流れのままに

流れのままに おのが道をゆけ ひたすらに ひたむきに

キーワード:鎮魂を含む記事

昨日の朝の夢のことであった。英国人の法律家が現れ、“Indeed he is poor, but you must not therefore despise him.(いかに愚かに見える人であっても侮ってはいけません)Please try way harder to do your very best.(常に用心して最善を尽くしてください)”と語りかけてくれる。ハッとして、"I can relate to it myself."と呟き目を覚ます。この一瞬、ある種の厳しさを味わった。

人の意識が胸部位に集まり生命維持システムが働くとき、意識のバランスが整う。バランス感覚の滅失をキャッチした意識群は、大宇宙を組織化しているバランスをとるunity(組織体)により、睡眠中の肉体環境に流入し、バランスを矯正する。このSTRAIGHTENING DEVICEを夢といい、夢を流すには3段界ある。

A) 現自点修正
B) 知恵の補充
C) 未来予知

私たちは、夢により不明な点などを、明らかにされる。
だから、いつでも状況変転できる。


閑話休題(それはさておき)


翁長雄志沖縄県知事と菅義偉(よしひで)官房長官は5日(日曜日)、県庁ではなく、那覇市内のハーバー ビューホテルで会談した。ホテル前には1500名の民衆が集まり、知事に声援を送った。翁長氏は、合衆国軍普天間飛行場の名護市辺野古移設の阻止を公約し、昨年12月に知事に就任。官房長官が翁長氏と会談したのは初めてのことであった。

合衆国軍普天間飛行場移設問題に関し、菅氏は「辺野古移設を断念することは普天間の固定化にもつながる。(仲井真弘多前知事に)承認いただいた関係法令に基づき、辺野古埋め立てを粛々と進めている」と説明。翁長氏は「『粛々』という言葉を何度も使う官房長官の姿が、米軍軍政下に『沖縄の自治は神話だ』と言った最高権力者キャラウェイ高等弁務官の姿と重なる。県民の怒りは増幅し、辺野古の新基地は絶対に建設することはできない」と強く批判した。1時間の会談は最初の30分が公開、後の30分が非公開であった。普天間基地は合衆国軍が戦争中に住民を排除して作った事を翁長氏は指摘した。戦争中に民間地を奪取する事はハーグ陸戦条約に違反しているそうだ。

現政権が沖縄の民衆を無視せざるを得ないのは、合衆国の覇権がそうさせるのだろう。しかしながら、現状の行為を容認し可能にさせている最大変数(メイン・ファクター)は、私たち日本の民衆の意思なのではないだろうか。基地の問題は他人事でしかないのだ。政官界のトップ・エリート諸氏の意識には、沖縄は日本でないと刷り込まれているようで、プライベートな対話の折に本音が顔を出す。私たち民衆も彼らと同じように沖縄を扱っていないだろうか。翁長氏が弾圧政治を行った合衆国の代理人を現政権に重ねて、今の時代には過去に通用した強権政治は通じないと諭し、現政権の時代錯誤をクリスタライズしたのは天晴であった。

翁長氏の保守政治家らしい落ち着きには感動する。凛としてサワヤカ、バックボーンが真っ直ぐだ。対坐した内閣官房長官は彼の面前では貧弱に見えた。政治に携わる人間としてのエッセンスの違いであろうか。彼は埋め立て承認の取り消しに時間エネルギーを使い、かつ手続きを踏んでいる。久々に見る保守政治家の姿にエールを送りたくなると同時に、指導者としての人材と地方自治政府のポテンシャルを持つ沖縄県民は幸せだと思った。来週の北海道知事選を目前にして、地方自治を担うポテンシャルある人材が候補者に見当たらない。

さて、沖縄の歴史をレヴューしてみると英国が浮かび上がり、明治維新に英国が深く関与していたことが分かる。

日本は1867年に大政奉還で徳川家の支配体制が崩壊し、薩摩藩・長州藩を中心とする新体制へ移行していった。そして1868年1月3日の王政復古以後に成立した政権を明治政府、新政府、維新政府などと私たちは呼び始めた。廃藩置県の翌年の1872年、琉球国王・尚泰は、明治政府により「琉球藩王」とされるとともに華族とされ、これにより琉球藩が設置。これを別の表現では、明治政府は琉球王国を潰して琉球藩をでっち上げ、植民地化したのは1872年のことであった、と言える。この背景には、1871年10月の琉球漁民殺害事件がある。

