、先月31日、ソロモン諸島のサボ島の北西の深さ985mの海底で、戦艦「比叡」を発見しました。
 ソナーが捉えた形状からは、船腹を上にした状態で海底に沈んでいるのがわかります。
 また、潜水艇から撮影した映像には、巨大なスクリュープロペラやかじ、高角砲の砲身などが映っています。
 「比叡」は大正3年にしゅんこうし、たび重なる改装を経て、太平洋戦争の緒戦で真珠湾攻撃にも参加しました。
 その後、ソロモン諸島のガダルカナル島をめぐる戦いに投入され、昭和17年11月の第三次ソロモン海戦で連合国の艦隊の攻撃を受けて航行不能となり、最期はみずから船内に水を入れて沈んだとされてきました。
 ところが、NHKが、広島県呉市の大和ミュージアムの館長で、旧日本海軍の歴史に詳しい戸高一成さんに映像を分析してもらったところ、船体のおよそ3分の1が切断されているとみられ、大きな爆発によって沈没した可能性が高いことが初めてわかりました。
 戸高さんは、「比叡は太平洋戦争の主要な戦いに真っ先に投入され、歴史的な場面にたくさん登場してきた戦艦で、歴史的に謎だった部分が解き明かされることはとても大切だ」と述べて、今回の発見の意義を強調しました。
 調査チームは今後、潜水艇で撮影した船体の写真などを順次、公開し、研究や調査に役立てたいとしています。

戦艦「比叡」とは
 戦艦「比叡」は、明治44年に起工され、大正3年にしゅんこうするとすぐに第1次世界大戦のために東シナ海に派遣されました。
 その後、世界的に軍縮の流れが強まる中、昭和8年に訓練に使われる「練習戦艦」に改装され、訓練のほか、昭和天皇が乗艦する「御召艦」としても使われました。
 昭和11年には改めて戦艦に改装され、装備の配置などが後に建造される戦艦「大和」の設計に生かされました。
 太平洋戦争では、真珠湾攻撃で日本の航空母艦部隊の護衛として参加し、その後、激戦となったソロモン諸島のガダルカナル島をめぐる戦いに投入されます。
 昭和17年11月、日本軍と、アメリカを中心とする連合軍の間で激しい戦闘が続く中、比叡は日本軍に補給を行う輸送船を護衛するとともに、連合軍の飛行場を砲撃するためにガダルカナル島に向けて出撃しますが、連合軍の艦隊と遭遇し、集中的に攻撃を受けます。
 その結果、かじが効かなくなって航行不能となり、総員退艦の上、みずから船内に水を入れて沈んだとされてきました。
 「比叡」は太平洋戦争で初めて沈んだ日本の戦艦で、この戦闘で死亡した乗組員は188人でした。

比叡が発見されたのは
 比叡が発見されたのはガダルカナル島の北側にあるサボ島の北西です。
 この海域は、太平洋戦争で、日本軍と、アメリカ軍を中心とした連合軍が激しい戦いを繰り広げ、数多くの船が沈んでいることから「アイアンボトム・サウンド」=「鉄底の海峡」とも呼ばれています。
 無人の潜水艇が撮影した映像には船の進路を変えるための「かじ」、それに巨大なスクリュープロペラや、エンジン部分とつながるシャフトが見えます。
 また、比叡が備えていた12.7センチ高角砲の砲身や、対空防御用の機関銃の弾丸が入った箱も映っています。
 調査の結果、今回、見つかったのは、全長222mの比叡の船体のうち、およそ150mで、前方の70m余りは発見できなかったということです。
 比叡は沈没するときの様子を目撃した人がいないため、どのように沈んだか謎とされてきましたが、今回の発見は最期の様子を知る手がかりとして期待されています。