1871年9月に日清修好条規(1894年7月まで)は結ばれたのだが、この年の10月、琉球王国の首里王府に年貢を納めて帰途についた宮古・八重山の船4隻のうち、宮古船の1隻が台湾近海で遭難。台湾東南海岸に漂着した69人のうち3人が溺死(1名は高齢のためか?)、台湾山中をさまよった生存者のうち54名が台湾原住民によって殺害された。明治政府は、この事件に対し清朝に厳重抗議するも、原住民は「化外の民」(国家統治の及ばない者たち)であるという清朝からの回答があった。これを利用して、明治政府は1874年、台湾へ軍隊を派遣(台湾出兵)。このために、琉球が日本の領土だとする形式が要請されたのであった。

このアイディアは日本人の脳裏に閃いたものではなかった。1872年、厦門(アモイ)の合衆国領事を務めていたチャールズ・ルジャンドル(1830〜1899)が合衆国への帰路、日本に立ち寄った。彼は南北戦争では北軍の陸軍大佐としてグラント将軍旗下で活躍、戦後除隊した後には陸軍准将に名誉進級されていた。このルジャンドルが、明治政府に台湾問題の武力解決を提唱。副島種臣外務卿も意見を一致させ、ルジャンドルは合衆国領事の職を辞し、1872年12月12日、外交および軍事顧問として明治政府に雇用された。1873年2月、副島は1871年10月に台湾で起きた琉球漁民殺害事件の処理交渉の特命全権公使兼外務大臣として北京へ派遣されたが、ルジャンドルもこれに参加。この交渉は部分的に成功し、ルジャンドルは引き続き1874年の台湾出兵の準備を手伝っている。1875年に明治政府から勲二等旭日重光章を授与された。外国人として最初のものであった。その年の末、外交および軍事顧問の職を辞した。彼は1890年までわが国に滞在し、大隈重信の個人的な顧問を務めた。その後、1890年から1899年まで、朝鮮王高宗(1897年から大韓帝国皇帝)の顧問を務めた。「花の橘屋」と呼ばれた十五代目市村羽左衛門(1874〜1945)は実子。ボローニャ大学から日本人初のディプロマを取得し、ミラノのスカラ座入団後にプリマドンナとして活躍した声楽家の関屋敏子(1904〜1941)は孫にあたる。彼女は自ら作曲した『野いばら』の楽譜の裏表紙に遺書を遺し、睡眠薬で自殺してしまう。37歳であった。
関屋敏子は、三十八歳で今散りましても、桜の花のようにかぐわしい名は永久消える事のない今日只今だと悟りました。そして敏子の名誉を永久に保管していただき、百万年も万々年も世とともに人の心の清さを知らしむる御手本になりますよう、大日本芸術の品格を守らして下さいませ。— 関屋敏子、遺書


横道にそれてしまった。軌道修正しよう。明治日本が台湾へ派兵したのが1874年。その翌年1875年9月20日の雲揚号事件を契機として、日朝修好条規を結ばせて清国の宗主権を否定させることに成功。ここまで極東情勢を逼迫させたメイン・ファクターは、アヘン戦争(1840〜1842)とアロー戦争(第2次アヘン戦争:1856〜1860)であった。この2つの戦争で英国は中国に麻薬貿易を認めさせ、利権を手にした。これらの戦争で財を成したのは、1832年設立のジャーディン・マセソン商会(Jardine Matheson Holdings Limited)であった。アヘンの密輸と茶の英国への輸出を設立当初の主な業務にしていたこの会社は、創設から180年たった今日も、アジアを基盤に世界最大級の国際コングロマリット(複合企業)として影響力を持っている。1859年、上海支店にいた英国人ウィリアム・ケズィック(1834〜1912)が横浜に「ジャーディン・マセソン商会」横浜支店を設立したが、これは日本に進出した外資第1号。後に吉田茂の養父・吉田健三が一時期、同社横浜支店長を勤めていたことを想いだす人は少ない。ウィリアム・ケズウィックは1863年、長州藩の名の下で、井上聞多(馨)・遠藤謹助・山尾庸三・伊藤俊輔(博文)・野村弥吉(井上勝)の長州五傑を支援して英国へ送り出した。渡航にはジャーディン・マセソン商会の船が使われていた。

その一方、長崎は、1859年9月19日にトーマス・ブレーク・グラバー(1838〜1911)が「ジャーディン・マセソン商会」長崎代理店として「グラバー商会」を設立。その他、神戸・大阪・函館にも代理店を置いた。彼は五代友厚・森有礼・寺島宗則・長澤鼎(以上、薩摩)・坂本龍馬(海援隊)・岩崎弥太郎(三菱財閥)らの海外留学を支援。また上記、長州五傑の英国渡航の手引きもしている。彼は1868年の明治維新後も造幣寮の機械輸入に関わるなど明治政府との関係を深めるも、武器が売れなくなったことや諸藩からの資金回収が滞ったことなどで1870年グラバー商会を破産させた。彼自身は高島炭鉱(後に官営)の実質的経営者として日本に在留。1881年、官営事業払い下げで三菱の岩崎弥太郎が高島炭鉱を買収してからも所長として経営に当たった。1885年以降は三菱の相談役としても活躍。経営危機に直面していたスプリング・バレー・ブルワリーの再建参画を岩崎に勧め、後の麒麟麦酒(現、キリンホールディングス)の基礎を築いた。

司馬遼太郎(1923〜1996)は、司馬史観と呼ばれる立場で歴史を小説化した心優しい作家であった。その文学的創造が多くの日本人に支持されたにもかかわらず、既に色あせているのは歴史の真実を描いていないからだろう。人知を越えた部分の情報をすべてオミットして、彼は日本のかたちを語ってしまった。明治初期を生きた人々を描いても、フリーメイソンには触れることはなかった。また、日露戦争のときの参謀として千里眼の持ち主としても知られた秋山真之という人物のことを描く際にも、その宗教的遍歴や大地震の予言騒動などスピリチュアル面での彼の特性にはほとんど触れようとはしなかった。興味がある方は、浅野和三郎著「大本霊験秘録」(1997年・八幡書店刊行)の『冬籠』をご覧いただきたい。また、「歴史の中の日本」(中公文庫)には『生きている出雲王朝』と題されて昭和36年に書かれたものがある。出雲大社の神職の家系につながる人物である新聞社時代の同僚W氏から口伝としてあると教えられた出雲族側の大和朝廷による出雲族の征服の情報について記しているが、知り得たことをすべて書き残してはいないようだ。スピリチュアルな世界をスポイルし、真実から離れたつくりものの歴史を私たち日本の民衆にプリントしたのであった。

また、維新政府の元勲たちは、暗殺者であり、今風に言い換えるならテロリストであり、その行動の結果として権力を手にした人々であった。彼らには、この日本を外国に売ったという劣等意識はなかったようだ。自分たちの政治的な保身目的で1889年にプロシア風の欽定憲法を制定。第11条にある「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」という条文に、統帥権すなわち軍事作戦に関する命令・実行の権限は行政・司法・立法から独立していることを保障しているとする憲法解釈を許容した。この法的な不完全さが、結果、政戦略(国家戦略と軍事戦略との整合性)の不一致、しいては制御不能の軍部を生み出し、1945年の敗戦へとわが国を導いてしまった。不思議なことだが、この責任が問われることはなかった。先の大戦後の日本の天皇の在り方がマッカーサーによって守られたのは、そのシステムを保持することで、合衆国が間接統治できるという功利(utility)を優先した結果であった。

〔声0歐靴ら1945年の敗戦まで、1945年8月から2014年8月まで、そして、2015年4月の今上陛下のパラオ訪問実現からの時空の流れを、ゆとりをもってレヴューできる時代に私たちは生きている。太平洋戦争と名付けられた、合衆国と日本の間の戦争は、今年、真に終わろうとしている。

今日から始まる今上陛下のパオラ共和国ご訪問。80歳を超えられている陛下にとっては、「太平洋戦争」の激戦地であるペリリュー島への鎮魂の旅が、ここ10年来の悲願であった。この思いを私たち日本の民衆も共有したい。鎮魂の時期を静かに穏やかに過ごしたい。
御日程の概要
4月8日(水) 東京 御発
        バベルダオブ島 御着(パラオ国)
        コロール島 御着
4月9日(木) ペリリュー島 御着
        バベルダオブ島 御着
        同地 御発
        東京 御着   