専門家「船体が切断されていたのは新発見」
 広島県呉市の大和ミュージアムの館長で、旧日本海軍の歴史に詳しい戸高一成さんは、映像を分析したところ、船体の3分の1が切断されているように見えるとし、「比叡の最期は目撃者がいないため、どのように沈んだかわからなかったが、船体が切断されていたのは新たな発見だ」と指摘しました。
 そして、「比叡はみずから艦内に注水して静かに沈んだとみられてきたので、こんなに壊れていたとは思わなかった。船体が切断されているということは、大きな爆発が起きた可能性が高い。乗組員が脱出し、現場を離れた後に爆発が起きて沈んだのではないか」と分析しました。
 また、船の方向を変えるための「かじ」の状態に着目し、「ふたつのかじが接触していて面かじ=右方向に曲がる状態になっている。比叡は艦尾のかじ近くに連合軍の砲撃を受け、右方向に旋回することしかできなくなり、戦場から離脱できないために艦を放棄したと報告されていたが、なぜかじが効かなくなったのか、その原因がはっきりとわかった」と述べ、映像に映っていたかじの状態は、当時の記録を裏付けるものだと指摘しました。
 そのうえで戸高さんは、「比叡は太平洋戦争の主要な戦いに真っ先に投入され、歴史的な場面にたくさん登場してきた戦艦であり、歴史的に謎だった部分が解き明かされることはとても大切だ。今回の発見は、戦争を経験した人がいなくなり、記憶のかなたに消えようとしている中、戦争の現実を強く思い起こさせるものだ」と述べ、発見の意義を強調しました。

昭和11(1936)年2月26日〜29日の二・二六事件では、横須賀鎮守府の井上成美参謀長(いのうえしげよし:1889年12月〜1975年12月)が米内光政司令官(1880年3月〜1948年4月)に「万一の場合は陛下を比叡に御乗艦願いましょう」と進言。事態が容易ならないところまできた場合は昭和天皇が「比叡」から指揮を執る事態が考慮された。同年の北海道で行われた陸軍大演習に際し、比叡は天皇を横須賀から小樽までお送りした。この演習は、弘前の第八師団を南軍として、旭川の第七師団を北軍として行われた。満州事変後の戦火拡大に伴う国威高揚といった理由があったようだ。支那とよく似た自然環境の北海道でのこの演習の翌年、1937年7月7日夜のことであった。北京南西郊の盧溝橋付近で演習中の華北駐屯日本軍一木大隊の中隊への十数発の射撃は、大日本帝国軍と冀察政権 (政務委員会)第29軍との衝突に発展。中国国民党と中国共産党による連携協力を促し、反日本の勢力を形成し、日本人居留民に対する攻撃の契機となった。なお、この陸軍大演習の「大本営」が置かれたのは現在の北海道大学農学部であった。このような陸海軍連合大演習及び陸軍特別大演習の「大本営」は、最高司令部としての機能を持たなかった。天皇の行幸行在所(あんざいしょ)を「大本営」(provisional place for Emperor's going out)と称したのであって本来の大本営(Imperial General Headquarters)ではなかった。(下の写真はクリックしてご覧ください)
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日本の帝国大学は1886年の東京、1897年の京都、1907年の東北、1911年の九州、1918年の北海道と続いて、6番目を1924(大正13)年に日本統治下の朝鮮の京畿道京城府(現:ソウル特別市)に京城(けいじょう)帝国大学(城大)として設立した。文部省管轄ではなく、朝鮮総督府管轄であった。朝鮮人の為の学校ではあるが、予科(旧制高校に準ずる課程)入学者の3分の2の学生が日本本土からの日本人と朝鮮在住の日本人であり、朝鮮人は約3分の1であった。三・一独立運動後、私立専門学校の大学昇格運動や民立大学設立運動が勃興するなど朝鮮人の教育エネルギーが爆発したことも京城帝国大学の設立の一要因となった。(参照:稲葉継雄著 『京城帝国大学予科について一「朝鮮的要素」と「内地的要素」を中心に一』・九州大学大学院教育学研究紀要 7, 35-49, 2004) 1945年10月17日に京城大学と改称されるも、合衆国軍法令102号により1946年8月22日に閉鎖された。城大の固定資産を受け継いで新設されたものが現ソウル大学校だが、旧帝大との連続性は皆無。加えて、7番目が1928年の台北帝国大学(台湾大学の設立母体)、8番目が1931年に大阪医科大学から昇格した大阪帝国大学、そして9番目が1939年名古屋医科大学から昇格した名古屋帝国大学である。6番目の帝大である城大の設立は、当時の日本人が半島に夢見た世界を顕現する方策のひとつであった。