大きな笑顔の佳き水曜日を  感謝
ペリリュー島

おはようございます。

窓から入る風が、ヒンヤリと氣持ち良い朝。
6月に入りました。

さあ、今朝は久々に最近考え、知ったことをお伝えします。
長文になると思われますが、おつき合いいただければ幸いです。

カトリックでは、5月はマリア様に捧げられた月。日本では「聖母マリア」という表現が好んで使われる。ヨーロッパでは、Holy Mother(聖母)よりむしろthe Virgin Mary(処女マリア・童女マリア)、Saint Mary(聖女マリア)、Our Lady(我らが貴婦人)などと呼ぶ方が多いだろう。他に、the Queen of Graceやthe Holy Mother of Jesus Christも聖母マリアを意味する表現だが、使用頻度は少ないに違いない。

なぜ、日本では「聖母」という表現がマリア様に対して好んで使われるのだろうかと考えていたところ、日本正教会(Orthodox Church in Japan)は聖母という表現を用いず、英語のTheotokosに相当する日本語、「生神女(しょうしんじょ)」「生神女マリヤ」「生神女マリア」を使っていることを知った。生神女マリアを単に聖母マリアという語に限定してしまうのは誤りだという。

これを知った翌日、漢語に「聖母」という言葉があり、人格の優れた尊崇される人の母を意味することが分かった。また、人徳を極めた女性に対する敬称としても使われる。そして、神功(じんぐう)皇后(成務40年〜神功69年4月17日)が聖母(しょうも)とも呼ばれることを、真鍋大覚氏の『儺の国の星』の一文により知る。以下に引用。

 遠く『山海経』の頃から「女を以て主となす」が倭人の家の習いとして大陸に知られていたところを見れば、神代の昔は(双子座は)二人の兄弟姉妹よりも、母が我が子を抱き、子を負う姿に託していたと思われる。妹背星(いもせほし)ともよばれていた。
 聖母とは神功皇后で、応神天皇の生母であった。近世までは聖母様、あるいは聖母大明神として仏堂の観音像とならんで神祠の聖母像の女人の懐胎出産の祈りの対象であった。
 聖母の字はキリスト(紀元前4〜30)の母なるマリヤを直観させる。

 聖書が倭人に伝えられたのはザビエル(1506〜1552)に始まるが、当時の人に宣教師の説くマリヤがいかに映じていたかは不詳である。
 しかし、西海でキリシタン禁令の出る慶長17(1612)年までに、あれだけの爆発的多数の信者を集めた背景には、古来の聖母信仰が潜在的基盤を形成していたのかもしれない。
 基督(キリスト)教の信仰の自由は明治6年(1873)年から再開されたが、昭和16年(1941)年から同20(1945)年の大東亜戦争の間は、事実上の耶蘇教禁止にほかならなかった。
 そして終戦の冬には神道仏教のいかんにかかわらず、九州はどこの僻地もありあわせの食膳でささやかながらも聖誕祭を祝ったことは、今なお記憶に新たなところである。
 聖母の名は島原の乱以後の近世の神社からは聊(いささ)かも抹殺されなかった。
 宗門改め(しゅうもんあらため)の認定尋問が年毎に行われていても、聖母様の祭日なる陰暦12月14日には神官氏子こぞっての団欒がお火焚祭(おひたきまつり)の形で続いていた事実は史家の氣付かぬところでもある。
※「ひもろぎ逍遥」http://lunabura.exblog.jp/18639312/より転載

神功皇后は、第12代景行天皇の子・日本武尊(やまとたけるのみこと) 第二子の第14代仲哀(ちゅうあい)天皇の皇后。『日本書紀』(720年完成)では氣長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)・『古事記』では息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)・大帯比売命(おおたらしひめのみこと)・大足姫命(おおたらしひめのみこと)皇后。父は開化天皇玄孫・息長宿禰王(おきながのすくねのみこ)で、母は天日矛裔(あめのひほこのすえ)・葛城高顙媛(かずらきのたかぬかひめ)。彦坐王(ひこいますのみこ)の4世孫、第15代応神天皇の母であり、この事から聖母(しょうも)とも呼ばれる。

『日本書紀』は、天皇一代ごとに冒頭に天皇の名を記し、その治世の事績を年代順に記す、という構成をとっている。原則的には天皇一代につき1巻。神功皇后(氣長足姫尊)は、他の歴代天皇と同様に巻頭に名を記され、「卷第九」を割り当てられている。水戸藩の『大日本史』では、神功皇后は本紀から除外されて后妃伝に入れられ、天皇としては扱われていない。明治以降、南朝が正統されたのは、この『大日本史』の影響とされるが、神功皇后が歴代天皇から外されたのは、歴史的伝統より儒教の大義名分論を重視した結果であろうか。なお、1060年完成の『新唐書』(中国の唐代の正史・1060年完成)に「神功天皇」の名がある。平安時代の前半には、大足姫(氣長足姫)に対して「天皇号」が諡(おく)られたからであろう。ちなみに、「卷第十」は誉田天皇(ほむだのすめらみこと)・応神天皇(第15代)、そして「卷第十一」が大鷦鷯天皇(おほさざきのすめらみこと)・仁徳天皇(第16代)。なお、彼は仁徳天皇87(399)年1月16日(2月7日)に没したが、原本は現存せず幾つかの写本が伝わる『古事記』(712年)では「この天皇の御年、八十三歳( やそじまりみとせ )丁卯の年の八月十五日に崩(かむあが )りましき」と記されている。
(※)生前の行跡に基づいて死後に贈られた名を「諡」(おくりな)という。7世紀の後半から中国の慣習に習い、日本でも採用。諡を贈ることは天皇の大権の一つとされた。なお、天皇在世中の名を「諱」(いみな)という。

さて、『儺の国の星』の著者・真鍋大覚氏は実に興味深い人物なので、彼の業績を日本社会に敷衍(ふえん)して論じたい。

航空工学者にして暦法家であった真鍋大覚氏(1923年5月〜1993年)は、福岡県筑紫郡那珂川町に生まれた。福岡県中学修猷館、九州大学工学部を卒業し、九州大学工学部航空工学科助教授を務めた。専門は航空機運動安定論。専門分野以外での多様な研究でも知られ、1976年には既に1966年に発見されていた屋久島に自生する最大級の屋久杉を、過去に伐採された周辺の屋久杉のデータと氣候データなどをもとに、樹齢を7,200年と推定した。以後「縄文杉」と呼ばれるようになった。だから、縄文杉は種の名称ではなく、植物の個体に付された名。その後の調査で古木の周囲を3本程度の若い木が融合して包み込んでいる合体木である可能性が浮上し、外側の若い木の部分の年代測定では樹齢約2,700年と判定された。現在は、縄文杉の樹齢は古くとも4,000年以上はさかのぼらないとするのが定説。

彼は1980年、九州各地のボ−リングでのハイガイ化石調査による放射性炭素年代測定を元に、以下のような古代九州の詳細な地形図を発表し、後の古代史研究に影響を与えた。

1) 博多湾と有明海は太宰府付近を瀬戸にしてつながっていた。
  真鍋氏はこれを「針摺瀬戸(はりずりのせと)」と命名。
2) 福岡平野、筑紫平野は海底にあり、福岡地方は群島だった。
3) 島原半島は雲仙岳をいただく大きな島だった。
(※)さだまさしは、アルバム『うつろひ』(1981年6月)に収録した古代史研究家宮崎康平への鎮魂歌『邪馬臺』の中で、「針摺瀬戸」と書いて「かいきょう」と読ませた。

また、彼は元奈良市長・元衆議院議員である鍵田忠三郎(1922〜1994)に協力し、「放射状の雲は震源を指し、近くでは長時間滞空し遠地では短い。波紋状の雲が同心円上に出る時は垂直方向が震源となる」という地震の震源捕捉法を考案し、地震雲を世に伝えた。なお、鍵田氏は1960(昭和35)年、先の大戦の敗戦の日である8月15日に慰霊する為、奈良東山の高円山に奈良大文字を創始した人としても知られている。