人が良くて親切な日本のリーダーたちのツケを今、私たちは払わされている。半島と大陸をアンタッチャブルなゾーンとして理解・咀嚼できていたら、朝鮮併合(1910年8月29日〜1945年9月9日)や、国家ではない支那共産党と蒋介石率いる支那国民党(軍閥政党)を相手にした支那事変(1937年7月17日〜1941年12月8日)などは起こさなかったに違いない。船津和平工作により現地停戦協定を1937年8月9日に上海で結ぶことになったのだが、海軍上海陸戦隊の大山勇夫中尉が、車で走行中に、支那の保安隊に包囲され、機関銃で撃たれ惨殺。さらに瀕死の状態の彼は車外に引きずり出され、頭を青竜刀でまっ二つに割られたという事件を起こされて、この和平会談は白紙の状態となってしまった。そしてこの1週間後に第二次上海事変を起こされてしまう・・・等々。日本が半島と大陸に犯した過ちのすべてが、663年の白村江の敗戦という危機(「記紀」)の時代への無知から来ていると知り、2015年04月04日に『新しい日本の旅』と題して以下のように記した。
1999年1月刊行の『白村江〜古代日本の政敵と薬師寺の謎』(鈴木治著)は、663年の白村江の敗戦のあと、唐から2千人もの人員を擁する使節が日本に上陸した史実を指摘し、そこにゆるやかな唐の日本支配があったことを教えてくれる。周知のように、日本は唐の律令制を整え、絢爛たる天平文化の花を咲かせた。唐の圧倒的な影響下にあって、敗戦国日本が建前としては独立国としての面子を保ちながらも、実質的には保護国化していたのではないか、というのが鈴木氏の仮説。

しかしながら、白村江の敗戦という危機の時代に、まず古事記が、次に日本書紀があらわれたことも忘れてはいけない。ある種の危機が到来し、自分たちのアイデンティティを確認しようとするときに、わが国では古いものを学ぼうとしてきた。だから古事記は大和読みで「フルコトフミ」と発音してみると、その意味がイメージしやすい。二書を「記紀」(危機)と総称しているのも興味深い。

白村江の敗戦に先の大戦の敗戦後にサンフランシスコ講和条約調印を経て形式的に独立国となった戦後日本の姿を重ねてみるなら、先の大戦後70年というのは西欧文明又はフリーメイソンリーに代表される合衆国文明という障害の受容期と見えてくる。(後略)

『独立宣言(Decralation of Independence)』 は、1776年7月2日の第2回大陸会議総会で13植民地の全会一致で決議され、7月4日に再確認(採択)されて、8日にフィラデルフィア市民に正式発表。翌日ニューヨークのワシントン軍の前で朗読され、二つの合衆国の大切な理念(=民主主義の理念)が表明された。

自明の理としてすべての人は平等に造られ」と
一定の奪いがたい天賦の権利を賦与され、そのなかに生命、自由および、幸福追求の含まれ

である。合衆国の歴史は、この独立宣言に盛られた民主主義の理念を、いかに達成していくかということに要約できる。しかし、共通の理念をすべての合衆国の民衆が一致してもったわけではない。時には、民主主義の理念の解釈が異なり、抗争が生じ、分裂の危機に見舞われてきた。にもかかわらず、それを克服し、また、その抗争ゆえに、合衆国はより強固に理念を追求するために国家建設を続行し、成長してきた。

今後は親切であって人が良いアメリカ人が、合衆国本土に移民として受け入れた半島出身者と大陸出身者の行動により、日本の民衆が半島と大陸で体験したことを再現させられることもありえるだろう。北アメリカ大陸が、合衆国の理念よりは自分たちのアイデンティティを最優先とする彼らによって育てられた大統領とその勢力によって、乗っ取られる可能性は否定できないだろう。このリスクを回避すべく、己を知ろうとする努力を怠ったことが原因で、大東亜戦争での敗戦という結果を導いた『日本の記憶 (Memories of You, Nippon.)』を紐解き、対処してもらいたい。



閑話休題(ソレハサテオキ)