真鍋家では代々、暦を編纂していた。暦を作るためには、太陽・月・星を観測し、歳差運動を知る必要がある。暦の編纂者は地震や台風、日食などの予知もしていた。生まれ故郷・那珂川町の依頼で彼はそれを本にして世に出した。『儺の国の星』(1981年)と『儺の国の星 拾遺』(1982年)である。絶版となっている。本書は失明を押して口述筆記したもので、昔の記憶を辿りながらであるためだろうか、難解な文脈である。彼の祖先である物部氏に伝わる伝承が根底にあるという。古代日本の謎を究明する学徒にとっては、必読の2冊。

他の著作に関しては、「国立国会図書館サーチ」(http://iss.ndl.go.jp/に「真鍋大覚」と入れ検索すると知ることができる。
(※)検索結果に『独逸語訳古事記』がある。この翻訳事業は、1926年のドイツ・日本研究所(ベルリン)設立の際に、日本の古典である『古事記』のドイツ語翻訳という提案が成されたことに起因する。当時、ドイツの大学に留学した日本人の中に、後の香椎宮宮司となる木下祝夫氏(1894〜1980)がいた。彼は唯一の國學院大學出身者であったことから、この仕事を任されることになった。1929年、高松宮宣仁親王より、著述出版費として有栖川宮奨学金が与えられた。これにより、彼は1930年以降、『古事記』関係の資料を蒐集し、『古事記』の諸本を求めて全国を訪ね歩いた。真鍋大覚氏は彼の協力者であり、第4巻(天文暦象篇・1984年)と第5巻(国土地理篇・1986年)を香椎宮奉斎会より出版した。原文・ローマ字文・ドイツ語訳が記された丁寧な著作である。

話題を「聖母」に戻そう。真鍋氏は、筑紫の人々が双子座を見て、「神功皇后が皇子を抱く姿」を思い浮かべるのは、その潜在意識に「聖母マリアがイエスを抱く姿」があったからだと示唆する。そして、イエスは紀元前4年生まれで、応神天皇が紀元200年生まれ。この二人の誕生に200年の差しかないところから、聖書が編纂されるよりもかなり以前に「子を抱くマリアの姿」が筑紫に入っていたと試算した。

記紀(古事記と日本書紀)の神話が、新約聖書の情報を何らかの意図をもって内包しているのかもしれない。聖母マリアの血を受け継ぐ方が、「始めて天下を馭(ぎょ)した」天皇という意味の「はつくにしらすすめらみこ」として日本をおつくりになったとしたら・・・。今後、わが国の誰かが世界むけて何かを初めて知らすことになるだろう。神との契約という概念が不要なほどに、すめらみこ(皇)たちは捨石の如く生きる神意識そのものであったことも知っておきたい。
聖母@函館トラピスチヌ

閑話休題(それはさておき)


ハンガリー国王聖イシュトバーンがマリア様に王冠を捧げる絵画は、ハンガリー国をマリア様に捧げているという意味がある。イエズス会宣教師・フランシスコ・ザビエルは1549年8月15日に鹿児島の海岸に上陸。日本に着いた日が、聖母マリアの被昇天の祭日に当たっていたこともあり、彼は日本をマリア様に捧げた。他にも、キリスト教の世界では多くの場がマリア様に捧げられてきたと言われる。

これからの時代は、このマリア様を通じた天への捧げものの本質を見極めて、ブレイク・スルーしていくことが課題となりそうだ。この地球で生活する生身のすべての人間のためにあるはずのものを天に捧げるという口実で、多くの犠牲を出すならば、それはキリスト教世界の都合の産物であって、天やマリア様やイエスが望んだものでないことは明らかだ。そもそも、天にはすべてのものがあるのだから。天やマリア様やキリストのためにではなく、苦しんでいる人々のために還すことが、捧げものの本当の目的であり、神の国のあり方だ。

人間が神の子であるならば、「神の国」というものを、この現実の世にあらわす能力が与えられている。その意味で、「ルカによる福音」にあるイエスの発言(17:20〜21)は示唆に富んでいる。
神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、「神の国は、見られるかたちで来るものではない。 また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」。

2000年前には、イエスはひとりであったかも知れないが、今は、望むなら誰でもイエスと同じはたらきをすることができる時代に、私たちは活かされ役割を担っている。

戦争は、近代文明における「紛争解決の最終手段」に名を借りた、暴力と流血に過ぎない。にもかかわらず、戦争を神の如きものとして認めてしまった人間たちが、この世界のリーダーのような顔をして生きている。この現実を変えることができるのは、彼らに対する暴力ではなく、私たち一人ひとりの信仰。それは、偶像崇拝しているに過ぎない今日的な宗教レベルの異質な信仰などではない。知識・名誉・地位などを道具とした自己顕示欲や他者から認知されたいといった欲求のようなレベルでは計れない、私たち一人ひとりにある大きな天命というものだろう。生きている間に、己が天命に素直にお役目を果たすために生きたい。お役目が果たせないでいるならば、今ある場から抜け出すには、何をして、何をなさずに何をするのかを熟慮して、奈落の底へのベクトルを光明へと向かわせたい。さもなければ、この地球の資源を自分のものだと主張するようなヘンテコリンな連中が、悪意を以てヨハネの黙示録をシナリオとして機能させる協力者にもなりかねない。神や神々といった意識体ではない、人間を乗り物として使える意識体にこころを奪われ宿されて、好戦的なこころを産み出されることは回避したい。こころを彼らに明け渡しても、自分の人生のように錯覚しながら生き続けることも可能だ。しかし、それは自分にとっての本当の人生ではない。再度、自分という人間を見直し、見極めてみよう。そして、何かを求め続けるこころが、何かを宿らす隙を与えることも知っておこう。また、私たち人間のこころは場を共有でき、場を形成することができる。特定の閉ざされた集団でのみ役割を味わう意識体なのか、すべての人々の身霊(みたま)に役割を担い光明をもたらすものなか、を見極めたい。私見によれば、福音の本来の目的は、この事実を知らしめることであり、私たちが理解できるものである。

私たち一人ひとりは、自分の人生のなかで、自分がどこから来て、どこへ行こうとしているのかを、自ら見つけ出すことができるように仕組まれている。その仕組みがスイッチ・オンになったなら、自分の歩いた道の後に続く人々のために、今の自分のお役目があるということを自覚できる。そして、もし自分が立ち止まってしまうなら、闇(darkness)が追い憑いて来るくるという実感を持ちながら、光明(light)のものとして生きて道を歩みたい。「汚れなきマリアの軍隊」を創建した意識もこのようなものであったに違いない。

世界は今、各国が同時株高でもって数字としてのマネーが満ち溢れている。その一方で、貧困は確実に拡大している。戦争を望む者たちが活氣づいているようだが、戦争は何も与えてはくれはしない。私たちには、光のものとして、天の道(天命)を歩むものとして、立ち止まることなく歩きつづける勇氣が求められている。この勇氣を知ることも、愛なのかもしれない。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。

大きな笑顔の佳き6月を

SunSunの朝陽を浴びながら  感謝

日本は、あらたに長い道のりを歩きはじめた。昨日で、東日本大震災から1年となった。死者・行方不明者は約2万人、全半壊した家屋が約50万戸と未曾有の大災害をもたらした。テレビでは震災関連番組が多数放映されていた。この節目に、行政当局の対応や連携の不備を知って、このような惨事を招いてしまった人災面での課題を抽出・解消し、二度と同じパターンで犠牲者がでない仕組みを考え創りたい。そこまで行ってはじめて、犠牲になった皆さんの鎮魂、救いとなる。これからも抱えていかなければならないものがたくさんある1年が始まった。


今上陛下は昨日の合同慰霊祭へ出席なさるために、迷うことなく早期に命懸けの心臓手術に挑まれたのだろう。陛下の脳裏は3・11東日本大震災のことで占められていたので、手術を合同慰霊祭以降に延ばすことに安心できなかったのかも知れない。さて、陛下のおことばには現実直視の大切なポイントが含まれていたが、テレビではその部分を故意に省いているようなので、昨日のおことば全文を以下に記す。


天皇陛下のおことば

東日本大震災1周年追悼式
平成24年3月11日(日)(国立劇場)

東日本大震災から1周年,ここに一同と共に,震災により失われた多くの人々に深く哀悼の意を表します。

1年前の今日,思いも掛けない巨大地震と津波に襲われ,ほぼ2万に及ぶ死者,行方不明者が生じました。その中には消防団員を始め,危険を顧みず,人々の救助や防災活動に従事して命を落とした多くの人々が含まれていることを忘れることができません。