日銀の株投資24兆円
「日本売り」買い支え 海外投資家ばかり得
(赤旗 2019年1月11日(金))
 日銀による株式市場への投資である株価指数連動型上場投資信託(ETF)の購入額が2018年12月までの累計で23・9兆円にのぼりました。海外投資家が日本株売りを増やす中、日銀による株価下支えが異常な額に達しています。
 ETFはいくつもの大企業の株式銘柄を組み入れた金融商品です。ETFを買うことによって日銀は間接的に日本の大企業の株を買い、株価をつり上げてきました。アベノミクス(安倍晋三政権の経済政策)の主要政策です。安倍首相は就任翌年の訪米の際、ニューヨーク証券取引所で講演し、「バイ・マイ・アベノミクス」(わがアベノミクスを買ってください)とまで言って、日本株買いを呼びかけました。
 しかし、17年以降は米国の利上げや米中貿易摩擦などで世界経済の先行きに不安が強まり、海外投資家は日本株の「売り」を増やしています。18年には海外投資家が売った株は買った株を5・7兆円も上回りました。これに対して日銀は18年だけで6・5兆円ものETFを買い入れました。日銀が巨額の下支えをしたことで、海外投資家は株価が暴落する心配もなく、安心して保有株を売ることができました。
 18年末の株価は17年末から13%も下落しました。安倍政権と日銀の株価つり上げ政策は失敗し、日本株を売り抜けてもうけた海外投資家ばかりが得をしています。
日銀の株投資24兆円

ETF 6.5兆円過去最高 日銀の株式買い、歯止めなく
(東京新聞 2018年12月29日 朝刊)
PK2018122902100046_size0[1] 日銀が金融緩和の一環で行っている上場投資信託(ETF)の二〇一八年の買い入れ額は計六兆五千四十億円と過去最高となった。最近の世界的な株安を受け、買い入れ額のメドとする六兆円を大きく超えた。日銀による株の買い支え姿勢が鮮明となる中、株式市場の機能の低下や将来の損失リスクも高まっている。 (岸本拓也)
 取引最終日の大納会の二十八日も日銀はETFを七百十五億円買い入れ、日経平均株価はぎりぎり二万円を保った。年間では、これまで最高だった昨年の五兆九千三十三億円を約10%上回った。夏場以降に株価下落が進み、買い入れが増加。日経平均が二二〇〇円近く下がった十月は、月間買い入れ額が過去最大の八千七百億円となった。今月も七千九百六十一億円と過去四番目だった。
 日銀は白川方明(まさあき)前総裁時代の一〇年十二月からETF買い入れを開始。当時はリーマン・ショック後で日経平均が一万円を下回り、投資家不安を和らげる狙いだった。一三年三月に就任した黒田東彦(はるひこ)総裁は買い入れ枠を拡大。株価が上昇基調になっても枠を順次増やし、現在は「年間約六兆円」を目安に掲げる。
 今年七月には「市場状況に応じて上下に変動しうる」と政策を修正。六兆円超えを容認したことで買い入れ拡大につながった。
 中央銀行による株買いは、主要国はどこも採用していない異例の策。いまや日銀のETFの保有残高は二十三兆円を超え、時価では日本市場の約4%に上る。日銀が実質的大株主となる企業も増えることで、企業価値が株価へ適切に反映されず、市場にゆがみを生じさせる懸念がある
 ETFは、売却しない限り日銀が持ち続ける。将来、株価が急落した場合、日銀は含み損で債務超過のリスクを抱える。前日銀審議委員で野村総研の木内登英(たかひで)氏は「簿価(取得額)から三割余り株価が下がれば、日銀の自己資本はほぼ無くなる。常に爆弾を抱えているようなもの。買い入れを減らす方向に正常化すべきだ」と指摘する。
<ETF(上場投資信託)> 証券取引所に上場する投資信託で、個別企業の株と同じように売買ができる。複数の大企業の株式を組み合わせ、東証株価指数(TOPIX)や日経平均株価に連動する商品が代表的。日銀は、信託銀行を通じてTOPIX連動型を中心に買い入れている。買い入れ基準は非公表だが、市場では、午前中に株価が0・5%前後下がると、午後に日銀が買うと言われている

日本銀行法
(解散)
第六十条
 日本銀行の解散については、別に法律で定める。
2 日本銀行が解散した場合において、その残余財産の額が払込資本金額を超えるときは、その超える部分の額に相当する残余財産は、国庫に帰属する。


大きな笑顔の佳き連休を。

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