さらにこの震災のため原子力発電所の事故が発生したことにより,危険な区域に住む人々は住み慣れた,そして生活の場としていた地域から離れざるを得なくなりました。再びそこに安全に住むためには放射能の問題を克服しなければならないという困難な問題が起こっています。

この度の大震災に当たっては,国や地方公共団体の関係者や,多くのボランティアが被災地へ足を踏み入れ,被災者のために 様々な支援活動を行ってきました。このような活動は厳しい避難生活の中で,避難者の心を和ませ,未来へ向かう気持ちを引き立ててきたことと思います。この機会に,被災者や被災地のために働いてきた人々,また,原発事故に対応するべく働いてきた人々の尽力を,深くねぎらいたく思います。

また,諸外国の救助隊を始め,多くの人々が被災者のため様々に心を尽くしてくれました。外国元首からのお見舞いの中にも,日本の被災者が厳しい状況の中で互いに絆(きずな)を大切にして復興に向かって歩んでいく姿に印象付けられたと記されているものがあります。世界各地の人々から大震災に当たって示された厚情に深く感謝しています。

被災地の今後の復興の道のりには多くの困難があることと予想されます。国民皆が被災者に心を寄せ,被災地の状況が改善されていくようたゆみなく努力を続けていくよう期待しています。そしてこの大震災の記憶を忘れることなく,子孫に伝え,防災に対する心掛けを育み,安全な国土 を目指して進んでいくことが大切と思います。

今後,人々が安心して生活できる国土が築かれていくことを一同と共に願い,御霊(みたま)への追悼の言葉といたします。


http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/okotoba/okotoba-h24e.html#D0311より


閑話休題(それはさておき)


先週の土曜日、『自衛隊だけが撮った0311』という特集がフジテレビで放映された。


初老の女性は「お兄ちゃん、もう先に行って。あたし、もうだめだから」と言ったのに対し、自らも濁流に流されていた自衛官Aは「何を言ってるんだ。諦めちゃだめだ!」と自らのダウンジャケットの浮力で浮いている状態で彼女の襟首を持って共に津波に流された。女性を脇に抱え、流されている途中、さらに流されてきた男性を抱え、両脇に2人を抱えて民家の2階に辿りつき救助し、一時避難した。窓から外を眺めると、津波に流される人や民家に孤立した人の救いを求める叫び声が聞こえる。彼は再び濁流の中に戻ろうとする。救われた2人は「あんた、こんな中を出て行ったら危ないよ!」と忠告するが、「放っておけない。氣になるから」と彼は再び濁流の中に出ていった。ちょうど流れていた木材の大きな梱包材につかまり上に上がり、浮舟として移動した。

驚くべきことに自衛官Aが一晩中かけて濁流から助けた人は18名。その誰もが、自衛官Aの名前を生涯忘れることはないと言う。


「18」という数は、水に心を向かわせる。

人の1分間の呼吸回数は9。息を吸う回数と吐く回数は合わせて18。もちろん個人差はあるが、この18は2倍にすると36で体温になり、さらに2倍した72は人の脈拍数となる。そのまた2倍の144は最高血圧の目安でもあるし、干支のひとまわり144ヶ月でもある。さらにまた2倍の288は胎児が羊水に包まれている日数である。(今は栄養事情等の関係でもう少し短い)

『水は、方円の器に従う』と言う。

水は器を選ばない、色も素材も柄も一切を考えることなく、合わすことができる。

自我がないからこそ、可能なこと。

見ていると、氣になりはじめ、動かずに入られなかった、自衛官Aの姿に神威を感じる。神といえども、この世のことは人や他の生き物を使って関わるしかない。最後に動かすのは、身体(神体)のある私たち自身である。ジットしているだけでは、何も変わらない。自ら助くる者が助けられる。その必要条件は、水のように自我がないこと。


自ら学ぶ  ⇔  水から学ぶ


昨日は、世界各地で追悼式、脱原発の集会、デモ等があった。各人の3・11がある。

みんなそれぞれに抱えるものを受けて、動き、歩み始めた1年目である。


さあ、大きな笑顔で参りましょう。

感謝



【おまけ】
弥勒(ミロク)の369または567も足すと「18」となる。
「瑞(みず)から学ぶ」という意味もあるに違いない。(以上)

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